カテゴリ:初めにとまとめ の目次
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2011/04/03
14:48:59
わたしが本文で使う言葉の意味で随時追記する。
(人間)
感覚器官が指し示す感覚に従いわたしが行為していると
疑いを持たない者を人間と呼ぶ。
人間は条件によって心の動きが左右されており、それが苦しみの原因である。
心が主、人間は奴隷である。
(人の子)
感覚器官が指し示す個人という感覚は残るものの全体だけが存在し
わたしという個人もわたしが行う行為も実は存在してはいないと
理解している者を人の子と呼ぶ。
人の子は条件によりわずかに心が動くものの全体しか存在しない
と言う理解が心を静める。仏教的に言えば菩薩である。
(覚者)
感覚器官が指し示す個人という感覚自体を消滅させた者を悟りになったもの
光明を得た者、覚者、神、仏等と呼ぶ
このような存在は、もはやこの世のものではない真如(tathā)から来るもの、
如来と言える。
この様な存在はどの様な行為を行っても心の動きの原因となる、わたしを持っておらず、
心は完全に停止している。
(人間)
感覚器官が指し示す感覚に従いわたしが行為していると
疑いを持たない者を人間と呼ぶ。
人間は条件によって心の動きが左右されており、それが苦しみの原因である。
心が主、人間は奴隷である。
(人の子)
感覚器官が指し示す個人という感覚は残るものの全体だけが存在し
わたしという個人もわたしが行う行為も実は存在してはいないと
理解している者を人の子と呼ぶ。
人の子は条件によりわずかに心が動くものの全体しか存在しない
と言う理解が心を静める。仏教的に言えば菩薩である。
(覚者)
感覚器官が指し示す個人という感覚自体を消滅させた者を悟りになったもの
光明を得た者、覚者、神、仏等と呼ぶ
このような存在は、もはやこの世のものではない真如(tathā)から来るもの、
如来と言える。
この様な存在はどの様な行為を行っても心の動きの原因となる、わたしを持っておらず、
心は完全に停止している。
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2011/05/04
21:39:59
裁かれるべき者がいると言う事は、個人があり自由な判断の元に行われる
行為が存在すると言うことを前提としている。
宇宙(世界)は近くのものから遠くのものへ影響を与え合って繋がって
生滅変化している。そこに独立した個(我)と言う物は無く、
全体(一者)の流れだけがあると言うのに一体何処に裁かれるべき
者がいるのだと言うのか。
・因果
因果とは全てはつながって生滅変化している事の縦糸だけを抜き出した物であるが
ここでは因果があるのか無いのかはおいて置くとして因果と言う見地から見てみる。
因が結果を生み結果が因となり次の結果を生む現在は過去に縛られているのである。
そこに自由と言うものは存在はしていない。
この視点から見ても自由な判断で行われる裁かれるべき者はいないのである。
・人間的見方
人間は選べる道は複数あると感じているが、果たしてそれが真実なのだろうか。
過去を考えてごらん。選んだ道は常に一本の道である。その時その道以外を
選べたのだろうか。後から考えると間違いだったと思っているかもわからないが、
その時は最善であると思ったからその道を選んだのである。
人間が何を行うかは、内側と外側の条件により決まっている。
例えて言えば、内側の条件とは自我の凸凹である。世界が自我の凸凹に反射し
自我の凸凹に沿った思いが表れるのである。
この内外の条件とは瞬間、瞬間、変化しており常に異なる条件なのである。
だから人間には後悔や迷があるのである。
今ならあのような事は行わないのにと悔やむ事もあるだろう。
条件が変化する毎に思いも変化するからである。
最善な事を選んだと言ったが真実はつながりの中で何かにそうせざるおえない
ように強いられているのである。
それを選ぶ条件がそろった時は決してそれしか選ぶことはできないのである。
その時それを行うことを何かに強いられている自分がいるのである。
そこに自由意志という物が入る余地は無いのである。
これを人間が好きな実験をすることは出来ない。
条件は瞬間、瞬間、変化するからである。
条件により現れる思いにより人間は従っているのであって、自由意志と
言うものではない。
感覚器官が指し示す個人(我)がいると言う錯覚と同じ自由意志があると言う感覚も
錯覚なのである。
このような見地から見ても自分の意志で自由に行える悪事と言うものは存在していない
故に、裁かれるべき者はいないのである。
・不調和の世界も神仏(全体)の世界である。
人間は感覚器官が指し示す、宇宙から分離した個人が(我)が存在すると言う
錯覚により自我を作り上げている。
自我からたち現れる思いはどの様な思いであっても自我の性質上自己中心的物である
自己中心的思いお持つ沢山の個人が作り上げる世界は不調和の世界であるがこの
苦しみの要因を作りあげる不調和の世界も心の進化の為に必要だから存在している
この苦しみの要因に満ちた世界も、全体の流れの中でこの先に行く為には必ず
通る必要があるのである。この不調和の世界も神仏の世界なのである。
この様な見地からしても裁かれるべき者はいないのである。
・人間は本来汚れとは無縁である。
人間の本性は汚れをしらない。汚れるように見えるのは錯覚により作られ
絶え間なく続く個人と言う思いにより維持されている。
自我その物は存続する力を持たないのである。
個人と言う思いが消え去れば自我は勝手に消え去るのである。
この自我も宇宙のつながりの中で現れているのであり、
誰かの責任ではない。
自我と言うものは自我とは私ではないと気づかれる為にのみ存在している
何時かは誰でもそれに気づくのである。それが進化であり悟りなのである。
どの様な視点から見てもこの世に裁かれるべき者は存在してはいないのである。
犯罪者を裁くと言うことも含めてどの様な裁きも私は反対するのである。
ただ忘れてはいけない、裁く者をも裁かれる者をも裁くべきでは無いことを。
教えは教え現実は現実と言う二つの真実は必要ないのである。
行為が存在すると言うことを前提としている。
宇宙(世界)は近くのものから遠くのものへ影響を与え合って繋がって
生滅変化している。そこに独立した個(我)と言う物は無く、
全体(一者)の流れだけがあると言うのに一体何処に裁かれるべき
者がいるのだと言うのか。
・因果
因果とは全てはつながって生滅変化している事の縦糸だけを抜き出した物であるが
ここでは因果があるのか無いのかはおいて置くとして因果と言う見地から見てみる。
因が結果を生み結果が因となり次の結果を生む現在は過去に縛られているのである。
そこに自由と言うものは存在はしていない。
この視点から見ても自由な判断で行われる裁かれるべき者はいないのである。
・人間的見方
人間は選べる道は複数あると感じているが、果たしてそれが真実なのだろうか。
過去を考えてごらん。選んだ道は常に一本の道である。その時その道以外を
選べたのだろうか。後から考えると間違いだったと思っているかもわからないが、
その時は最善であると思ったからその道を選んだのである。
人間が何を行うかは、内側と外側の条件により決まっている。
例えて言えば、内側の条件とは自我の凸凹である。世界が自我の凸凹に反射し
自我の凸凹に沿った思いが表れるのである。
この内外の条件とは瞬間、瞬間、変化しており常に異なる条件なのである。
だから人間には後悔や迷があるのである。
今ならあのような事は行わないのにと悔やむ事もあるだろう。
条件が変化する毎に思いも変化するからである。
最善な事を選んだと言ったが真実はつながりの中で何かにそうせざるおえない
ように強いられているのである。
それを選ぶ条件がそろった時は決してそれしか選ぶことはできないのである。
その時それを行うことを何かに強いられている自分がいるのである。
そこに自由意志という物が入る余地は無いのである。
これを人間が好きな実験をすることは出来ない。
条件は瞬間、瞬間、変化するからである。
条件により現れる思いにより人間は従っているのであって、自由意志と
言うものではない。
感覚器官が指し示す個人(我)がいると言う錯覚と同じ自由意志があると言う感覚も
錯覚なのである。
このような見地から見ても自分の意志で自由に行える悪事と言うものは存在していない
故に、裁かれるべき者はいないのである。
・不調和の世界も神仏(全体)の世界である。
人間は感覚器官が指し示す、宇宙から分離した個人が(我)が存在すると言う
錯覚により自我を作り上げている。
自我からたち現れる思いはどの様な思いであっても自我の性質上自己中心的物である
自己中心的思いお持つ沢山の個人が作り上げる世界は不調和の世界であるがこの
苦しみの要因を作りあげる不調和の世界も心の進化の為に必要だから存在している
この苦しみの要因に満ちた世界も、全体の流れの中でこの先に行く為には必ず
通る必要があるのである。この不調和の世界も神仏の世界なのである。
この様な見地からしても裁かれるべき者はいないのである。
・人間は本来汚れとは無縁である。
人間の本性は汚れをしらない。汚れるように見えるのは錯覚により作られ
絶え間なく続く個人と言う思いにより維持されている。
自我その物は存続する力を持たないのである。
個人と言う思いが消え去れば自我は勝手に消え去るのである。
この自我も宇宙のつながりの中で現れているのであり、
誰かの責任ではない。
自我と言うものは自我とは私ではないと気づかれる為にのみ存在している
何時かは誰でもそれに気づくのである。それが進化であり悟りなのである。
どの様な視点から見てもこの世に裁かれるべき者は存在してはいないのである。
犯罪者を裁くと言うことも含めてどの様な裁きも私は反対するのである。
ただ忘れてはいけない、裁く者をも裁かれる者をも裁くべきでは無いことを。
教えは教え現実は現実と言う二つの真実は必要ないのである。
2011/07/03
18:07:09
まとめと中道
ここら辺でまとめておくことにする。
わたしが語ることの全てはここに書かれている。
-------------------------------------------------------
自分にあたえること、自分からうばうことを止める
来るものは来るに任せ去るものは去るに任せる
求めないこばまない
全てをあるがままに任せる
-------------------------------------------------------
この状態を実現するためには、
求めることと避けることを止めることである。
好み求めることと嫌い避けることを
止めることである。これは我慢をすることではない。
邪見を正見に変えることで自然にそうなることである。
宇宙の道理、理法の理解を深めるだけであり。
そのほかには何もする必要が無いのである。
好み求めることと嫌い避けることとは
共に執着により現われるのである。
あるがままの今に満足できないから
求めるのであり避けるのである。
来るものは来るに任せ去るものは去るに任せるとは
自分を運転しないことであり
あるがままにあることであり
無心であることであり
不動の心を持つことであり
サマディーであることであり
中空の竹であることであり
空っぽの風鈴となることであり
自我の死であり
神に全てを任せることであり
また投身である。
好み求めることと嫌い避けることを止めた時現われるのが中の道、
中道である。
求めることと避けることを止めれば極端に近づくことは無いのである
中の道とは求めることと避けることを
止めた時現われる道である。
中の道は全てのこだわりを捨てた時に現われるものである。
中の道はこだわりを捨てて始めて成立するのである。
どの様な教えも方法もこの中の道に導くものである。
仏教の八正道も中の道であり八正道で得られる状態も中の道である。
八正道にこだわるならその人にとっては中の道では無くなる。
八正道とは求めることと避けることを止める為にある
中の道なのである。
好むことと嫌うことは共に執着によりおきる
執着は邪見によりおきる。
邪見は自我によりおきる。
自我は感覚器官が指し示す個人と言う印象によりおきる。
非我であるものを感覚器官が与える印象により我と見なすと言う
錯覚により自我(野心)は現われる。
感覚器官は生によりおきる。
生は無明によりおきる
無明は存在は知識だが全てが含まれる故に無知だからおきる。
知識だが無知故に意識は対象に外に向かう
これが生である。
言うなれば我々は初めから悟りであり完全な知識であるが
それを知らないから知るために生まれるのである。
存在は初めの一者は一者であるが故に対象も外も存在していない
この時一者の分離されていない分離が起きるのである。
分離されていない分離故に全ては互いに影響を与え合い
つながって生滅変化する世界が現われるのである。
宇宙の一切は互いに影響を与え合いつながって生滅変化している
一つのものであり分離されあ事物は無く全ては非我であり故に
我々は無我なのである。
宇宙の一切は非我であり、我々は無我なのである。
感覚器官の与える印象で宇宙の一部であり全体であるものを
我(個人と)思ってしまうこれが邪見である。
個人と思うことにより野心(自我)が生まれる
正しくものを見ることにより個人と言う意識を捨てて
個人の損得を捨てることが必要なのである
正しくものを見ることが執着の根本である我執を無くすのである。
この世の全ては条件により存在しており、決まった形を持ていない
ある意味では、輪廻は存在せず、ある意味では輪廻は存在する。
ある意味では人間は束縛されていてがある意味では束縛はない。
ある意味では迷いがありある意味では迷いは存在しない
ある意味では自由があり、ある意味では自由は存在しない。
ある意味では因果のほ法があり在る意味では因果の法はない。
ある意味では世界が存在し在る意味では世界は存在しない。
何事にもこだわる人から見れば馬鹿げていると感じるかもしれない
輪廻は無明が条件でおきている。
束縛はこだわりが束縛であり、こだわりは又無明により現われる。
迷いも無明から生まれる。
自由意志は個人があって存在するが個人は無明から現われる
因果は相対の世界の中にだけ存在する。
彼岸は過去現在未来が一ヶ所にありしたがって原因と結果は無い。
心が静まれば世界は存在しない世界は心の中にだけ存在する。
宇宙の一切は在るとも無いとも言えるものではない。
断定して論争をするのは馬鹿げているのである。
一切は条件により存在しているからである。
条件が無く我々が輪廻し、束縛があり迷いがあり
苦があり無明があるなら、我々はそれを超越することは出来ないのである。
条件があるからこそ条件を変えることで超越が可能なのである。
輪廻に束縛に迷いに苦しみは条件により存在している在るとも無いとも
言える物ではないのである。
ある条件の中ではあると言えある条件の中では無いと言うものなのである。
我々は初めから悟りであり解脱であると言うことである。
条件により異なるものとなっていると言うことである。
条件を原因を取り去るだけで良いのである。
もし悟りが解脱が後から得るようなものであるなら
また失うものであると言うことである。
後から得るものは又失うのが道理だからである。
好むことと嫌うことを智慧により止める為には宇宙の道理、
理法を理解しなくてはいけない。全ての原因である無知を無くせば
良いのである。無知がなくなれば意識は対象に外に向かうのを止め
停止する。この停止が心の永遠の停止でありサマディーであり
不動の心であり他色々である。
どの教えが正しいかどの方法が優れているか迷い悩むのは止めなさい。
それを原因として論争をするのはばかげている
好み求めることと嫌い避けることを止めることに
結びつくことが正しいのである。
それが苦の原因だからである。
正しく観、正しく思い、正しい言葉を使い、正しい行動をする
正しくとは宇宙の理にかなうと言うことである。
その様に行った時、与えることと避けることを止め始め
心は停止し始めるのである。
完全に好み求めることと嫌い避けること止めたとき
あるがままを受け入れられる時。
サマディーが現われるのである。
ではサマディーや無心や心の停止や不動の心や運転しないことや
中空の竹等と言う状態は一体どのような状態なのか?
サマディーや無心などと言う言葉を聞くと乾いた味気が無い暗い
無表情な状態を思い浮かべることだろう。
実は全く異なるのである。
我々は子供のころは無邪気に何でも楽しめた
では何故大人になるに従い楽しめなくなるのか?
無心になれないからである。
何故無心に大人になるに従いなれなくなるのか?
背中に色々なことを背負っているからである。
では如何して背中に何かを背負ってしまったのか?
野心である。
我々は常に野心を持ちそれに沿った行動をしている。
求めること、避けることが背負っている重荷なのである。
自分のことを考えて現われる思いをわたしは野心と呼んでいる。
大人は大人らしくしなくてはいけないと言う思いも野心から
現われる。
これを人に見られたら恥ずかしいと言うのも野心から現われる。
その野心が人を大人に変えるのである。
邪気も野心から現われる。
野心は自我から現われると言うより自我は野心の集まりなのである。
利己的野心を取り去れば人は限りなく純粋になるのである。
無心とは野心を捨てることである。
即ち無邪気になることなのである。
だが子供の無邪気とは異なる子供の無邪気は何も知らないことから
現われるが無心の無邪気は宇宙の道理の理解から生まれるのである。
無心とは無邪気になることである。
無心だけが美しさを知ることが出来る
無心だけが今を楽しめる
無心だけが生を楽しめる
無心だけが生は何たるかを知ることが出来るのである。
中道を進む者は中道を選んでいるのではない
好むことと嫌うことを止めただけなのである。
こだわりを持った人から見ると中道を進む者をも
こだわっていると見える。
こだわりを捨てたことにより見えたことを語ることも
こだわりを持った人にとってはこだわりと見えるのである。
全てのこだわりを捨てなる。
好み求めることも止める
嫌い避けることも止める
えることと、うばうことを止める。
わたしが何を語ろうとそれは好み求めることと嫌い避けることを、
止めて頂く為にだけ語るのである。
即ち来るものは来るに任せ、去るものは去るに任せる。
あるがままにと言うことである。
来るものを認められず去るものを認められないから
もがきが生まれる、もがきは執着で現われる。もがきが苦しみなのである。
これを理解すればするほど何かを行う力が無くなるのです。
それは個人は野心により現われる欲の力を行動の力としているからです。
慈悲が無条件の愛が行動の力とならない限り好み求めることと嫌い避けることを
止めれば何をする力も無くなるのだが
また野心が消えるほど人は純粋になるのである。
全ての不純は野心から現われるからである。
何かをする力が出ないとは自我が我々を支配する力を失いつつあると
言うことなのである。
ここら辺でまとめておくことにする。
わたしが語ることの全てはここに書かれている。
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自分にあたえること、自分からうばうことを止める
来るものは来るに任せ去るものは去るに任せる
求めないこばまない
全てをあるがままに任せる
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この状態を実現するためには、
求めることと避けることを止めることである。
好み求めることと嫌い避けることを
止めることである。これは我慢をすることではない。
邪見を正見に変えることで自然にそうなることである。
宇宙の道理、理法の理解を深めるだけであり。
そのほかには何もする必要が無いのである。
好み求めることと嫌い避けることとは
共に執着により現われるのである。
あるがままの今に満足できないから
求めるのであり避けるのである。
来るものは来るに任せ去るものは去るに任せるとは
自分を運転しないことであり
あるがままにあることであり
無心であることであり
不動の心を持つことであり
サマディーであることであり
中空の竹であることであり
空っぽの風鈴となることであり
自我の死であり
神に全てを任せることであり
また投身である。
好み求めることと嫌い避けることを止めた時現われるのが中の道、
中道である。
求めることと避けることを止めれば極端に近づくことは無いのである
中の道とは求めることと避けることを
止めた時現われる道である。
中の道は全てのこだわりを捨てた時に現われるものである。
中の道はこだわりを捨てて始めて成立するのである。
どの様な教えも方法もこの中の道に導くものである。
仏教の八正道も中の道であり八正道で得られる状態も中の道である。
八正道にこだわるならその人にとっては中の道では無くなる。
八正道とは求めることと避けることを止める為にある
中の道なのである。
好むことと嫌うことは共に執着によりおきる
執着は邪見によりおきる。
邪見は自我によりおきる。
自我は感覚器官が指し示す個人と言う印象によりおきる。
非我であるものを感覚器官が与える印象により我と見なすと言う
錯覚により自我(野心)は現われる。
感覚器官は生によりおきる。
生は無明によりおきる
無明は存在は知識だが全てが含まれる故に無知だからおきる。
知識だが無知故に意識は対象に外に向かう
これが生である。
言うなれば我々は初めから悟りであり完全な知識であるが
それを知らないから知るために生まれるのである。
存在は初めの一者は一者であるが故に対象も外も存在していない
この時一者の分離されていない分離が起きるのである。
分離されていない分離故に全ては互いに影響を与え合い
つながって生滅変化する世界が現われるのである。
宇宙の一切は互いに影響を与え合いつながって生滅変化している
一つのものであり分離されあ事物は無く全ては非我であり故に
我々は無我なのである。
宇宙の一切は非我であり、我々は無我なのである。
感覚器官の与える印象で宇宙の一部であり全体であるものを
我(個人と)思ってしまうこれが邪見である。
個人と思うことにより野心(自我)が生まれる
正しくものを見ることにより個人と言う意識を捨てて
個人の損得を捨てることが必要なのである
正しくものを見ることが執着の根本である我執を無くすのである。
この世の全ては条件により存在しており、決まった形を持ていない
ある意味では、輪廻は存在せず、ある意味では輪廻は存在する。
ある意味では人間は束縛されていてがある意味では束縛はない。
ある意味では迷いがありある意味では迷いは存在しない
ある意味では自由があり、ある意味では自由は存在しない。
ある意味では因果のほ法があり在る意味では因果の法はない。
ある意味では世界が存在し在る意味では世界は存在しない。
何事にもこだわる人から見れば馬鹿げていると感じるかもしれない
輪廻は無明が条件でおきている。
束縛はこだわりが束縛であり、こだわりは又無明により現われる。
迷いも無明から生まれる。
自由意志は個人があって存在するが個人は無明から現われる
因果は相対の世界の中にだけ存在する。
彼岸は過去現在未来が一ヶ所にありしたがって原因と結果は無い。
心が静まれば世界は存在しない世界は心の中にだけ存在する。
宇宙の一切は在るとも無いとも言えるものではない。
断定して論争をするのは馬鹿げているのである。
一切は条件により存在しているからである。
条件が無く我々が輪廻し、束縛があり迷いがあり
苦があり無明があるなら、我々はそれを超越することは出来ないのである。
条件があるからこそ条件を変えることで超越が可能なのである。
輪廻に束縛に迷いに苦しみは条件により存在している在るとも無いとも
言える物ではないのである。
ある条件の中ではあると言えある条件の中では無いと言うものなのである。
我々は初めから悟りであり解脱であると言うことである。
条件により異なるものとなっていると言うことである。
条件を原因を取り去るだけで良いのである。
もし悟りが解脱が後から得るようなものであるなら
また失うものであると言うことである。
後から得るものは又失うのが道理だからである。
好むことと嫌うことを智慧により止める為には宇宙の道理、
理法を理解しなくてはいけない。全ての原因である無知を無くせば
良いのである。無知がなくなれば意識は対象に外に向かうのを止め
停止する。この停止が心の永遠の停止でありサマディーであり
不動の心であり他色々である。
どの教えが正しいかどの方法が優れているか迷い悩むのは止めなさい。
それを原因として論争をするのはばかげている
好み求めることと嫌い避けることを止めることに
結びつくことが正しいのである。
それが苦の原因だからである。
正しく観、正しく思い、正しい言葉を使い、正しい行動をする
正しくとは宇宙の理にかなうと言うことである。
その様に行った時、与えることと避けることを止め始め
心は停止し始めるのである。
完全に好み求めることと嫌い避けること止めたとき
あるがままを受け入れられる時。
サマディーが現われるのである。
ではサマディーや無心や心の停止や不動の心や運転しないことや
中空の竹等と言う状態は一体どのような状態なのか?
サマディーや無心などと言う言葉を聞くと乾いた味気が無い暗い
無表情な状態を思い浮かべることだろう。
実は全く異なるのである。
我々は子供のころは無邪気に何でも楽しめた
では何故大人になるに従い楽しめなくなるのか?
無心になれないからである。
何故無心に大人になるに従いなれなくなるのか?
背中に色々なことを背負っているからである。
では如何して背中に何かを背負ってしまったのか?
野心である。
我々は常に野心を持ちそれに沿った行動をしている。
求めること、避けることが背負っている重荷なのである。
自分のことを考えて現われる思いをわたしは野心と呼んでいる。
大人は大人らしくしなくてはいけないと言う思いも野心から
現われる。
これを人に見られたら恥ずかしいと言うのも野心から現われる。
その野心が人を大人に変えるのである。
邪気も野心から現われる。
野心は自我から現われると言うより自我は野心の集まりなのである。
利己的野心を取り去れば人は限りなく純粋になるのである。
無心とは野心を捨てることである。
即ち無邪気になることなのである。
だが子供の無邪気とは異なる子供の無邪気は何も知らないことから
現われるが無心の無邪気は宇宙の道理の理解から生まれるのである。
無心とは無邪気になることである。
無心だけが美しさを知ることが出来る
無心だけが今を楽しめる
無心だけが生を楽しめる
無心だけが生は何たるかを知ることが出来るのである。
中道を進む者は中道を選んでいるのではない
好むことと嫌うことを止めただけなのである。
こだわりを持った人から見ると中道を進む者をも
こだわっていると見える。
こだわりを捨てたことにより見えたことを語ることも
こだわりを持った人にとってはこだわりと見えるのである。
全てのこだわりを捨てなる。
好み求めることも止める
嫌い避けることも止める
えることと、うばうことを止める。
わたしが何を語ろうとそれは好み求めることと嫌い避けることを、
止めて頂く為にだけ語るのである。
即ち来るものは来るに任せ、去るものは去るに任せる。
あるがままにと言うことである。
来るものを認められず去るものを認められないから
もがきが生まれる、もがきは執着で現われる。もがきが苦しみなのである。
これを理解すればするほど何かを行う力が無くなるのです。
それは個人は野心により現われる欲の力を行動の力としているからです。
慈悲が無条件の愛が行動の力とならない限り好み求めることと嫌い避けることを
止めれば何をする力も無くなるのだが
また野心が消えるほど人は純粋になるのである。
全ての不純は野心から現われるからである。
何かをする力が出ないとは自我が我々を支配する力を失いつつあると
言うことなのである。
2011/08/28
10:35:11
彼岸への道・究極の智慧(まとめ)
これを読むだけでわたしが語ることの全てを知る
ことが出来る。まとめである。
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仏教の教えは教えではなく現実なのである。
現実を教えと見て幻想を現実と見ている
自我をとおして見るから逆さまに見えるのである
教えを現実としてそれに基づき基づき行為できれば即身成仏である。
仏道を読む者は多いが仏道を歩く者は少ないのである。
教えに基づき行為するとは、生死の領域を超えるということである。
心が中心に定まり続け決して失うことの無いサマディを実現することである。
わたしは成仏は如何してありうるのか、無明は何故無明なのか
人に仏性が在るなら何故今それを自覚できないのか。
この身のまま仏と成るには如何したらよいか語っているのであり
全てが仏教以外の何ものでもないのであ。
如何してわたしが語るのか。
混乱を終わらせるためである。混乱が無明だからである。
無明だけが邪魔なのである、無明だから求める。
この求めることが煩悩であり。
求めれば気にかければ意識は中心から外え向かう
煩悩が意識(心)が中心に定まることを邪魔をし
いま仏である自覚を失わせているのであるが
仏であると言う自覚はでは一体どのような物か
我々の間の前にはっきり存在しており
自ら存在の自覚を意識している者、ある人は真我と呼び
ある人は観る者と呼び在る人は、仏性と呼び
臨済禅師は無位の真人と呼んだ
これが我々の本性であり生と死を初めから超越している。
この本性は名前も無く形もない無である。
無でありながら自ら存在を意識している者である。
これが自己留意であり、自らを知るために対象を
必要としていないのである。
悟りでも何でも求めれば意識は中心から外に向かい
仏であると言う自覚を失い続ける。
求めなければ世界を気に掛け続け中心に定まらず。
また仏と言う自覚を失い続ける。
煩悩を無くそうとすればそれが又煩悩であり
無くそうと思い続ける限り煩悩を持ち続ける
全てを気に掛けるのを止めれば良いのである。
全てを気に掛けることを止めるのは難しいから
教えがあるのである。
何かを手に入れるために教えがあるのではない
全てを捨てるために教えがあるのである。
求めれば道に背き。求めなければ得られない。
人間と言うのはこの無限のループにはまっていて
無限ループにはまっていることすら知らない。
だからわたしはループから抜け出す方法を語るのである。
何かを気に掛けることが邪魔である。
気に掛けることをやめようとすればまたそれば煩悩であり
邪魔をする。このループを抜け出すには、
今の完全性を理解することと、この世は無常であり空であり無であり
何一つ手に入れることは出来ない求めることの全ては無駄だと知り
心身を落とすことが必要なのである。
計らいを落とすことが必要なのである。
何かをするのではなく何かをするのを止めるのである。
心身を落とすことが必要だと言うと又心身を落とす努力をし
また煩悩を生み続ける。だから悟りは難しいのである。
道は、道を歩くのをやめる為に在るのである。
一切無一文と言う境地が必要なのである。
ここから今回の本題である。
彼岸に行くために決して避けられない理解(智慧)について語る。
----------------------------------------------------------------
・彼岸への道・究極の智慧
自身の中心に意識(心)が統一されていて決して動く事が無い状態が
究極の状態である。
究極の状態は、無でありながら対象を必要とせず自ら存在を意識
している状態である。その状態を決して離れない統一が究極である。
これは集中ではない、集中は努力がともなう物で努力が
消え去れば消え去る物だからである。
中心に意識(心)が統一されるとはごく自然な事で努力をともなわない。
むしろ努力が消えた時自然に訪れる意識(心)のくつろいだ自然な状態で
自ら存在を自覚している状態である。
意識(心)が中心に統一され決して壊れる事のない状態とは
言葉で表せば統一だがこの状態は生死の領域を超えているのである。
腐る色あせる壊れる領域を超えているのである。
時間と空間を越えているのである。
この状態を涅槃、サマディ、梵我一如、真我の実現など色々な名前で
呼ばれている。
実はこの状態は我々の本来の姿であり何処かから手に入れるものでは
無いのである。仏教ではこのことを仏性と呼んでいる。
その姿は沈黙であり喜びで出来ているがそれを誰も手に入れることは
出来ないどの様な企てにも決して従わない。
我々が追えば追うほどそれは逃げ去るのである。
全ての企て、望みを捨てたとき心身を落とした時、それはやって来る。
決して誰にも所有できないのである所有されるのは我々の方である。
時間と空間に縛られない中心であるために、
宇宙の一切の存在の中心に同じ中心が在るのである。
個人性を超越した先にあるのである。だから誰にも所有出来ないのだ。
この沈黙は我々の故郷であり宇宙の一切はそこから現れたのだが
それなら如何して今我々がそれを実感する事が出来ないのだろうか。
意識が外へ対象へ向かっていて中心を自覚出来ないからである。
では如何して意識が外へ対象へ向かうのか。
無知(無明)だからである。
沈黙は涅槃は真如は全てを含む完全な知識であり全てが
分別されていない。在ると無いが未来と過去が全ての対極が
一緒にあるのである。
例えば、在ると無いが同じ意味を持っていたら、どうやって知るのか。
在ることと無いことが別な意味を持つから知ることが出来るのである。
真理と言うのは在るとは無いことであり、だから在ると言うのである。
無いことは在ることであり、だから無いというのである。
これが在るのか無いのかの真実である。
これは何かに似ていないかね!般若心経や般若系のお経に似ている。
これが究極の智慧なのであるが、後に詳しく語ることにする。
自分が全てを含む完全な者であると完全であるが故に知らないから
意識は外に対象に向かうそれが意識を散乱させ中心に定まることを
妨害する。
何かすれば何かが手に入るのでは無いかと言う想いが邪魔なのである。
自分は今、仏では無いという想いが邪魔なのである。
自分に何かが必要だと言う想いが邪魔なのである。
自分自身を信じられないことが邪魔なのである。
信心が足りないのである。
真実はこの世では何一つ手に入れることは出来ない。
悟りも涅槃も何一つ手に入れることは出来ないのである。
釈迦も悟りも涅槃も手に入れてはいない。
だからこそ悟ったと言えるのである。
だからこそ涅槃を手にしたのである。
この世でどの様な手練や方法を駆使しどんなに努力をしても
どの様な教えに従ったとしても何一つ手に入れることは
出来ないのである。それを知った者が悟りを得、涅槃を得るのである。
悟りとは手に入れるような物では無いのである。
この世で何一つ手に入れることは出来ないと知ることが知る悟りであり
手に入れることを願いを全て捨てた時悟りになったのである。
真理とは常に矛盾を伴うのである。
我々は自身を変える為に何かの教えに従い何かの手練をする。
自分を変えることが出来るのだが、その為には、自分を、
変えようという思いを先ず捨てなければ生けない。
捨てた時変わるのである。
真理とは常に先に捨てて得られる物なのである。
そもそも何かを変えたいから手練を行うのに変えたいという
思いを捨てた時、変えることが出来るのである。
この矛盾が全てを難しくしている。
瞑想や禅も同じである。瞑想や禅を行いながら瞑想や禅を行うと言う
思いを捨てた時、瞑想や禅が訪れるのである。
常にそれを行いながら行うと言う思いを先に捨てることが、
要求されるのである。
そもそも瞑想や禅をやりたくてやっているのに、やるためには、
やりたい気持ちを捨てることが必要なのである。
だから本当のわたしを手に入れたければ、わたしを一度捨てなさいと
言うのである。
常に捨てることが先で手に入れることは後なのである。
だから手に入れたとも言えないのである。
捨てただけなのだから。
教えとは何かを手に入れる方法ではない。
全てを捨てさせるために在るのである。
だから手に入れる方法と言われるのである。
全てを捨てたときに全てを手に入れることが出来るからである。
我々は何かに拠って生きているが真実の我々は何かに拠って
い無い。拠り所が全て無くなった時、真実の我々が現れる。
自身だけを拠り所とした時、現れるのである。
これが自灯明の真実の意味である。
拠り所の全てを捨てることが必要なのである。
ではどの様な真理の理解が必要なのか金剛般若波羅蜜経から一部を
紹介しよう
-------------------------------------------------------------
・3
あらゆる生きとし生ける者を永遠の平安と言う境地に
導き入れなくてはならないしかし、このように、
生きとし生ける者を永遠の平安に導きいれても
実は誰一人永遠の平安に導き入れられた者はいない。
それは何故かと言うと、スプーティーよ。
もしも求道者(菩薩)が生きている者と言う思いを起こすとすれば
もはや求道者(菩薩)とはいわないからだ。
それは何故かと言うと、スプーティーよ。
誰でも自我と言う思いを起こしたり
生きている者と言う思いを起こしたり、固体と言う思いを起こしたり、
個人と言う思いを起こしたりするものは、
もはや求道者(菩薩)とは言わないからだ
-------------------------------------------------------------
自我という思い、個人と言う思い、生きていると言う思いを持っては
いけないと言っている。
ではどうやって生きていると言う想いまで消すことが出来るのか。
・空
この世界は色あせる、腐る、壊れると言う変化から逃れられない
全ては変化する世界である。
変化する世界とは実態が無いから変化するのである。
一瞬とも留まることが無い常に変化しているのがこの世界である。
これを仏教では空と呼ぶ。
・無
空である世界は、原因が結果を生みその結果が又原因となり
次の結果を生み出す、世界である。
原因をたどって行くと、原因にはまた原因がありその原因にも
又原因がある。何処までたどって行っても、
根源の原因を見出すことが出来ない。
世界に初めがあるとすれば、原因の無い原因が無くてはならない。
世界の原因は原因の無い原因だということである。
原因の無い原因とは相対を超えた者であると言うことである。
そう相対を超えた真理が世界の存在する理由であると言うことである。
原因の無い原因が世界の原因であると言うことは、
この世界は真理の在るがままの現れであり、、
この世界に初めもなく中も無く終わりも無いと言うことである。
要するに空である実体が無い変化する物にも実体が無いのである。
変化する物すらないのである。
空も空なのである。または空は無なのである。
世界に存在する形ある物は変化する物であり
変化する主体も無い。
形ある物は全て物理的原因が無い物理的原因が無い物が
形のある物である。
物理的原因が無い物の本当の姿は無である。
物理的原因のある物だけが物理的現象と我々は呼ぶからである。
物理的原因が無い物が有(世界)であり
物理的原因が無いからこそ有(世界)なのだ。
この世の一切、思考、思い、身体、生き物、物質などは何処まで言っても
その根源的原因を見出すことが出来ない物理的原因の無い物なのである。
有る物の本当の姿は無であり、
無だからこそ有る物なのである。
有るの姿は無であり、無の姿は有るである。
無の現われが世界(有)であり世界は無なのである。
不二なのである。
無だからこそ有を現すのであり
有だからこそ無なのである。
だからこの世界は有るでも無く無いでもないのである。
実は、これも新しい考えでは無いのである。
般若心経の色即是空、空即是色と同じ事を言っているのである。
空は無であり、空と言うと変化する主体が在ると想い
人間は執着してしまうからわたしは無と言っているのであるが
般若心経も空を無と観ているのである。
この説明を般若心経サンスクリット語原文和訳から取り上げる。
-------------------------------------------------------------
深遠な智慧の完成を実践しつつあったが、
次のように見極めた、
存在するものには五つの構成要素があると、
しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性から言うと
実体が無いものであると見抜いたのであった。
・・・・・・・・
存在するものには五つの構成要素がある。これらの構成要素は本性から言うと
実体が無い。実体が無いからこそ物質的現象でありうるのである。
実体が無いといっても物質的現象を離れていない。
また物質的現象は実態をはなれて物質的現象ではない。
-------------------------------------------------------------
変化する構成要素も実体が無いと言っている。
変化する主体その物が無いと言っているのである。
世界は空であり空である変化する主体も無いのである。
この世界を無と観て全ての執着を捨て
無の現われが世界(有)であると観て慈悲を起こす。
執着の無い慈悲が要求されるのである。
この世界とは過去も現在も未来も無い
ちょうど初めもなく終わりも無い映画のフイルムみたいな物であり
今何かの場面が映っていたとしても過去と未来も同時にある。
同時にありながら過去と現在と未来のつながりを維持している。
つながりが縁起である。
何かを求めることが無明により生まれる
何かを求めることが経過を作る時間と言うものを作るのである。
求めることを止めれば経過が消え時間と言う感覚も消え去る。
経過が生であるのであるから、経過が消えれば生と言う意識も
消え去るのである。生と言う意識が消え去ればまた死と言う意識も
同時に消えるのである。生る死ぬと言う意識を超越し
無でありながら対象を必要とせず自らの存在を自覚する
自己留意を手に入れるのである。
その自覚を決して失わないことがサマディである。
何かを求めることを止めれば無明は消える
無明が消えれば生死もまた消え去るのである。
この世は真理の在るがままの現れである。
夢のようなものなのである。
真理とは全てを含む一なる者であり無である。
我々は初めからこの無であり、
無でありながら自ら存在を意識している。
対象を必要とせず自己留意しているのである。
この無に立ち返る事が悟りになるということである。
この世には二通りの仏がいる。
自覚を伴っている、仏は慈悲により行為する
自覚を伴わない仏は自我を自分と勘違いし
自我は自己中心的であるが故に不調和の世界を築き上げ
苦しみ多き世界で無常を知る者が現れ、自覚を伴う仏となって行く
自覚が伴う仏と成る為には苦しみを経験し無常を知らなくては
ならないからである。無常を知るために苦が必要である間
苦も必要なのである。
だから無常を知るのに苦が必要である間に限り
自覚の無い仏も必要なのである。
自覚があっても無くてもこの世には仏しかいないのである。
全ての始まりは無明であり無明は罪ではなく純粋なもの
であるからそこから現れる欲望も欲望から現れる罪も
本来清らかである。全ては清らかであり仏しか存在しないのである。
わたしは知る悟りとなる悟りと悟りを二つに分けているが
本当は只、外に意識を向けるのを止めれば良いだけである。
それだけでこの瞬間に我々は究極に達するのである。
知る悟りとは意識が外に向かうのを止めさせてくれる。
知る悟りなど無くても意識が外に向かうのを止めれば
良いだけであるが、実際は難しい
この難しいと言う思いだけが邪魔なのであるが。
思いを無くせないのである。
だから何かの方法が必要なのである。
知る悟りが無くても、禅でも瞑想でもなる悟りに行くことが出来る
知る悟りを得ずに進む道を一気に悟る道と呼ぶ。
一気になる悟りに達し結果知る悟りも得ると言う物である。
曹洞宗の只管打坐もその一つである。
だが気になることを極限に減らし禅を行うことが必要うである。
一切無一文と言う境地で禅を行うことが要求される。
現代の人間には大変難しいことである。
知る悟りとは徐々に悟るというものである。
代表的ものは臨済宗の徐々に悟である。
知るという悟りは気になることを消してくれる。
気になることが極限まで消えた時、究極である。
真理に沿った生き方が出来た時、究極である。
気になることが消え去った時真理に沿った生き方になるのである。
現代の人間には、ほとんどの人が、知るという悟りが欠かせない。
気になることが強く又多すぎるからである。
知るという悟りは何も求めず何も行わずただ座る事を
させてくれるのである。
また知るという悟りは禅や瞑想を行わなくても
自然に究極に向かうのである。
また迷い、知るという悟り、成ると言う悟りは切り離された
三つの状態ではない。
例えば大空には境が無い宇宙まで大空であるが、
大気の濃い大空と大気の薄い大空と大気の無い大空がある。
我々の意識と言うのもこれと同じである。
意識を沈めていくと個人と言う意識が薄くなり
終には個人と言う意識は消え去り、
無でありながら自らの存在を自覚している無に
到着するのである。
それを邪魔するのが気になることなのである。
悟りを深めてこの世から何一つとして得られるものが無いことを
確認していくことが必要なのである。
悟りとは何かを手に入れる計らいでは無いのである。
何も手に入れることは出来ないと知ることが知る悟りである。
だから釈迦は悟りも涅槃も手に入れてはいないのである。
だから悟りと涅槃を手に入れたのである。
我々は知ることは知ることを止めることであると知らずに
自分自身を知るために無限の輪廻を生み出している。
実体の無い夢のような世界に心を奪われ自分を自覚できない。
はっきりと我々の前に存在し無でありながら自ら明らかに存在を
意識している者それが我々の本性である。それが主である。
この主は無である性質上、形を持たない
どんな状態でも自己留意を失うことは無いが。
常に対象になり物を見、対象になり考えるのである
釈迦の説法が待機説法であった訳はこのためである。
我々の前にその存在をはっきり明らかにあらわにしている、
それが我々である。その存在を捉えることが出来た時
無限の輪廻を終わらせ我々は故郷に帰り付いたのである。
これ以上に価値の在ることはこの世に存在しないのである。
この世では欲望が動力である。欲望を無くすのではなく
絶対の自分を手に入れるという欲望を使って
その為に全てを捨てさせなさい。
悟りに導くためと言う初めの意図が純粋ならそこから現れる
全ては純粋なのであるから、悟りに導く役に立つものは
全て利用しなさい。悟りとは只まじめなだけでは出目なのである。
使えるなら欲望でも利用する事が秘訣である。
これは自身を導く時でも他を導く時でも同じである。
役に立つものは何でも利用すること。
最も強い毒である欲望は最も強い薬にもなるのである。
これがタントラとか密教の考え方である。
教えや方法に囚われるな必要なものを必要に応じて
何でも使うことである。
生死を超越していて、明らかにはっきりと我々の前に
存在し、無でありながら存在の自覚を持つ者である本来の
自己を見出さなくてはいけない。
わたしの活字の語りを見て聞いているものそれが本性である。
記憶や感情と言う自我がでは無い。
知る者それが本性である。
だが覚えておいてほしい全ての事物には時期があるのである。
自我意識が支配している我々もその役目を果たしているのであり
自分の都合通りには自我意識は消えない世界であなたの自我意識による
行為が必要で無くならない内は自我意識は消え去る事はない
だがわたしの言うことに真実を見出したのであればその役目は
終わりつつあると言うことであり、あなたの努力の実りと言う線と
世界でのあなたの自我意識による行為の必要性が無くなると言う
線が一点で交わる。あなたの努力が実った瞬間が自我意識が
必要でなくなる瞬間なのでありまた、
あなたの自我意識による行為が世界で必要がなくなる瞬間が
あなたの努力が実る瞬間なのである。
その時が究極が訪れる瞬間であり、あなたが故郷に帰りつく
瞬間なのである。
何時かは、こんなにはっきりと我々の前に姿なき姿を
あらわにしていた、真実の自己に如何して今まで
気づかなかったのかと笑う日が来るのである。
これを読むだけでわたしが語ることの全てを知る
ことが出来る。まとめである。
-----------------------------------------------------------
仏教の教えは教えではなく現実なのである。
現実を教えと見て幻想を現実と見ている
自我をとおして見るから逆さまに見えるのである
教えを現実としてそれに基づき基づき行為できれば即身成仏である。
仏道を読む者は多いが仏道を歩く者は少ないのである。
教えに基づき行為するとは、生死の領域を超えるということである。
心が中心に定まり続け決して失うことの無いサマディを実現することである。
わたしは成仏は如何してありうるのか、無明は何故無明なのか
人に仏性が在るなら何故今それを自覚できないのか。
この身のまま仏と成るには如何したらよいか語っているのであり
全てが仏教以外の何ものでもないのであ。
如何してわたしが語るのか。
混乱を終わらせるためである。混乱が無明だからである。
無明だけが邪魔なのである、無明だから求める。
この求めることが煩悩であり。
求めれば気にかければ意識は中心から外え向かう
煩悩が意識(心)が中心に定まることを邪魔をし
いま仏である自覚を失わせているのであるが
仏であると言う自覚はでは一体どのような物か
我々の間の前にはっきり存在しており
自ら存在の自覚を意識している者、ある人は真我と呼び
ある人は観る者と呼び在る人は、仏性と呼び
臨済禅師は無位の真人と呼んだ
これが我々の本性であり生と死を初めから超越している。
この本性は名前も無く形もない無である。
無でありながら自ら存在を意識している者である。
これが自己留意であり、自らを知るために対象を
必要としていないのである。
悟りでも何でも求めれば意識は中心から外に向かい
仏であると言う自覚を失い続ける。
求めなければ世界を気に掛け続け中心に定まらず。
また仏と言う自覚を失い続ける。
煩悩を無くそうとすればそれが又煩悩であり
無くそうと思い続ける限り煩悩を持ち続ける
全てを気に掛けるのを止めれば良いのである。
全てを気に掛けることを止めるのは難しいから
教えがあるのである。
何かを手に入れるために教えがあるのではない
全てを捨てるために教えがあるのである。
求めれば道に背き。求めなければ得られない。
人間と言うのはこの無限のループにはまっていて
無限ループにはまっていることすら知らない。
だからわたしはループから抜け出す方法を語るのである。
何かを気に掛けることが邪魔である。
気に掛けることをやめようとすればまたそれば煩悩であり
邪魔をする。このループを抜け出すには、
今の完全性を理解することと、この世は無常であり空であり無であり
何一つ手に入れることは出来ない求めることの全ては無駄だと知り
心身を落とすことが必要なのである。
計らいを落とすことが必要なのである。
何かをするのではなく何かをするのを止めるのである。
心身を落とすことが必要だと言うと又心身を落とす努力をし
また煩悩を生み続ける。だから悟りは難しいのである。
道は、道を歩くのをやめる為に在るのである。
一切無一文と言う境地が必要なのである。
ここから今回の本題である。
彼岸に行くために決して避けられない理解(智慧)について語る。
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・彼岸への道・究極の智慧
自身の中心に意識(心)が統一されていて決して動く事が無い状態が
究極の状態である。
究極の状態は、無でありながら対象を必要とせず自ら存在を意識
している状態である。その状態を決して離れない統一が究極である。
これは集中ではない、集中は努力がともなう物で努力が
消え去れば消え去る物だからである。
中心に意識(心)が統一されるとはごく自然な事で努力をともなわない。
むしろ努力が消えた時自然に訪れる意識(心)のくつろいだ自然な状態で
自ら存在を自覚している状態である。
意識(心)が中心に統一され決して壊れる事のない状態とは
言葉で表せば統一だがこの状態は生死の領域を超えているのである。
腐る色あせる壊れる領域を超えているのである。
時間と空間を越えているのである。
この状態を涅槃、サマディ、梵我一如、真我の実現など色々な名前で
呼ばれている。
実はこの状態は我々の本来の姿であり何処かから手に入れるものでは
無いのである。仏教ではこのことを仏性と呼んでいる。
その姿は沈黙であり喜びで出来ているがそれを誰も手に入れることは
出来ないどの様な企てにも決して従わない。
我々が追えば追うほどそれは逃げ去るのである。
全ての企て、望みを捨てたとき心身を落とした時、それはやって来る。
決して誰にも所有できないのである所有されるのは我々の方である。
時間と空間に縛られない中心であるために、
宇宙の一切の存在の中心に同じ中心が在るのである。
個人性を超越した先にあるのである。だから誰にも所有出来ないのだ。
この沈黙は我々の故郷であり宇宙の一切はそこから現れたのだが
それなら如何して今我々がそれを実感する事が出来ないのだろうか。
意識が外へ対象へ向かっていて中心を自覚出来ないからである。
では如何して意識が外へ対象へ向かうのか。
無知(無明)だからである。
沈黙は涅槃は真如は全てを含む完全な知識であり全てが
分別されていない。在ると無いが未来と過去が全ての対極が
一緒にあるのである。
例えば、在ると無いが同じ意味を持っていたら、どうやって知るのか。
在ることと無いことが別な意味を持つから知ることが出来るのである。
真理と言うのは在るとは無いことであり、だから在ると言うのである。
無いことは在ることであり、だから無いというのである。
これが在るのか無いのかの真実である。
これは何かに似ていないかね!般若心経や般若系のお経に似ている。
これが究極の智慧なのであるが、後に詳しく語ることにする。
自分が全てを含む完全な者であると完全であるが故に知らないから
意識は外に対象に向かうそれが意識を散乱させ中心に定まることを
妨害する。
何かすれば何かが手に入るのでは無いかと言う想いが邪魔なのである。
自分は今、仏では無いという想いが邪魔なのである。
自分に何かが必要だと言う想いが邪魔なのである。
自分自身を信じられないことが邪魔なのである。
信心が足りないのである。
真実はこの世では何一つ手に入れることは出来ない。
悟りも涅槃も何一つ手に入れることは出来ないのである。
釈迦も悟りも涅槃も手に入れてはいない。
だからこそ悟ったと言えるのである。
だからこそ涅槃を手にしたのである。
この世でどの様な手練や方法を駆使しどんなに努力をしても
どの様な教えに従ったとしても何一つ手に入れることは
出来ないのである。それを知った者が悟りを得、涅槃を得るのである。
悟りとは手に入れるような物では無いのである。
この世で何一つ手に入れることは出来ないと知ることが知る悟りであり
手に入れることを願いを全て捨てた時悟りになったのである。
真理とは常に矛盾を伴うのである。
我々は自身を変える為に何かの教えに従い何かの手練をする。
自分を変えることが出来るのだが、その為には、自分を、
変えようという思いを先ず捨てなければ生けない。
捨てた時変わるのである。
真理とは常に先に捨てて得られる物なのである。
そもそも何かを変えたいから手練を行うのに変えたいという
思いを捨てた時、変えることが出来るのである。
この矛盾が全てを難しくしている。
瞑想や禅も同じである。瞑想や禅を行いながら瞑想や禅を行うと言う
思いを捨てた時、瞑想や禅が訪れるのである。
常にそれを行いながら行うと言う思いを先に捨てることが、
要求されるのである。
そもそも瞑想や禅をやりたくてやっているのに、やるためには、
やりたい気持ちを捨てることが必要なのである。
だから本当のわたしを手に入れたければ、わたしを一度捨てなさいと
言うのである。
常に捨てることが先で手に入れることは後なのである。
だから手に入れたとも言えないのである。
捨てただけなのだから。
教えとは何かを手に入れる方法ではない。
全てを捨てさせるために在るのである。
だから手に入れる方法と言われるのである。
全てを捨てたときに全てを手に入れることが出来るからである。
我々は何かに拠って生きているが真実の我々は何かに拠って
い無い。拠り所が全て無くなった時、真実の我々が現れる。
自身だけを拠り所とした時、現れるのである。
これが自灯明の真実の意味である。
拠り所の全てを捨てることが必要なのである。
ではどの様な真理の理解が必要なのか金剛般若波羅蜜経から一部を
紹介しよう
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・3
あらゆる生きとし生ける者を永遠の平安と言う境地に
導き入れなくてはならないしかし、このように、
生きとし生ける者を永遠の平安に導きいれても
実は誰一人永遠の平安に導き入れられた者はいない。
それは何故かと言うと、スプーティーよ。
もしも求道者(菩薩)が生きている者と言う思いを起こすとすれば
もはや求道者(菩薩)とはいわないからだ。
それは何故かと言うと、スプーティーよ。
誰でも自我と言う思いを起こしたり
生きている者と言う思いを起こしたり、固体と言う思いを起こしたり、
個人と言う思いを起こしたりするものは、
もはや求道者(菩薩)とは言わないからだ
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自我という思い、個人と言う思い、生きていると言う思いを持っては
いけないと言っている。
ではどうやって生きていると言う想いまで消すことが出来るのか。
・空
この世界は色あせる、腐る、壊れると言う変化から逃れられない
全ては変化する世界である。
変化する世界とは実態が無いから変化するのである。
一瞬とも留まることが無い常に変化しているのがこの世界である。
これを仏教では空と呼ぶ。
・無
空である世界は、原因が結果を生みその結果が又原因となり
次の結果を生み出す、世界である。
原因をたどって行くと、原因にはまた原因がありその原因にも
又原因がある。何処までたどって行っても、
根源の原因を見出すことが出来ない。
世界に初めがあるとすれば、原因の無い原因が無くてはならない。
世界の原因は原因の無い原因だということである。
原因の無い原因とは相対を超えた者であると言うことである。
そう相対を超えた真理が世界の存在する理由であると言うことである。
原因の無い原因が世界の原因であると言うことは、
この世界は真理の在るがままの現れであり、、
この世界に初めもなく中も無く終わりも無いと言うことである。
要するに空である実体が無い変化する物にも実体が無いのである。
変化する物すらないのである。
空も空なのである。または空は無なのである。
世界に存在する形ある物は変化する物であり
変化する主体も無い。
形ある物は全て物理的原因が無い物理的原因が無い物が
形のある物である。
物理的原因が無い物の本当の姿は無である。
物理的原因のある物だけが物理的現象と我々は呼ぶからである。
物理的原因が無い物が有(世界)であり
物理的原因が無いからこそ有(世界)なのだ。
この世の一切、思考、思い、身体、生き物、物質などは何処まで言っても
その根源的原因を見出すことが出来ない物理的原因の無い物なのである。
有る物の本当の姿は無であり、
無だからこそ有る物なのである。
有るの姿は無であり、無の姿は有るである。
無の現われが世界(有)であり世界は無なのである。
不二なのである。
無だからこそ有を現すのであり
有だからこそ無なのである。
だからこの世界は有るでも無く無いでもないのである。
実は、これも新しい考えでは無いのである。
般若心経の色即是空、空即是色と同じ事を言っているのである。
空は無であり、空と言うと変化する主体が在ると想い
人間は執着してしまうからわたしは無と言っているのであるが
般若心経も空を無と観ているのである。
この説明を般若心経サンスクリット語原文和訳から取り上げる。
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深遠な智慧の完成を実践しつつあったが、
次のように見極めた、
存在するものには五つの構成要素があると、
しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性から言うと
実体が無いものであると見抜いたのであった。
・・・・・・・・
存在するものには五つの構成要素がある。これらの構成要素は本性から言うと
実体が無い。実体が無いからこそ物質的現象でありうるのである。
実体が無いといっても物質的現象を離れていない。
また物質的現象は実態をはなれて物質的現象ではない。
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変化する構成要素も実体が無いと言っている。
変化する主体その物が無いと言っているのである。
世界は空であり空である変化する主体も無いのである。
この世界を無と観て全ての執着を捨て
無の現われが世界(有)であると観て慈悲を起こす。
執着の無い慈悲が要求されるのである。
この世界とは過去も現在も未来も無い
ちょうど初めもなく終わりも無い映画のフイルムみたいな物であり
今何かの場面が映っていたとしても過去と未来も同時にある。
同時にありながら過去と現在と未来のつながりを維持している。
つながりが縁起である。
何かを求めることが無明により生まれる
何かを求めることが経過を作る時間と言うものを作るのである。
求めることを止めれば経過が消え時間と言う感覚も消え去る。
経過が生であるのであるから、経過が消えれば生と言う意識も
消え去るのである。生と言う意識が消え去ればまた死と言う意識も
同時に消えるのである。生る死ぬと言う意識を超越し
無でありながら対象を必要とせず自らの存在を自覚する
自己留意を手に入れるのである。
その自覚を決して失わないことがサマディである。
何かを求めることを止めれば無明は消える
無明が消えれば生死もまた消え去るのである。
この世は真理の在るがままの現れである。
夢のようなものなのである。
真理とは全てを含む一なる者であり無である。
我々は初めからこの無であり、
無でありながら自ら存在を意識している。
対象を必要とせず自己留意しているのである。
この無に立ち返る事が悟りになるということである。
この世には二通りの仏がいる。
自覚を伴っている、仏は慈悲により行為する
自覚を伴わない仏は自我を自分と勘違いし
自我は自己中心的であるが故に不調和の世界を築き上げ
苦しみ多き世界で無常を知る者が現れ、自覚を伴う仏となって行く
自覚が伴う仏と成る為には苦しみを経験し無常を知らなくては
ならないからである。無常を知るために苦が必要である間
苦も必要なのである。
だから無常を知るのに苦が必要である間に限り
自覚の無い仏も必要なのである。
自覚があっても無くてもこの世には仏しかいないのである。
全ての始まりは無明であり無明は罪ではなく純粋なもの
であるからそこから現れる欲望も欲望から現れる罪も
本来清らかである。全ては清らかであり仏しか存在しないのである。
わたしは知る悟りとなる悟りと悟りを二つに分けているが
本当は只、外に意識を向けるのを止めれば良いだけである。
それだけでこの瞬間に我々は究極に達するのである。
知る悟りとは意識が外に向かうのを止めさせてくれる。
知る悟りなど無くても意識が外に向かうのを止めれば
良いだけであるが、実際は難しい
この難しいと言う思いだけが邪魔なのであるが。
思いを無くせないのである。
だから何かの方法が必要なのである。
知る悟りが無くても、禅でも瞑想でもなる悟りに行くことが出来る
知る悟りを得ずに進む道を一気に悟る道と呼ぶ。
一気になる悟りに達し結果知る悟りも得ると言う物である。
曹洞宗の只管打坐もその一つである。
だが気になることを極限に減らし禅を行うことが必要うである。
一切無一文と言う境地で禅を行うことが要求される。
現代の人間には大変難しいことである。
知る悟りとは徐々に悟るというものである。
代表的ものは臨済宗の徐々に悟である。
知るという悟りは気になることを消してくれる。
気になることが極限まで消えた時、究極である。
真理に沿った生き方が出来た時、究極である。
気になることが消え去った時真理に沿った生き方になるのである。
現代の人間には、ほとんどの人が、知るという悟りが欠かせない。
気になることが強く又多すぎるからである。
知るという悟りは何も求めず何も行わずただ座る事を
させてくれるのである。
また知るという悟りは禅や瞑想を行わなくても
自然に究極に向かうのである。
また迷い、知るという悟り、成ると言う悟りは切り離された
三つの状態ではない。
例えば大空には境が無い宇宙まで大空であるが、
大気の濃い大空と大気の薄い大空と大気の無い大空がある。
我々の意識と言うのもこれと同じである。
意識を沈めていくと個人と言う意識が薄くなり
終には個人と言う意識は消え去り、
無でありながら自らの存在を自覚している無に
到着するのである。
それを邪魔するのが気になることなのである。
悟りを深めてこの世から何一つとして得られるものが無いことを
確認していくことが必要なのである。
悟りとは何かを手に入れる計らいでは無いのである。
何も手に入れることは出来ないと知ることが知る悟りである。
だから釈迦は悟りも涅槃も手に入れてはいないのである。
だから悟りと涅槃を手に入れたのである。
我々は知ることは知ることを止めることであると知らずに
自分自身を知るために無限の輪廻を生み出している。
実体の無い夢のような世界に心を奪われ自分を自覚できない。
はっきりと我々の前に存在し無でありながら自ら明らかに存在を
意識している者それが我々の本性である。それが主である。
この主は無である性質上、形を持たない
どんな状態でも自己留意を失うことは無いが。
常に対象になり物を見、対象になり考えるのである
釈迦の説法が待機説法であった訳はこのためである。
我々の前にその存在をはっきり明らかにあらわにしている、
それが我々である。その存在を捉えることが出来た時
無限の輪廻を終わらせ我々は故郷に帰り付いたのである。
これ以上に価値の在ることはこの世に存在しないのである。
この世では欲望が動力である。欲望を無くすのではなく
絶対の自分を手に入れるという欲望を使って
その為に全てを捨てさせなさい。
悟りに導くためと言う初めの意図が純粋ならそこから現れる
全ては純粋なのであるから、悟りに導く役に立つものは
全て利用しなさい。悟りとは只まじめなだけでは出目なのである。
使えるなら欲望でも利用する事が秘訣である。
これは自身を導く時でも他を導く時でも同じである。
役に立つものは何でも利用すること。
最も強い毒である欲望は最も強い薬にもなるのである。
これがタントラとか密教の考え方である。
教えや方法に囚われるな必要なものを必要に応じて
何でも使うことである。
生死を超越していて、明らかにはっきりと我々の前に
存在し、無でありながら存在の自覚を持つ者である本来の
自己を見出さなくてはいけない。
わたしの活字の語りを見て聞いているものそれが本性である。
記憶や感情と言う自我がでは無い。
知る者それが本性である。
だが覚えておいてほしい全ての事物には時期があるのである。
自我意識が支配している我々もその役目を果たしているのであり
自分の都合通りには自我意識は消えない世界であなたの自我意識による
行為が必要で無くならない内は自我意識は消え去る事はない
だがわたしの言うことに真実を見出したのであればその役目は
終わりつつあると言うことであり、あなたの努力の実りと言う線と
世界でのあなたの自我意識による行為の必要性が無くなると言う
線が一点で交わる。あなたの努力が実った瞬間が自我意識が
必要でなくなる瞬間なのでありまた、
あなたの自我意識による行為が世界で必要がなくなる瞬間が
あなたの努力が実る瞬間なのである。
その時が究極が訪れる瞬間であり、あなたが故郷に帰りつく
瞬間なのである。
何時かは、こんなにはっきりと我々の前に姿なき姿を
あらわにしていた、真実の自己に如何して今まで
気づかなかったのかと笑う日が来るのである。
2011/11/10
14:57:15
生かし生かされあっている。
我々は誰も単独では生きられません。
生きる場所天と地も必要ですし食べるものも必要です。
天と地や食べ物が存在するためにはまた多くのものと多くの条件が
必要です。この多くの条件はまた多くの条件を必要とするのです。
天と地だけでは天と地は存在できず。
食べ物だけでは食べ物は存在できないのです。
これを深く探っていくと我々が生きるためには今の宇宙が
必要となるのです。
宇宙に必要でないものは何一つ無いという事でう
ですから宇宙の一切はつながっているのです。
我々は生かし生かされあっているのです。
では生かし生かされあっているということの最も深い
意味をお話いたしましょう。
相対の世界では見る者と観られる者が存在し認識作用が働き
対象があるからわたしが居ると知ることが出来ます。
対象が無ければわたしも無いのです。
客体があり始めてわたしが存在できるのです。
客体が無ければわたしも無い
見る者と見られる者があり始めてどちらも存在できるのです。
客体が無くわたしだけである時、相対を超えた無であり
存在するとはいえないのです。
ですから主体と客体が互いに生かし生かされあっているのです。
相対の世界は二つの者があり始めて存在できるのです。
観測するものと観測されるものがありどちらも存在できるのです。
これが生かし生かされあっているという最も深い意味です。
生かし生かされあっているとは単独では存在できないという
ことを二つの表し方で語りました。
単独では存在できないものは個とは呼べません
生かし生かされあっているものは個ではないのです。
個と呼べないものはわたしとは呼べません。
わたしとはわたしと私でない者がいるという前提で使われる言葉だからです。
だからわたしは無いのです。
わたしとかわたしは生きているとかと言う言葉は非常にエゴ的な言葉なのです。
主体と客体とは実は仮に呼ぶわたしたちが見る事ができるもの
知ることが出来るものは全て客体です。
身体も心も意識の動きも見る事が出来ます。
主体は決して客体には成れません。
決して我々は自らを見る事はできないのです。
見る事が出来るものを自らと想いなす事をやめた時
わたしが消え無であるわたしが現れるのです。
身体や意識の動きは生かし生かされあっているものであり
わたしでは無いのです。
わたしでない者をわたしと思いなし様々に苦しむ事を
終わらせなくてはいけません。
我々は誰も単独では生きられません。
生きる場所天と地も必要ですし食べるものも必要です。
天と地や食べ物が存在するためにはまた多くのものと多くの条件が
必要です。この多くの条件はまた多くの条件を必要とするのです。
天と地だけでは天と地は存在できず。
食べ物だけでは食べ物は存在できないのです。
これを深く探っていくと我々が生きるためには今の宇宙が
必要となるのです。
宇宙に必要でないものは何一つ無いという事でう
ですから宇宙の一切はつながっているのです。
我々は生かし生かされあっているのです。
では生かし生かされあっているということの最も深い
意味をお話いたしましょう。
相対の世界では見る者と観られる者が存在し認識作用が働き
対象があるからわたしが居ると知ることが出来ます。
対象が無ければわたしも無いのです。
客体があり始めてわたしが存在できるのです。
客体が無ければわたしも無い
見る者と見られる者があり始めてどちらも存在できるのです。
客体が無くわたしだけである時、相対を超えた無であり
存在するとはいえないのです。
ですから主体と客体が互いに生かし生かされあっているのです。
相対の世界は二つの者があり始めて存在できるのです。
観測するものと観測されるものがありどちらも存在できるのです。
これが生かし生かされあっているという最も深い意味です。
生かし生かされあっているとは単独では存在できないという
ことを二つの表し方で語りました。
単独では存在できないものは個とは呼べません
生かし生かされあっているものは個ではないのです。
個と呼べないものはわたしとは呼べません。
わたしとはわたしと私でない者がいるという前提で使われる言葉だからです。
だからわたしは無いのです。
わたしとかわたしは生きているとかと言う言葉は非常にエゴ的な言葉なのです。
主体と客体とは実は仮に呼ぶわたしたちが見る事ができるもの
知ることが出来るものは全て客体です。
身体も心も意識の動きも見る事が出来ます。
主体は決して客体には成れません。
決して我々は自らを見る事はできないのです。
見る事が出来るものを自らと想いなす事をやめた時
わたしが消え無であるわたしが現れるのです。
身体や意識の動きは生かし生かされあっているものであり
わたしでは無いのです。
わたしでない者をわたしと思いなし様々に苦しむ事を
終わらせなくてはいけません。
2013/07/08
07:36:24
皆さん今日は。
これは昨日のゆまさんの質問ですが、
今日はこの質問に答えて今日の一言と致します。
>全てを見通して磔にされたイエス・キリストは
自己犠牲だったのでしょうか?
ゆまさん、イエスが全てを見通して磔にされたかされないかは
今となっては知ることはむずかしいでしょう。
ですが人は必ず死にます。死に対して恐れを抱いたり、
死に方に拘ったり、自己の為に延命を図る者が、
先を見通ことは出来ないのは間違いありません。
生の価値とは何でしょう。
死を恐れ、ただただ生の延命を図り長生きし最後には死の
絶望の中に消えてゆくことが生の価値なのでしょうか?
イエスが、自分を見付けていたなら、
ただ延命と言う生に価値を感じているはずは無かったでしょう。
イエスにとって、肉体の死は死ではないのです。
人は、肉体を自己と見なし、概況に振り回され、
本来の永遠のわたしを知ることが無いから、
死を恐れ逃げ回ろうともがくのですが
決して死から逃れることは無く、
死ぬ瞬間まで我を忘れてしまうのです。
わたしを見つけ出した存在にとって死とは永遠の楽です。
このような存在は肉体の延命を図ることがないのです。
これは病気に成ったら病院に掛からないと言う分けではありません。
このような存在が病院に行き身体を治すのは、
物が壊れたとき治すのと似ています。
では何故に壊れてきた身体を治すのか?
はこの世でのお役目を全うするためです。
病院に行き体が治るなら、
まだこの世でお役目が残っているのです。
このような存在が生きると言うことはね、
延命ではなく、死を恐れるからでもないのです。
さて、わたしを見いだした存在が如何して、死を恐れないのでしょう。
人が死を恐れるのは、肉体が無くなるからではありません。
意識を失うのを恐れているのです。
意識の喪失がわたしの死だからです。
植物人間に成ったらみなさんは生きていると言えますか?
逆に身体を失ってもわたしと言う意識を保てたら、
死と感じますか?
そうです。意識を喪失するのを恐れるのです。
ですが人にとって肉体の死はわたしの意識の死だから
肉体の死を恐れるのです。
身体を離れていて、永遠であり、決して失うことの無い、
わたしを見いだした者に取ってはもや身体の死はわたしの
死ではないのです。
このような存在にとって肉体の死とはただ身体を失うだけなのです。
このような存在は肉体を失っても永遠の安らぎの中で生きているのです。
お釈迦様は成道なさったとき、
このまま涅槃に入ろうかと考えたと言われております。
ですが身体の役目を思い出しこの世に留まったと言われております。
お釈迦様にとって、生とは死とはこんなものなのです。
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これは昨日のゆまさんの質問ですが、
今日はこの質問に答えて今日の一言と致します。
>全てを見通して磔にされたイエス・キリストは
自己犠牲だったのでしょうか?
ゆまさん、イエスが全てを見通して磔にされたかされないかは
今となっては知ることはむずかしいでしょう。
ですが人は必ず死にます。死に対して恐れを抱いたり、
死に方に拘ったり、自己の為に延命を図る者が、
先を見通ことは出来ないのは間違いありません。
生の価値とは何でしょう。
死を恐れ、ただただ生の延命を図り長生きし最後には死の
絶望の中に消えてゆくことが生の価値なのでしょうか?
イエスが、自分を見付けていたなら、
ただ延命と言う生に価値を感じているはずは無かったでしょう。
イエスにとって、肉体の死は死ではないのです。
人は、肉体を自己と見なし、概況に振り回され、
本来の永遠のわたしを知ることが無いから、
死を恐れ逃げ回ろうともがくのですが
決して死から逃れることは無く、
死ぬ瞬間まで我を忘れてしまうのです。
わたしを見つけ出した存在にとって死とは永遠の楽です。
このような存在は肉体の延命を図ることがないのです。
これは病気に成ったら病院に掛からないと言う分けではありません。
このような存在が病院に行き身体を治すのは、
物が壊れたとき治すのと似ています。
では何故に壊れてきた身体を治すのか?
はこの世でのお役目を全うするためです。
病院に行き体が治るなら、
まだこの世でお役目が残っているのです。
このような存在が生きると言うことはね、
延命ではなく、死を恐れるからでもないのです。
さて、わたしを見いだした存在が如何して、死を恐れないのでしょう。
人が死を恐れるのは、肉体が無くなるからではありません。
意識を失うのを恐れているのです。
意識の喪失がわたしの死だからです。
植物人間に成ったらみなさんは生きていると言えますか?
逆に身体を失ってもわたしと言う意識を保てたら、
死と感じますか?
そうです。意識を喪失するのを恐れるのです。
ですが人にとって肉体の死はわたしの意識の死だから
肉体の死を恐れるのです。
身体を離れていて、永遠であり、決して失うことの無い、
わたしを見いだした者に取ってはもや身体の死はわたしの
死ではないのです。
このような存在にとって肉体の死とはただ身体を失うだけなのです。
このような存在は肉体を失っても永遠の安らぎの中で生きているのです。
お釈迦様は成道なさったとき、
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2014/03/14
15:36:13
西洋と東洋の宗教のトップからの世界へメッセージ
ダライ・ラマの言葉。
いくら欲望が満たされても本当の「幸せ」にはたどり着けない。
それはもう二十世紀に歴史が証明してくれました。
欲望を追求し、人と争い、挙句の果てに戦争まで起こしても、
私たちは幸せになるどころかますます苦しくなり、
世界は最も悲惨な姿になってしまった。
欲望を追求した先は、幸せどころか自滅と崩壊の道につながっていったのです。
二十一世紀を生きる私たちはこの失敗を認め、
誤った認識を正していかなくてはいけません。
これまで当たり前だと思っていた価値観を見直し、
平和な世界を築く必要があります。
それはこの地球に住む全ての人間の責任なのです。
ローマ法王
汝(なんじ)殺すなかれ、という戒律が人間生活の価値を守るための明確な
制限を設定しているのとまさに同じように、
われわれは今日、排除と不平等の経済に
『汝向かうなかれ』と言わなければならない
現在の経済システムは「その根本において不公正」この経済は(人間性を)殺す。
世界中に差別や貧富の差を生み出すことに、経済・政治・思想・宗教までもが
加担しているのは事実です。
大量の食料が無駄になっているにもかかわらず、
世界にいまだ飢餓がはびこっているのは「容認できない」
ひとのこからのメッセージ。
東西の宗教を代表するお二人が示すように今の強いもの勝ちの野獣のような
経済や世界のシステムは、
その根本において間違っていています。
悪人を裁き排除すれば、善だけの世界が来る。
私の幸せを追求すれば私の幸せが得られる。
宗教やその道までもが不公平に加担しています。
このような自分が良ければと言う生き方が間違っていたことは
今を見れば明らかであり、
今までの間違いを無駄にすることなく我々は素直にそれを認め
生き方を改めねば、なりません。
今、世界を見ますと、どの位の人が世界に殺されているのでしよう。
世界も経済も人の為にあるのです。
今、我々は人を殺す世界の制度にNOと言わねばなりません。
今の世界は幸いにして皆さんが望めばどんな世界にでも変わるのです。
この東西の宗教家の言葉を宣言に言葉だけに終わらせてはなりません。
皆さん一緒にNOと言いませんか?
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ダライ・ラマの言葉。
いくら欲望が満たされても本当の「幸せ」にはたどり着けない。
それはもう二十世紀に歴史が証明してくれました。
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私たちは幸せになるどころかますます苦しくなり、
世界は最も悲惨な姿になってしまった。
欲望を追求した先は、幸せどころか自滅と崩壊の道につながっていったのです。
二十一世紀を生きる私たちはこの失敗を認め、
誤った認識を正していかなくてはいけません。
これまで当たり前だと思っていた価値観を見直し、
平和な世界を築く必要があります。
それはこの地球に住む全ての人間の責任なのです。
ローマ法王
汝(なんじ)殺すなかれ、という戒律が人間生活の価値を守るための明確な
制限を設定しているのとまさに同じように、
われわれは今日、排除と不平等の経済に
『汝向かうなかれ』と言わなければならない
現在の経済システムは「その根本において不公正」この経済は(人間性を)殺す。
世界中に差別や貧富の差を生み出すことに、経済・政治・思想・宗教までもが
加担しているのは事実です。
大量の食料が無駄になっているにもかかわらず、
世界にいまだ飢餓がはびこっているのは「容認できない」
ひとのこからのメッセージ。
東西の宗教を代表するお二人が示すように今の強いもの勝ちの野獣のような
経済や世界のシステムは、
その根本において間違っていています。
悪人を裁き排除すれば、善だけの世界が来る。
私の幸せを追求すれば私の幸せが得られる。
宗教やその道までもが不公平に加担しています。
このような自分が良ければと言う生き方が間違っていたことは
今を見れば明らかであり、
今までの間違いを無駄にすることなく我々は素直にそれを認め
生き方を改めねば、なりません。
今、世界を見ますと、どの位の人が世界に殺されているのでしよう。
世界も経済も人の為にあるのです。
今、我々は人を殺す世界の制度にNOと言わねばなりません。
今の世界は幸いにして皆さんが望めばどんな世界にでも変わるのです。
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2014/05/12
18:59:09
暴れ牛
十牛図とは禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした
十枚の絵で表したものです。
1.尋牛(じんぎゅう) -
牛を捜そうと志すこと。
2.見跡(けんせき) -
牛の足跡を見出すこと。
3.見牛(けんぎゅう) -
牛の姿をかいまみること。
4.得牛(とくぎゅう) -
力づくで牛をつかまえること。
5.牧牛(ぼくぎゅう) -
牛をてなづけること。
6.騎牛帰家(きぎゅうきか) -
牛の背に乗り家へむかうこと。
7.忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) -
家にもどり牛のことも忘れること。
8.人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) -
すべてが忘れさられ、無に帰一すること。
9.返本還源(へんぽんげんげん) -
原初の自然の美しさがあらわれてくること。
10.入鄽垂手(にってんすいしゅ) - まちへ...
だいたいこんな解釈だと思います。
この牛とは心を表し
人は人の言動ばかり気にかけて自分の心を見ていない状態から
自分の心に意識を向け出し
心と言う暴れ牛を手なずけて行くことが悟りの道です。
まあ、手懐け方も様々あり方法は別れるわけですが
手懐けると言う目的においては同じです。
方法において方法を放棄すると言う方法も
教えられるのですが、
それすら心の制御のためです。
世界の一切の宗教も教えも
目的において同じものなのです。
方法で対立する必要は無いのです。
これを霊主体徒と言っても良く
人が心の乗り手に成ること
心が勝手にさ迷い動く間は心が主、人は徒です。
ここで問題なのは
乗られているのか、乗っているのか、
人には分からないと言うこと。
心が表す思いを自分の思いと思うから
乗っているように見える。
私が考えた私が思っただから
乗っているように見える。
だから暴れ牛を手懐けることが難しい。
このコツは、
牛が走りだそうとしたら、走らせはならない。
走り出す原因に気づくことです。
だいたい牛が走り出そうとするのは
牛自身に問題があるのです。
それに気付いて行くことで牛は段々大人しくなり
牛が完全に大人しくなり
貴方の指示なしには微動だにしなくなると
牛とは心だから心は不動になり
牛が消え去ってしまう。
牛とは心の暴れたものだったからです。
牛が消えると世界も消え去って無に帰一す。
世界とは心が生み出していたものだからです。
世界が無に帰一して
人の心は始めて純粋になり
本来の私に帰る。
私が消え去って残るものが本来のわたしです。
こうして世界で童子として
遊ぶことができるようになるのです。
心がさ迷う時に牛と言う形態を現し牛と言う携帯
そのものが私と言うものです。
決して牛「心」を動かさずに動くことを覚える。
牛「心」が動かずに動けたら完成です。
常に中心に定まりながら
決して動くこと無く動くことを身に付けるのです。
心を使わずに動くのです。
十牛図解釈でした。
フェイスブックでも活動しております。
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十枚の絵で表したものです。
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牛を捜そうと志すこと。
2.見跡(けんせき) -
牛の足跡を見出すこと。
3.見牛(けんぎゅう) -
牛の姿をかいまみること。
4.得牛(とくぎゅう) -
力づくで牛をつかまえること。
5.牧牛(ぼくぎゅう) -
牛をてなづけること。
6.騎牛帰家(きぎゅうきか) -
牛の背に乗り家へむかうこと。
7.忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) -
家にもどり牛のことも忘れること。
8.人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) -
すべてが忘れさられ、無に帰一すること。
9.返本還源(へんぽんげんげん) -
原初の自然の美しさがあらわれてくること。
10.入鄽垂手(にってんすいしゅ) - まちへ...
だいたいこんな解釈だと思います。
この牛とは心を表し
人は人の言動ばかり気にかけて自分の心を見ていない状態から
自分の心に意識を向け出し
心と言う暴れ牛を手なずけて行くことが悟りの道です。
まあ、手懐け方も様々あり方法は別れるわけですが
手懐けると言う目的においては同じです。
方法において方法を放棄すると言う方法も
教えられるのですが、
それすら心の制御のためです。
世界の一切の宗教も教えも
目的において同じものなのです。
方法で対立する必要は無いのです。
これを霊主体徒と言っても良く
人が心の乗り手に成ること
心が勝手にさ迷い動く間は心が主、人は徒です。
ここで問題なのは
乗られているのか、乗っているのか、
人には分からないと言うこと。
心が表す思いを自分の思いと思うから
乗っているように見える。
私が考えた私が思っただから
乗っているように見える。
だから暴れ牛を手懐けることが難しい。
このコツは、
牛が走りだそうとしたら、走らせはならない。
走り出す原因に気づくことです。
だいたい牛が走り出そうとするのは
牛自身に問題があるのです。
それに気付いて行くことで牛は段々大人しくなり
牛が完全に大人しくなり
貴方の指示なしには微動だにしなくなると
牛とは心だから心は不動になり
牛が消え去ってしまう。
牛とは心の暴れたものだったからです。
牛が消えると世界も消え去って無に帰一す。
世界とは心が生み出していたものだからです。
世界が無に帰一して
人の心は始めて純粋になり
本来の私に帰る。
私が消え去って残るものが本来のわたしです。
こうして世界で童子として
遊ぶことができるようになるのです。
心がさ迷う時に牛と言う形態を現し牛と言う携帯
そのものが私と言うものです。
決して牛「心」を動かさずに動くことを覚える。
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2015/02/09
18:04:18
宿命とは起きることは起きて決して
変えられないと言うことで静止を司り
運命とは内側が変われば外側も変わり
心が変われば運命も変わり動きを司る
静止の宿命は変化を否定しないから運命と共存する
宿命を感じて不動の心を持ち
運命を感じて一生懸命に生きる
人の私の動きと言う感覚は心の動揺から現れる
動かずに動くこと
心は静かに行為は精一杯
行為は続くが私の行為は無いを体得すんです。
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運命とは内側が変われば外側も変わり
心が変われば運命も変わり動きを司る
静止の宿命は変化を否定しないから運命と共存する
宿命を感じて不動の心を持ち
運命を感じて一生懸命に生きる
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動かずに動くこと
心は静かに行為は精一杯
行為は続くが私の行為は無いを体得すんです。
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