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大乗それは偉大な乗り物、万人を乗せる救済の船
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15:13:03
人間はサマディを何か特殊な超越的状態であると思っている。
人間から見ると超越的に見えるかも知れないが、
サマディとは存在の自然な状態なのである。
感覚器官が指し示す、宇宙から切り離された個人(我)いると言う錯覚は
自我を作り上げ執着を作り上げている。
その執着の塊である、自我が内外の何かに触れると執着により心が動く。
この自我を作り上げる以前の執着の無い、
心が停止した状態がサマディなのである。
人間の本来の姿がサマディなだ。
心の動きとは緊張なのである。
緊張が全く無い完全にリラックスした状態がサマディである。

はじめから人間はであったものを今でも貴方であるものを、
いったい何処から得るのか!
こんな事は馬鹿げていないか!

人間はは、はじめから、今でも、これからもサマディなのである。
本来の意味において私はサマディを得たとか、
達成したとかと言うものではないのだ。

人間はサマディである為に何かを行おうとするが何も行わないことこそ
サマディなのである。ただ在ること、何もせず、
ただ在ることこそがサマディなのだ。

心の一点集中はサマディに似た状態を作り上げるが
条件が付いた心の静まりであり集中が解ければまた心は
活動的になるサマディのまま世界で活動する事は出来ない
何にも囚われない無執着の何が起きても動かない心こそが
本当のサマディなのである。本来心とは執着が無ければ決して
動く事は無いのである。これこそが本当の集中なのでありこれが
自由な心と呼ばれる。


・では何故今でもサマディであるなら、何故それを自覚していないのか?

心の活動が自覚を邪魔しているのである。

・心が活動しているからわたしは、
 今サマディーを得てはいないのではないか。

これは映画を見ているのと似ている。
映画の上映中にスクリーンを意識してはい無い
映画の上映が終わるとスクリーンが表れるが、
映画の上映中にはそのスクリーンは
無く、映画の上映が終ったとき表れたと言えるのだろうか?
映画の上映中もスクリーンはそこにあったのである。

サマディは如何なるものにも影響を受けない、
どんなに心が活動的であっても
どのような影響も受けずにそこにある。
無いように見えるのは、心の活動に
覆い隠されているからなのである。

人間はサマディや悟りや解脱や光明を何処からか、後から手に入れたり
神や仏を何処からか見つけようとしているが、はじめから今でも貴方は
それなのである。私はそれだったのだと気づく為だけに教えがあり
道があるのであるが目的地に着いた後には、実は出発点そのものが
目的地であった事に気づくのである。
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23:13:41
禅や瞑想の困難は悪魔の誘惑である。
釈迦の修行の間付きまとったと言われる悪魔である。
この悪魔に勝利することが解脱や解放と言われる。
一体この悪魔とは何者であるのか?


中村元氏のゴータマ・ブッタで最古の記録として紹介されている
一文を取り上げる。
------------------------------------------------------
汝の第一の軍勢は欲望であり、第二の軍勢は嫌悪であり
第三の軍勢は飢渇であり、第四の軍勢は愛執であり、
第五の軍勢はものうさ、睡眠であり、第六の軍勢は恐怖であり、
第七の軍勢は疑惑であり、第八の軍勢はみせかけと強情とである。

誤って得られた利得と名誉と尊敬と、
また自己を褒め称え他人を軽蔑することは汝のの軍勢である。
勇者ならざる者は彼に打ち勝つことはできない。
・・・・・・・バラモンどもは汝の軍勢に沈没してしまって見えない。
・・・・・・・神々も世間の人も汝の軍勢を破りえないが、
わたしは汝の軍勢を知恵を持って破る。
------------------------------------------------------

以上このような物である。
これを見て言える事は、悪魔とは自身の心から現われる思いである。
このような思いから自由になることが、解放であり解脱なのである。
我々はこの様な思いに束縛されているのである。
思いとは内外の条件により現われるものであり、
我々の思いではないのである。
この事についてはわたしのほかの記事を読んでいただきたい。


この様な悪魔と言われる思いは生活のいたるところで現われているが
ここでは、禅と瞑想の時に現われる悪魔の軍勢を取り上げる。



禅や瞑想の中で静寂は、だるさや疲れややる気の無さ、
の中にあるものである。やる気があると言うことは、
心が活動的であると言うことであり
静寂とは反対のものである。
我々は禅や瞑想でどのような中に入り込もうとしているのだろう。
目覚めた眠りのような状態である。
目覚めていながら、心が停止した状態である。
目覚めながら眠りにつく状態なのである。
眠くなった時疲れを感じたり、だるさを感じたりやる気の無さを感じるのは
普通にあることである。
心の停止とはこの様な感覚を普通に伴うものなのである。
静寂に入る際この様な感覚が付き物なのである。


禅とは瞑想とは眠気との戦いと言っても良いのである。
眠気はだるさや疲れややる気の無さを作り出す。


わたしたちが禅や瞑想をする時、やる気のあるとき、
やりたい時やっていたのでは、決した静寂には入っていけない。
むしろやる気がどうしても出ない時のほうが心は静まっており
禅や瞑想には向いているのであるがその時はやる気が無い時と
言うことになる。


禅や瞑想中に眠気やだるさ疲れややる気の無さを感じた時
我々は禅を瞑想をやめる言い訳を探すことになる。
疲れて眠くなってきた。あしたは仕事があるし、
今まで一生懸命にやってきたのだし
又明日からがんばれば良いじゃないか、
今日も疲れを感じるまで頑張ったではないか、
それに何か寒くもなってきたし
・・・・・・・等これが悪魔の軍勢である。
止めたいときは止めたいだけ色々な言い訳を考える、
これが悪魔の軍勢である。


もしどのような言い訳も認めず、
このままでは死ぬのではないか?と言う
死の恐怖も認めず、現われる思いは現われるままとし。
去る思いは去るままと出来るなら、今でも我々はブッタとなる。
ブッタとは自分の思いに勝利した存在のことである。


禅や瞑想をやりたい時だけ、やりたい間やるのでは何の意味も無く
結局はくじけるのである。
このくじけると言うことも悪魔の軍勢なのである。
個人的に禅や瞑想をすることが難しいのはやりたい時だけ
やったのではほとんど意味が無いことと妄想を悟りと勘違いする
ためである。どのような体験も悟りではないと言うことも
忘れてはいけない。体験を超えることが悟りなのだから。



鍵は自分の意思で思いに勝利することである。
この思いとは内外の条件で辛さを感じたらそれを避けるために何らかの
思いが現われているだけなのだ。
どの様な思いでも一時的物である、移り変わっていくのである。
思いとは只の現象なのである。その後ろに誰もいないのである。
思いには左右されないという我々の中心深いところでされる決心
をすれば悪魔の軍勢は退散するのである。


特にものうさと眠気は一見悪魔の軍勢には見えないことがあるので
注意しなくてはいけない。
ものうさは静かにしていて落ち着いていると感じ
眠気は生理的現象ととってしまう。


もちろんゆったりしている事も、寝ることも必要であるが
必要以上には必要ではない。


座り方や手を何処におくかが禅や瞑想に必要なことではないこと
とわ言っても安定した座り方は心を鎮めるためには
必要であるが、少しずつ見つけられるようになるだろう。
只何処までも、どんな思いや心像が現われても、
来るものは来にまかせ、去るものは去るままにまかせる。
例え眠いでも疲れているのではでも、明日も仕事だでも
全ての思いをそれに左右されずあるがままにしておくこと
あるがままにできないと言うことは、左右されていると言うことを
あらわすからである。何かを避けると言うことは
それに邪魔されていることをあらわすのである。
どこまでもそれを続けることが瞑想や禅であり
最終的には日常の全てをあるがままに任せることこそが
瞑想であり禅である。


瞑想や禅で大事なことは毎日決めた時間きちんとやること。
どんな自身の言い訳にも耳を貸さないこと。
表れる思いはあわれれるままにしておくこと。
駄目でも駄目でもやり続けること。
戒律的にしないこと、あくまで自身の意思でやりぬくこと。
決して集中しないこと、何かをせずあるがままであること。
静けさを楽しむこと。


瞑想期間中、覚醒の道を歩むあいだ中に迷い疑いやその他の
悪魔の軍勢はいたる所で姿を現すだろう。
その疑いが一時的に覚醒の道から退くかもしれない
このような内的外的条件で現われる思いから
自由になることこそ解脱なのだと知り
強い意志を持って続けることが大事なのである。
もし挫けた自分に気が付いてもせめてはいけない
それも次の段階に行くために必要であることを
理解しなくてはいけない。失敗も必要なのだ。


自我とは過去の内的外的条件で現われた思いの集まり
であり、自我が何かと触れることで立ち現われる
思いとは過去に束縛されているのである。
その思いに束縛されると言うことは
過去に束縛されていると言うことである。
これこそ束縛なのである。

自分の思いと思っている過去の条件付けから自由になる事。

19:45:15
不満とは怒りや悲しみを生み出す原因となるものである


この不満と言うものは我々の見る目が一時的現象の
表面だけをとらえるから表われる思いである。


我々は無常を感じ覚醒の道を進みだす。


この無常を感じなければ覚醒の道に進むことも無いだろう
この無常とは決して喜ぶべきことでは無かったはずである


我々は辛いことを沢山経験して無常を感じるのである
この辛いことが無常を感じるほど沢山無ければ
現象世界の欲望を追いかけ続けているだろう。
辛いことを無常が感じられるほど沢山味わうことが
覚醒の道を選ぶ条件になるのである。


如何してこの様な苦しみが不満になるのだろうか?
覚醒の道を進み始めていない人は苦しみと感じることは
当然であり、それが苦しみと感じるからこそ終いには
無常を知るのであるが
覚醒の道を進んでいる存在はこの様な表面的、一時的とらえ方で
不満を感じてはいけない。


自分と同じように他の人も人はそれぞれ自身の遣るべきことを
遣っているに過ぎないのである。


誰かに不満を感じたり何かに不満を感じるべきものではないのである
感覚器官が指し示す個人(我)があると言う印象にしたがい
自我が作られ自我と自我と言うものは対立するものだから
世界は自分の思うようには行かない。
また生きていることによる苦しみが加わり苦しみを無常が感じるほど
経験し個人は覚醒のみとを進みだす。


世界と言うものもいくどもの戦いを経てつながりが広がり
個人の利益の追求は個人の利益とはならなくなり
最後には世界の覚醒に向かう


全ての事は必要だからおきているのである。
神は全体は慈悲深いものである。
決して我々の役に立たないことはおきないのである。


宇宙の一切は直接的に間接的に影響を与え合いつながって生滅
変化している。全体として動いて言うものなのである。


不満とはあさはかな物の観方により現われるものである。

真理を知るとは、真理になることである。
物の見方や考え方や行動が変わらない真理とは一体どのような
真理なのであるのか。


覚醒の道を進みだした存在は不満を克服しなくてはいけないのである。
不満を克服して始めて聖なる存在となるのである。


表面的な一時的な事物のとらえ方を止め不満が現われた時は
長い目で深い意味を考える事が必要なのだ。
その内には、一々考えなくても不満に気づいただけで不満は消えるようになる
最後には不満は現われず、知が現われるようになる。
これが洞察である。


仏教の唯識ではこの不満の代わりに現われる知を以下のように表わしている。。
-----------------------------------------------------------------------------

修行の結果悟りを開き仏になると、8つの「識」は「智」に転ずる。
これを転識得智(てんじきとくち)という。

1・前五識(五感)は成所作智(じょうしょさち)に
2・意識は妙観察智(みょうかんざつち)に
3・末那識は平等性智(びょうどうしょうち)に
4・阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち)に転ずるとされている。
-----------------------------------------------------------------------------

今回わたしが語ったことは正しく思うと言うことである
正しく観る。正しく思う。事により正しい行為が生まれ
心の統一が生まれる。


どの様な教えも方法も正しく観る正しく思うためにあるのである。
仏教の八正道の前の基本の二つで得あるが
この聖なる道は過去の如何なる教えから現われた聖なる存在も
この道を通ったのである。
この道を通らずに聖なる者にはならないのである。


不満を無くすと言うことは、
不満を我慢するとは異なる
不満が上手くなくならない時は、縁起の理解が洞察が足りないく
縁起に対する信が足りないのである
正しく観ることを深める必要があるのである。
この道は長い道のりである
上手く行かないのは上手く行かせる為におきているのである。
あせらずどんなに上手く行かなくても、上手く行かないのも
その他のことと等しく必要だからおきているのだから
決して自分を責めずにゆっくり進むことが大事である。
上手く行かないのも不満を無くす手練となるのだから
この世に役に立たない失敗と言うものは無いのだから


正しく思うは行為であり結果は自分で確かめられるから是非ご自身で
確かめて頂きたい。
特に真理を理解していると思っているのに、行動が聖なる存在と
なっていない方は是非確かめて頂きたい。


19:48:09
不満とは結果主義の人間が持つものであるが
結果とは実際には無いものなのだ。

因が果を生み果が因となり次の果をもたらし
又果が因となる。

この様に結果と言えるものは無いのである。
我々は過程を生きているのである。
良いことがおきる。それが原因で悪いことがおきる。
それが原因で又何かが起きるというようにつながって
変化して行くものであって、結果とは終わりがあって
始めて結果と言えるのである。

では我々の終わりとは何であろうか?
死んだら全てが終わると思っているのであれば
どんな良いことがおきても喜べないだろう
その結果として最後には死んで終わりだからである。


だが死んで終わりとはならない。
我々人の終わりとは、悟りになることである。
誰もが何時かは悟りになる。
個々がそのために必要な体験をしているのである。


結果と言えるのは悟りになる事である。
悟りになる前の体験は過程である
一時的なあさはかな現象のとらえ方をし不満を表わすな。


少なくても覚醒の道を歩みだしたものがこの様な現象の
とらえ方を続けていては行けないのである。


不満が消えたら怒りも悲しみも対立も消え去る。
相手の状態を認められるようになるからである。
今の世界の状態を認められないから不満が現われるのである。


以前チベットのダライラマがインタビューで日本に原爆が落とされたこと
について意見を求められたさい、ダライラマは悪いこととも良いこととも
もっと先を見なくては言えないと言うような事を答え大反発を受けたことを
思い出した。


ダライラマの現象のとらえ方は正しいとらえ方である。
だが日本はチベットとは異なることを理解していなかったのか
知っていたが忘れていたのだろう。
そのため本心を言ってしまったのである。


ダライラマはチベットが同じ状態になってになてもダライラマは結果はまだ
分からないと言うのである。
他人事だから言っているのではないのである。
チベット返還運動を行っているが当然のことを行っているだけであり
現状を結果とはとらえていないのである。


覚醒の道を進んでいるものはあさはかなものの捕らえ方による
不満を抱くことを止めねばならない。

19:39:19
人格が完成される前、凸凹の自我である間、人間は
何かにこだわり続ける。
名前に形に方法に教えに真理にこだわる。

何々教、と言う名前に、教えと言う形にこだわっては
行けないのである。
ここで釈迦の原初の言葉を交えながらこだわりについて語ってみる。

-----------------------------------------------------
見よ神々ならび世人は非我なるものを我と思いなし
名称と形態とに執着している。
(これこそ真理であると考えている)
・スッタニパータ、756
-----------------------------------------------------

神仏にとって何々教も一神教も多神教も無いのである。
まさにこれだけが正しい教えとは無いのだ。
わたしは仏教の用語をよく使うが便利だから使っているのである
どれもこれも異なるものではないのである。

悟りとは名前と形態というこだわりを捨てることである。
我々は一体何処に行こうとしているか理解しなくてはいけない
名前と形態の彼方である。


彼岸とかニルバーナとか涅槃とか、天国とか言われているが
ここは対立を超えた彼方であり相対性の世界を超えた彼方であり
二元性を超えた彼方であり、認識作用を超えた彼方である


この事を真理になるともいい、悟りになるとも言い
神との一体化とも言い、言葉は沢山ある。


対立を超える教えが対立を作るわけが無いのである。
対立を作っているのは自我である。
聖なる存在にはどの教えも異なるようには見えないのだ


人間が存在する以前から神仏は存在している。

ブッタとは仏とは特定の個人を表わすものではない。
聖なる存在とはブッタのことであり仏のことである
何処の聖なる存在が教えをのべてもそれは仏の教えである。

-----------------------------------------------------
世の学者たちは、めいめいの見解に固執して
互いに異なった執見を抱いて戦い
みずから真理への熟達者であると称して
さまざまに論ずる。
この様に知る人は真理を知っている
これを非難する人はまだ不完全な人である。

・スッタニパータ、878
-----------------------------------------------------

上の釈迦の言葉からいくつかの事が分かるだろう
学者たちとは見解に固執している人間である。
見解に固執している者は全て学者といえる。
覚醒の道を歩くものは固執をしているものでは
無いからである。


戦い論ずる者はこれも学者と呼ぶしかない
覚醒に道を歩むものは対立を超えていくからである。


・非難せずこの様に知る人は真理を知っている
・これを非難する人はまだ不完全である。


これは大事な言葉である。
何かを間違いであると知っていてもそれを非難すれば
不完全なのである。
完全な存在は誰かを何かを非難はしないのである。


何が正しくて何が間違っているか例え理解できたとしても
誰かを何かを非難するのであればそれだけで不完全なのである


正しいか間違っているのか戦い論ずる者はそもそも
聖なる道を歩いてもいない学者であり。
それを理解できていても非難するだけでこれも不完全であり

完全な存在は理解していて非難しないものなのである。
完全な存在はこの世に非難されるべきものは存在しない
ことを知っているのである。


めいめいの見解に固執して戦うことは非難されるべき
事ではない、自我を持っていて、自我に疑いを
持たない者は固守して当たり前なのである


全ては全体の流れの中で全ては現われたものであり
異なる言葉で表わせば神仏だけが存在し全ては神仏の現われであり
個人(我)など無いのである。


これを非我と呼んでも無我と呼んでもかまわない
宇宙の一切は非我であり無我であるのに
一体誰の責任なのであろう。
個人(我)が無いのに一体誰の責任なのだろう
誰もいないと言うのに一体誰の責任なのだろう
非難されるべきものはこの世には存在していないのである。


どの宗教も個人の誰かが説いたのではない
自分と異なると思える教えと和することが
必要なのである。
中には新興宗教のなかには悟りえとどかない者もあが
それを受け入れる人がいる間は存在価値があると
言うことである。
存在価値が無くなれば自然に消え去るのである。


こう言うと味噌もクソも一緒にするなと怒られる
かも知れないが、矛盾無く味噌もクソも一緒に出来たら
それが正しいのである。


こだわりを無くすとは味噌もクソも一緒にすると言うことなのだ
知恵が足りないからこだわりが生まれるのである。
全体を丸めて矛盾無く理解する知恵がまだ無いから
自分の心の状態により何かの教えや何かの方法に
固守するのである。
実際に味噌もクソも同じである一つのものの現れであるから


わたしの信じる教えこそ正しいと感じているなら
まだまだ足りないのである。

-----------------------------------------------------
真のバラモン(悟ったもの)は他人に導かれることが無い。
また諸々の教えついて断定して固守することも無い
それ故に諸々の論争を超越している

・スッタニパータ、907
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真実よりも真理よりも対立しないことのほうが大事である。
対立をすること自体不完全であることを表わすからである。
だから真理よりも対立しないほうが大事なことだと
語るのである。

18:24:30
無心とは暗く乾いたイメージを与えるかもしれない
無表情の仏像を思い浮かべないだろうか?

無心で生きるとは味気ない生と感じるのではないだろうか?
この様な誤解はまだ無心を理解できていないことから生まれる

真実は
無心だけが今を楽しめる
無心だけが全てをを楽しめる
無心だけが生を楽しめる
無心だけが楽しみなのである

無心で生きることだけが生を味わえるのである。


我々は小さいころ何にでも夢中になり自分を忘れたそう無邪気でいられた。
段々成長するにしたがって無邪気でいられなくなってくる。
それは如何してなのだろう?
野心が無邪気さを奪っていくのである。


我々は始めてのとこに旅に出ると普段と異なるほど全てが新しく
新鮮に感じるのである
では如何して異なる事物でないと新鮮な気分にならないのだろうか
過去の事物と比べる事が邪魔をしているのである。


花を観た時花は生きていて何々の花と名前で呼んだ時、花は死んでいる
心をさしはさまず観ることだけであるとき全ては生きており
心をさしはさんだ時、過去の記憶の印象に切り替わるのである。


無心とは乾いた無表情の仏像のようなのではない
無心とはなんの囚われもない無邪気になることである。

その為には我々が背負っている自分のものではない人生のお荷物を全て
降ろす必要があるのである。


何の野心も無い無邪気さ全てをあるがままにまかせきる事から生まれる
無邪気さこれが無心である。


これは子供の無邪気さともちょっと異なる。
子供の無邪気さは何も知らないことから生まれるのでであり
知れば知るほど無邪気さは消えていく
無心の無邪気さは全てを知ったことから現われる無邪気さなのである。
完全な無邪気さなのだ。


このことをある宗教では聖潔と呼んでいる。
聖潔と無心は全く異なるように見える
無心が乾いた生気のない暗い無表情な
イメージを与えるからである。


無心とは全てが新鮮で全てが美しく全てが楽しい

実に生き生きとした状態なのである。
---------------------------------------------------------------
・釈迦の言葉
アーナンダよヴァイシャーリは楽しい。
世界は美しく人間の命は甘美だ・・・・・・・
---------------------------------------------------------------
自我を持つ人間がこの言葉を見ると執着と見えるかもしれないが
これが全ての執着を打ち破った存在の世界の感じ方である。
美しいものを美しいと感じ楽しいことを楽しいと
感じれるのは無心である時だけなのである。

野心は我々に記憶から判断させるのである。
これが野心をもつ大人が子供のように
全てをわすれ夢中になることを妨げているのだ
完全な夢中がサマディなのだ。


もちろん野心は執着から現われその執着の原因は
感覚器官が指し示す個人と言う錯覚の印象により作られる
我執である。


野心から自分を操作(運転)することが現われるのである。
こうあるべきだと言う思いが操作する。

我々が呼吸を追うと言う瞑想を行う時呼吸は静かに長く深くある
べきだと言う思いが呼吸を操作してします。


普段の生活でもこうあるべきだ
これは良いことこれは悪いことだと言う思いが我々を
操作しているのであるこのこだわりを無くすことこうだと言う思いから
開放されることが必要なのである。


これは悪いことでありこれは良いことであると言うこだわりから
離れたら、我々は大変なことになると思っているが
それは逆なのである。
これは悪いことでありこれは良いことだと言うこだわりが
自我でありこれ以外に悪的ことを行うものは無いのである
こだわりが悪的ことを行うのである。

無心は決して悪を行えないのである。


全てはつながっており話は主題からどんどん離れてしまうので
最後にこれを語り今回はこの辺で終わりにする


無心とは全てが新鮮で全てが美しく全てが楽しい

実に生き生きとした状態なのである。


道元禅師が無心の生き方について自分でも悟ったと
意識せず他のものにも意識させず。
生死も意識しない生き方があると言った生き方が
これである。
その為に人格を完成させるのである。

2011/07/05
14:10:17
因果応報


因果(カルマ)は縦糸であり、縦糸だけを
取り出し考えることはあまり意味が無い。
だからあまり語らないがカルマの矛盾を
とらえることにより役に立つことがあるので
語ってみる。


因果の原則
全ての事物には原因がある。
自分の行為の報いは自分で受ける


原則はこのような事である。
自分の過去の行為だけの報いであり
他人の行為の報いは受けることは無い。


因果とは点である個人から個人に
個人の行為が因であり報いも個人に現われるものであると
言うことである。


だが苦しみも幸せも現象として現われる時は面として現われる
誰かの苦しみは、誰かの幸せは例え個人に現われても波紋のように
周りに広がっていくその個人とつながりが深いほど大きい影響を
受ける。家族の幸せは、家族の苦しみは決して個人のものではない


では周りの人たちはだれのカルマで幸せを感じたり、苦しみを
感じたりするのであろうか?
原則では個人の報いは個人しか受けることは無い。
一体如何して個人の幸せも苦しみも周りに広がるのか?
家族の過去の行いで家族も苦しむのは普通におきることである。


災害や事故などはもっと複雑である。
広い面として災害や事故はおきるからである。
広い面として表れまた波紋のように広がっていく。
乗り物の事故などの場合如何して同じ苦しみを受ける人が同じ乗り物に乗り
合わせるのか?と言う問題もおきてくる。


カルマが個人から個人点
または縦線としておきるなら
如何して現象は面として起きるのだろうか?
カルマ縦糸であり点として受けるものであり
広がってはいけないものであるが
現象世界では苦しみも幸せも面として現わ面に広がっていったり
点として現われ面に広がっていく
原則とのむじゅんを一体どの様に理解しますか?


人間が理解している教えとは真理とはこのようなむじゅんが
至るところに含まれている。
個人がいると言う幻想を信じるが故に真理をねじ曲げて
理解しているからである。


因が結果を生み結果が因となり次の結果を生みまた結果が因となる
と聞いただけで個人と言う意識を捨てる準備が出来ている存在は
全てを知ることが出来る。
因果に自由と言うものが入る余地が無いことを知り、個人が無いことを
知り、宇宙の一切は非我であり、自分は無我であることを知るのである。
カルマと輪廻は個人性の領域にのみ存在するのであるから
宇宙の一切は非我でありわたしは無我であるとしり
わたしが行う行為を落とせばカルマも輪廻もその力を失うのである。


我に執着をする人は自分と言う感覚があり自由意志という感覚があるからと
我と自由があることを前提に因果を理解し真実を曲げるのである。
だから矛盾が生まれるのである。
我執を優先し真理をねじ曲げているのだ。
このような段階の人にとっては真理は自我を満足させるために求めている
ものだからである。因果にむじゅんが生まれても
自我は無くてはいけないのである。
だからと言ってこの段階の人が劣っているとかと言っているのではない
誰でもこの段階を経て来るのでありこの段階の人に目を覚ましなさいと
言っているのである。


因果をカルマを語る意味はそのむじゅんから真実を知ること
以外にはないのである。

18:51:29
不快や不満や苦から逃げる。


我々は意識的にまた無意識的に不快や不満や苦から
今まで逃げ続けてきた。


知らず知らずに不快を感じることを避け
不満を感じることを避け
苦を避けているのである。


我々は覚えておかなくてはならない
避けることで何も解決できないのであると。


苦は内側の条件と外側の条件により現われるので
一見外から苦しみを受けると感じてしまうが
苦を感じる内側の条件が無ければ外側の
条件だけでは苦は感じることは無い


苦を感じる原因は内側にあるのだ
外側は条件だけである。


我々は環境を変えれば外側を変えれば苦は無くなると感じている
環境を外側を変えても内側の苦の原因はそのまま残るのである。


外側の条件が変わったことで一時的に苦が現われなくなっているだけなのだ。
逆に内側の苦を感じる原因を無くせば外からどの様な条件が与えられても
苦を感じることは無いのである。


逃げること避けること環境を外側を変えても何も意味は無いのである。
外側を変え内側に苦を感じる原因があることを忘れることが我々の
望みなのだろうか?


また外側は我々が変えられるものではない。
各個人が苦を避け楽を追い求める事により
世界は不調和の世界が出来上がっているのである。
自分が苦を避け楽を求め動く時他の個人には
それが苦にもなりえるのである。
その総体が不調和の世界なのである。
誰でも苦を避け楽を求めるために行為しているのであが
誰が今まで苦を避け楽を手に入れた人がいるのであろうか?


だからこそ最後には人は覚醒の道を求めるのである。
もう避けることは意味は無いと知ることで正面から
向き合い戦う道が覚醒の道であり、
だから覚醒の道は逃げる道ではないのである
人は人生からの逃避などと覚醒の道を呼ぶものがいるが
逃避しているのは自分だと気づいてさえいないのである。
避けて避けて避け続け逃げて逃げて逃げ続け
これ以上逃げることは出来ないと気づくまで逃げ続けるのが
人である。


覚醒の道を歩こうとしている存在は知らなければならない
この道は戦いの道であり、
逃げることを止めなくては戦えないのである。
わたしは苦からに意識的にも無意識的にも逃げる存在を
人と呼んでいる。
死や苦と正面から向き合い戦いを挑んでいる存在を
ひとのこと呼んでいる。


覚醒の道を正しく歩むものをひとのこと呼んでいるのである。
わたしのハンドネームもひとのこ、だが苦と戦う存在は
全てひとのこと呼ぶのである。


覚醒の道とは何かの教えを学ぶことや何かの技法を
手練したり真理を求めることではない。
死や苦などの人間が避けて逃げてきたものと正面から
戦いを挑むことが覚醒の道である。


人生は苦しいと逃げて避けて教えを求めるこのようなものは
只の逃避であり人間が新たな逃げ道求めただけである
それは覚醒の道ではないのである。
覚醒の道は逃避ではなく戦いの道であると気づいて
逃げるのを止め死や苦と正面から向き合い戦いを
挑んで始めて覚醒の道となるのである。


覚醒の道は苦を避ける道ではないのである。
環境を変えようとする道ではないのである。
死を苦を生滅させるのが覚醒の道なのである。


苦はどうしてあるのか?苦とは何か
如何にして苦を生滅させるか苦と向き合う道が
覚醒の道である。


その為の手練が静かな環境を必要とするなら静かな環境に
身をおくことも良いかもしれないが
実際には今のこのままがこのままの日常が苦との対決の場なのである。
苦が現われやすいからこそ対決が出来るのだ。
苦が隠れたら対決は難しくなるのである。
この場がもっとも相応しい対決の場なのである。
環境が苦を不快を感じるからこそ対決は成り立つのである。


どうやって苦に背中を向けて戦えるのだろうか?
苦との戦いは先ず逃げず正面から立ち向かって
苦とは何かを知らなくてはいけない
戦う相手を知らず戦いは成立しないからである。
頭で知るだけでは駄目なのである。
苦の中で苦を感じなくてはいけないのである。
苦を感じ苦の生滅を感じなくてはいけないのである。
道は歩くものなのである。


苦は消滅させることが出来るのである。
苦とは正く世界を観ることができないために現われる
正しく世界を観る事が出来れば苦は只消え去る。
全ては内側の問題なのである。
自分で確かめてみることである。


苦は環境や誰かから与えられるというものではない。
苦とは感じるものであり、与えることは出来ないのである。


聖なる存在に苦を誰も与えることは出来ない
苦を感じる心が無いからである。


誰かに同じ事をされても言われてもある人は苦を感じある人は
苦を感じない受け取り方一つで苦にも楽にもなるのである。


正しく覚醒の道を歩き始めた存在は苦を感じると感謝するのである
苦がまだ自分の中に残っていることを知ることが出来たからである
まだ正見が足りないことを知ることは貴重なことであり
だからこそ苦と対決できるのである。
苦を不満を不快を感じることが出来ることは幸せなことなのである。
苦を不満を不快をその経験は貴重なことなのである。
如何して環境を外側を変える必要があるのだろうか?


このように感じることが出来れば苦を不満を不快を楽しめるのである。
楽も楽しみ、苦も楽しめば我々は豊かになるのである。


最後に苦から逃げるなと言っても初めから全てが上手く行くものでは
ありません。
分かっていても逃げてしまうことも何度もあることでしょう。
決して自分を責めてはいけません。
誰も初めから出来る人などいません。
苦に向き合い戦いを挑んでも何度も負けるかもしれません。
それでいいのです。
その積み重ねが苦を知ることになり
最後には勝利することでしょう。
苦との戦いと言っても苦を正面から向かい理解することが
戦いです。理解できたら苦は消え去るのです。
怒りが現われたら怒りが現われたと気づくこと
気づくことでまだ理解が不十分であることが分かるのです。


ここでわたしが語った意味は最終的には苦と戦うのだと
忘れないで頂くためです。
逃げなくて駄目な時は逃げることです。
只忘れないでください、苦は戦って始めて生滅するのだと。
苦は感じるものであり与えたり与えられたり出来ないのだと。
感じるものは全て自身から現われるのである。
全身麻酔をかけた人に誰が痛みを与えられるのだろうか?
痛みも感じるものであり外から受けるのは条件に過ぎない
感覚は自身から現われるのである。
聖なる存在は言うなれば心に麻酔をかけたような物であり
誰も苦を与えることは出来ないのである。
実は世界も自身から現われているのである。
感じる物は全て自身から現われるからこそ苦の消滅が
成立する、苦が他人に依存するものであれば
苦の消滅はありえないのである。



・わたしの体験談
はじめは怒りが爆発した後にあ怒りが現われたと気づいていなしたが
徐々に気づくのが早くなり怒りが爆発することが無くなっていき
少しずつ小さな怒りに気づくようになってきました。
怒りと正面から向き合うようになって二年位たつころから
意識しなくても怒りが現われる瞬間に気づくようになってきました。


そうです意識しなくも気づくとは無意識層まで怒りをとらえようと
し始めたと言うことです。
そのうち夢の中で怒りが現われても怒りだと気づくようになってきました。
これは夢だと気づくわけではありませんが、怒りに気づいているのです。
夢の中でさえ怒りが少しづつ消えていくのです。
目覚めている世界で怒りを克服すれば夢の世界でも怒りを克服出来るのです。
無意識の層までしみこめば寝ても覚めても手練をしているのです。
このことで又気づきが生まれるのです。
我々は何度も失敗を繰り返すだから何度も何度も怒りに気づくが
その繰り返しが無意識層も変化させるのです。
何度も何度も繰り返し繰り返すことが大事なのです。
繰り返し繰り返し繰り返すことが大事なのです。
それが自然に起きるようになるまで。
そう考えると失敗と言えるものは無いのです。
失敗とは実に貴重なものです。



はじめは大きな怒りとか欲求に気づいていること
次第に小さな怒りや欲求に気づけるようになるでしょう
最終的に心の動き全てに気づくようになるのです。
心の動きのある間宇宙の道理の理解を深めていいく
心の動きえの気づきがより深い理解を与えるででしょう。
何より大事なのは成功ではありません。
深層意識にしみ込むまで繰り返すことが大事なのです。
気づきが自然に現われるまで続けることが大事なのです。



このころから夢のなかでも宇宙の理法を理解
しようとするようになってきました。
夢の中まで悟りの夢となってきたのです。
現実離れした夢はこのころにはほとんど見ることは無くなったのです。
例え現実離れした夢を見てもその中での自分の心の動きを
これは執着により現われたこだわりだとか分析しているのです。
夢の中でまで悟ると言うことがおきて来たのです。
夢の中でも気づきが生まれるのです。
実は今日も夢の中で大変大事なことに気づきました。
そのことは又語ります。


夢まで支配すると言う思議なことが現われたのか興味がある方は
是非自分でお試しあれ!



15:43:54
今を生きる・優しさ


本当は大事な人なのに優しくなれない
悲しませたくないのに冷たい態度冷たい
言葉を向けてします。


これは誰でも経験していることだろう。
親孝行したいときは親はいないものです。
如何してこの様な事がおきるのであろう?


今を生きていない人は何かの野心で生きているからである。
ここで語る野心とは自分のことを考えた行為の元になる物で
自分のことを考え行われる全ての行為の元になる意図をわたしは
野心と呼んでいる。


我々の全ての行為は野心により行われる。
それが善でも悪でも同じなのだ。
功徳のために善を行っても
悟りのために善を行っても
自身のために行われる行為は野心による物なのだ。
別な呼び方をすれば損得を考えて行われる行為は全て
野心なのだ。


我々の全ての行為は何であれ野心により行われている
この野心が我々から優しさを奪うのである。
意識的にも無意識的にも自分の先を常に考え
今の行為を行っているのである。


人は死を受け入れたとき優しさに満ち溢れてくる。
我々はこれが最後の言葉かも知れない、
これが最後の行いかも知れないと思っている時優しくなるれのである。


これは如何してか?
未来が無ければ野心は存在できないからである。
野心は未来があり始めて成立するのである。
これが最後ならそこに野心は含まれないのである。


我々は先のために未来のために今生きているのである。
常に今を取り逃し続けるのだ、野心や常に未来のために
今を生きさせるのである。
先は未来は永遠にこんなこない故に野心では今を生きることは
出来ないのである。永遠に来ない未来のために今を生きていることは
馬鹿げたことと思わないかね!
だから死を迎えるとき未練がおきるのである。
未来のために生きていて今を取り逃し続けるからであり
その未来を手にすることなく死を迎えるからである。
我々は知らなくてはいけない、次の瞬間が来るとは限らないことを
そのように正しく認識すれば人は優しくなれるのである。
思い残すことは無くなるのである。


親に妻に語る時これは最後かもしれないと明日があるとは
考えず接して見なさい。



今を生きるとは野心を捨てることである
今を生きるとは無心で生きることである
心は常に過去か未来に向かうのであり


それは意識が過去か未来に向かったとき
心になるからである
心とは今を生きれない性質なのである。



我々は今のために生きなくては行けない今を生きれば
宇宙の一切に優しくなれるのである。



無心で生きることが悟りであると禅では千年以上前から言っているが
人間は無心にあまり価値を感じないあまりに簡単なことに単純な
事に感じてしまうからである。
自我とは簡単なことに単純なことに興味は無い。
難しく複雑であるほどやりがいを自我は感じるからだ。
だから道端の小石に興味はないのであり、
人の持ち物ほど良く見えるのだえる。
だが無心とは簡単なように見えこの世で一番難しいことであり
単純なようでこの世で一番深いのである。
何せ過去と現在と未来が一ヶ所にあるのが無心なのである。
我々は一瞬として味わったことはないのである。


わたしが語ることは無心の神秘さ難しさをかたり興味を
持っていただくことと無心をどうやったら実現できるのか
なのである。この世界には神秘は無い無心だけが神秘を
秘めているのである。



11:34:17
人間観と悟り


人間がどうあるべきが人間が考えていることを人間観と呼ぶ
人間は目標を持ち目標に向かって進み
自分の行為には責任を持つ
このような事が人間が考える人間はどう生きるべきかに
含まれているのではないだろうか。


わたしは人間に目標を持つな、責任を感じるなと言う
これは人間が考える人間の生き方とは全く逆である。


・目標
目標とは人間にとって目的を表し
目的に向かうとは今をだいなしにすると言うことである。
今が何かに向かう経過であれば今はつまらない物となるのである。


子供のころは今を楽しんだのに目標を持つことで今は経過となってしまう。
趣味やスポーツが目的が趣味やスポーツをすることである時。
趣味やスポーツは楽しめるが


趣味やスポーツが何かの目的となった時実に退屈なものとなってしまう。
ダイエットの為のスポーツだったり、
趣味がお金を稼ぐための手段となってくると楽しめなくなってくる。


その物が目的の時その物が楽しめる。
その物が手段となった時退屈になるのである。手段は早く通り過ぎたいだけの
ものだからである。


我々は目標を持ち今を手段に変え今を失うのである。


・責任を感じる
人を許せないものは、自身も許せない
人と自分を許せないものは今をも許せない


互いに対立を生むのは許せないからであり
犯罪は今を許せないから行うのである。
苦しみは今を許せないから現れる
もがきが苦しみだ。
人を許し他を許し今を許せるなら
対立も犯罪も消え去り。
苦しみも消えるのである。


今を楽しみ自身を他を今許すためには
この世界はこのまま対立を超えた仏の世界だと
悟る以外方法は無いのである。


対立を超越するとは苦しみと対立と犯罪に満ちたこのままの世界を
このまま仏の世界であると観る智慧を手に入れることである。
世界が苦しみに満ち対立に満ち犯罪に満ちていると
思うから世界を変えようとする
この変えようとする事が個人と同じように苦しみを対立を
犯罪を生み出すのである。


この世界の一切を対立的に観ないことが全てを変える
唯一の方法なのである。


一切を許すだけで世界は変わるのである。
変えようとすることは変えないことになり
変えないことが変えることになるのである。
やることが逆なのだよ!


人間の進む道は常に真理と逆の道なのである。
だから真理は逆説的であり
だから真理は悟るものなのだよ!



この世界の一切をあるがままに受け入れることが
不動心を無心をサマディーを生み出すのである。


2011/09/09
12:10:35
瞑想・禅・思考

瞑想や禅でとりとめなく思考が沸き続け、
気が付くと考え事をしてしまっていると言うのは誰でも
経験していることでしょう。


思考とはそれ自体で何の力も無く、沸き続けることは無いのです。
では如何して思考が沸き続けるのか、わたしが考えていると思っているから
維持されるのです。
これはわたしが考えていてわたしの考えであると言う思いが思考に
沸き続ける力を与えているのです。
わたしが考えていると思うから続くのです。


思考とはわたしと言う思いに力を与えられ外的または内的現象に
触れることで自動で沸くのです。
我々が考えているという物とは今本的に異なるのです。
もし我々が考えているとするなら、思考を止める事も我々に簡単に
出来るはずです。でもそれは出来ないのだ、だからこそ
瞑想が禅が難しくなっているのです。
思考や想い等を我々は自由に止める事が出来るなら瞑想も禅も簡単な
物となるでしょう。


我々が自由に出来ない物は全て我々ではないのです。
生きることも死ぬことも自由に出来るなら身体も我々だと言えます。
このように我々が自由に出来ない事物は全て我々で無いのです。


思考は自動で起きている現象に過ぎないと思うことが出来れば
思考は自ら力を持たない故に一人で消え去るのです。
わたしが考えていると言う思いに依存して思考は成立するのです。
思考などは、何処からか現れ、また何処かえさって行く只の現象です。
自己の外側でただよう物と思考を見ることです。
気の留めず、放っておきなさい。放っておければ、長くは続かないのです。
時期に消え去ります。


思考を止めようとする事は又自分の思考であると思っていることを表し
だから思考は止まらないのです。
思考と戦わず自動で現れている現象と見て放っておくことが大事なので
思考は自ら力を失い自ら消え去るから我々が戦う必要は無いのです。


自己の考えと見なさないことが上手く出来るようになれば良いのです。
その為には全ては自動で起きることを知りなさい。
我々が行っていることは、一つも無いのですよ。
全ては互いに影響を与え合つながって変化している。
個人の動きなどは無いのですよ。
全ては流れです、何処かから流れてきて何処かへ流れていく
流れの中での動きを我々は個人の動きと誤解しているだけなのです。


自らの動きと言うのはありえない、必ず何かの力が加わって動くのです。
自らの動きがあるとすれば、原因の無い動きがあることになるのです。
一切の現象は原因があり結果があるのです。
原因の無い動きが存在しない以上は、自らの動きも存在しないのです。

だから全ては自動で動いているのです。
自らの動きは無いのだから思考も我々が考えていると言う物ではないのです。
思考とは大空に浮かぶ雲のような物であり、勝手に現れまた勝手に消え去る
このようなものは、自己の外側で漂う物のように見ることです。
それが出来れば只消え去るのです。


2011/11/13
06:50:36
真我の実現


如何して真我が実現できないのだろうか。
自己は同時に二つ存在することはないのです。


わたしが真我を探すという時、探す自己と探される自己が
あることになります。探す自己が主体で探される自己が
客体と言うことです。
自己とは常に主体であり客体になれません。
だから見つからないのです。
また主体が二つあることもありません。
自己が二人居てはおかしな話です。
自己が自己を探しても見つからないわけです。


では如何すれば良いのでしょうか。
今自己がいることが邪魔なのです。
わたしが消え去った時、残るのが真我といわれるものです。
わたしがいる限り決して現れないのです。
二つの自己となるからです。


無条件であり無限な無であるわたしは、
今のわたしが消え去らない限りは
現われようが無いのです。
わたしを否定して残るのがわたしであります。
今のわたしを否定せずわたしを探すことはわたしが
わたしを探すことなのです。
無限なるわたしは探さば探すほど逃げていくのです。
わたしがわたしを探すことは矛盾だからです。


わたしを手に入れるとはわたしを捨てる事なのです。
わたしをどんなに否定し捨てても何処までも主体が残るのです。
有るのか無いのかを超えた客体と主体が混ざった主が残るのです。
これが真実のわたしですが、身体と意識の動きの全てをわたしでは無い
と否定した時残る物であり見つけるもでは無いのです。


わたしの意識はどのような状態だとか。
わたしは悟りを得たとか。
わたしは愛にあふれているとか。
わたしは慈悲深いとか。
わたしは禅や瞑想をやっているとか
このような全ての動きをわたしの行いとは見ないことが
大事なのです。
例え悟りを得ても悟ったのはわたしではないのです。
限定されたわたしを完全に消し去った時、
残るのが無限なわたしなのです。
無限なわたしは探すのではなくわたしを消す事が必要なのです。
決して二つのわたしは同時に存在できないからです。


真我を求める者はわたしへのこだわりが強いから今のわたしを
真我と置き換えようとするのです。
わたしが真我を捉えようとするのです。
わたしが真我になろうとするのです。
それでは真我は永遠に見つからないでしょう。


このことに気づいてもわたしを捨てるのは容易いことでは
ありません。大変時間がかかることでしょうが、
先ずわたしを捨てる事が必要だと気づかなければ始まらないのです。
そこからが始めてスタートなのです。


わたしを手に入れるとはわたしを捨てることなのです。
自我とは常に道を逆に観るのです。

2011/11/21
09:44:35
ゆだねる


在るがままとは
中空の竹の如くとは
空っぽの風鈴の如くとは
一切をゆだねることで成立いたします。


風の吹くまま全てを風にゆだねる。
水が流れるままに全てを流れにゆだねる。
良いだの悪いだのと考えずただ流れにゆだねる。


全体か神か仏に全てをお任せすることがゆだねです。
好き嫌いを言ったり不満を言う間はゆだねてはいないのです。
ゆだねとは受動的状態で全てを受け入れる状態です。


この世の一切に自己に訪れる事物の一切に感謝し
満足しなくてはいけません。
不満とは反発であって受け入れではないからです。
善は受け入れ悪は嫌うようでは受け入れではないのです。


わたし達に何が起きようともそれは全体か神か仏に与えられた
事物であり我々が好き嫌いを言うべきものではないのです。
我々には一見最悪に見えてもそれは最善なのです。


わたしは善悪と言う対立的な物はないや錯覚であるわたしを捨てなさいと
言うのは全てをゆだねる為に必要だから言うのです。


このような他力的方法は好きでは無いと言う人もいることでしょう。
そのような人は覚えておいてください。
他力の中に自力は存在しているのです。
他力だけでも駄目、自力だけでも駄目なのです。
自力とは与えられた物であるから他力であり
与えた者と与えられた者は一体であるから他力は自力なのです。
運命の中に努力は存在しているのです。
無の中に有は存在しているのです。
マイナスとプラスの電気は相反するものではありません。
S極とN極は相反するものではありません。
引く力と離す力は相反するものではありません。
この様な相反するように観えるものは共に働くものです。
宇宙の美はこの様な相反するように観える力が共に働き
調和した姿です。
善悪と言うのも共に働くものです。
悪の力が強まると善の力も強まるものです。
無常や苦しみがあるから教えがありうるのです。
無知があるから智慧があるのです。
迷いがあるから悟りがあるのです。
現在地点と目的地があって道は存在するのです。



悪の無い善はない
マイナスの無いプラスは無い
S極のないN極は無い
引く力の無い離す力は無い
苦しみが無ければ教えも無い
迷いが無ければ悟りも無い
現在地点と目的地の無い道は無い
相反するように観える二つの物があって始めて動きと成るのです。
全てを含む一なるものは一で在るが故に一切の動きは出来ないのです。
これが中心点なのです。
二つのものから始めて動きは現れるのです。
二つのものからとは三つのものからと言うことです。
立体になって始めて動きと成るのです。
だから二つの極は対立していないのです。
相反するように観える極とは鳥の両羽のようなものなのです。



これ以上小さく出来ない点の中に世界は存在しているのです。
この宇宙の対立的に観える全ては実は対立していないのです。
心に分離があるから対立に観えるのです。
心が鏡のように磨かれたら世界の対立も消え去るのです。


ゆだねとは自らを捨てることです。
我があってはゆだねることは出来ないからです。
この世界は人間の想うようには行かない物ですが
それに対して不満を抱いたり怒りを現したりしたとしても
一体何が変わるのでしょうか?
不満を抱いたり怒りを現したらその後は想うように成るのでしょうか?
そのような人ほどなおさら想うように行かなくなる物です。
怒りや不満とは自分の苦しみです。
我々は自分で苦しみを作り出しているのです。
馬鹿げたことではありませんか。


我々は自覚しなくてはいけません怒りや不満とは自らの
苦しみだという事を。
とは言ってもゆだねることは非常に難しいのです。
何もかもが想うようにいかない時、それに満足し感謝するのは
難しい事です。
全てをゆだねられるように成るには何年もの努力が必要でしょう。
全てをゆだねながら努力を行えるように成ったら全ては自由自在です。


この世界は中心点を持つ円で出来ております。
円周上で動きは発生しますが円周上でどの様な動きが有っても
中心点では一切の動きは無いのです。
我々が我々の動きとか努力とか感じている間は心が静まっておらず
円周上に意識があるのです。
心が静まり中心に意識が定まれば外側でどの様な動きが有っても
動くことは不可能になるのです。
全てをゆだねられないから自らの動きが必要であり円周上に
意識がとどまるのです。



ゆだねられれば心は中心点に定まり
中心に定まれば努力は不可能になりますが
中心に定まる。ゆだねることが出来るまでは努力が必要です。
心を放っておければ自然と静まり中心に定まりますが、
人は心を放っておけない故に努力しなくては決して心は
静まらないのです。



中心点の静と円周上の動。
わたしが常に言うように対立するように観える二つの事を
同時に成立させることが必要なのです。
お任せと行為一見矛盾する二つの事を同時に成立させる事が
悟りです。
また禅問答みたいに成りますが、動いても駄目、動かなくて駄目なのです。
決して心を動かさずしかも心と体を使う事が必要なのです。
心を全てを在りのままに映し出す静かな湖面のように保ちながら
しかも心を使う事が必要なのです。
不動の心を保ちながらしかも心を使う事が必要なのです。
わたしは何もしてい無いと言いながら人々を救済する事が必要なのです。


ある宗教学者であるシカゴ大学の教授は両価性という言葉で表現しております。
両価性とは相反する価値の共存ということです。
また日本の宗教学者は、日常生活の次元において両極に立つと思われる
二つの価値が、個人の生活の中で、緊張関係を保ちつつ共に働く。
かかる生き方、精神のあり方が宗教である。と言われております。


どちらの学者様も実に真実をとらえております。
相反する両極が共に働く事が心の全一であり
分離の無い心なのです。
善悪のどちらかを求めどちらかを嫌うようではただの人間なのです。


善を行う者は悪を裁くものです。
これでは何処まで行っても対立しか生まないのです。
目覚めた人とは本質的に悪は無いと知り悪を裁かず。
善悪とは共に働き善と働くと知り善を行い又
社会から悪がなくなるように行為します。
それが善悪の働きだからです。
善悪とは共に働いて社会に天国を生み出そうとしているのです。
目覚めた人は悪を嫌って社会から悪がなくなるように
行為するのではないのです。


全てを受け入れる事で心は停止します。
悪に対する心の反発も心の動きなのです。
何かに心が反発する限り静かな心は実現できないのです。
全てを受け入れる受動的心が静かな心なのです。
好きではないが仕方なく受け入れるでは不十分です。
我慢は反発だからです。
全てに対しての感謝が必要なのです。
善にも感、謝悪にも感謝なのです。


善悪と言う分離は無いのです。
この世はつながっている多であってただ一つの者だからです。
善も清らかであり悪も清らかです。
全ての欲望も本質的に清らかなのです。
宇宙の一切は清らかなのです。


何が起きても心に動揺が起きなくなるまで
完全にゆだねられるまで理解を深めていく事です。
教えとは道だから実際に如何なる動揺も無くすことが必要です。


00:37:42
しばらくぶりの更新となりますが、
今回はわたしの理想とする方法なき方法
道なき道をわたしの言葉ではなく、

マハー・ムドラーの歌をご紹介いたします。
この方法なき方法道なき道は、
ほとんど全ての伝統的教えの中に
見受けられるものです。

わたしが語ることは全てマハー・ムドラーを手に入れる
為のものなのです。
中空の竹のように生きるためには如何したらよいかなのです。
人間は中空の竹のように生きなさいと言っても生きられないし
中空の竹のようにとはどのように生きるかすら分から
語るのです。

知るということは最大の実践です。
これ以上の実践は無いのです。
思いにしたがって人間は行為するからです。
心が変われば日常の動きの全てが変わるからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ティロパ作チベットヨーギの教え
マハー・ムドラーの歌

マハー・ムドラーはあらゆる言葉を超え、
象徴を超える。
がナロバよ、真剣で忠実お前の為に
次のことを言っておかねばならない。

虚空はよりどころを必要とせず
マハー・ムドラーはなにものにもとどまらない。
努力することなく、
自然のままでいて

ひとは絆を破ることができる。
そのようにして手に入れる解放。

空間を見るとき無を見るならば、
心をもって心を観するならば、
ひとは区別を打ち破って
ブッタの境地に到達する。

空をただよう雲は
根も無く家も無い。だから特別しするな
心を横切って浮かぶ思考を。
ひとたび自己の心が見られるなら、
区別は停止する。

体を用いずにひたすらリラックスせよ、
口をしっかり閉じて沈黙を守り、
あなたの心を空にして何も思うな。
中空の竹のように

あなたの体を気楽にしておけ
与えることも取ることもせず、
あなたの心を休ませておけ。
マハー・ムドラーは何ごとにも執着しない心に似ている。
そのように実践すれば、あなたはやがてブッタの境地に達する。

あらゆる活動を、放棄せよ
あらゆる欲望を。
思考を生じ消えるままにさせよ
まるで大洋の波のように。

熱望を放棄する彼
あれこれにしがみつかない彼は
真の意味を知る
聖なる経典にあらわれた意味を。

この世は移ろいやすい、
幻や夢のように、
この世に何の実体も無い。
この世を認めず、あなたの血族を捨て
色欲と増悪とを断ち、
森や山で瞑想せよ。
もし努力せずあなたが
あるがままの状態にくつろぐなら、
やがてマハー・ムドラーを手に入れて、
無到着の地に到達するだろう。

木の根を断ち切れ
そうすれば葉はしぼむだろう。
あなたの心の根を断ち切れ
そうすれば俗世は消え去る。

心にしがみつく者は誰も見ることがない
心に存在する真実を。

ダルマの実践につとめる者は誰も
実践の彼方にある真実を見いださない。
心と実践のかなたにあるもの知るために
心の根をきれいさっぱり絶つべきだ
そして赤裸の姿を見るべきだ。
そのようにに打ち壊すべきだ
全ての区別を、そしてゆったりしているべきだ。

与えるべきでない、取るべきでない、
ただあるがままに存在しているべきだ、
あらゆる受け入れと拒絶の
かなたにマハー・ムドラーはあるのだから。

至高の聖なる了解はまさる
すべてのこれ、そしてあれに。
至高の行為は偉大の手腕を内にふくむ
しがみつくことなしに。
至高の成功とは内なる存在を実現することだ
期待なしに。
まずヨーギはその心を感ずる
滝のように流れるその心を。
その中ほどで、ガンジス河のように
ゆつたりやさしく流れるのを。
下流において、その偉大な
広大な大洋となり、聖なる母と子の
光がひとつに合一するのを。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


13:23:11
煩悩を認めなさい。





世界の話から少し外れてしまいますが煩悩について
少し語ります。世界については完成しだい
新規記事としてアップいたします。




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煩悩は無明から光明へあなたを運ぶ乗り物です。
そのまま全ての煩悩は浄土です。
煩悩くらいありがたい物はないのです。
無明から煩悩が生まれ煩悩は何時かは悟りを求めるのです。
言い換えると煩悩が煩悩を無くす働きをするということです。
煩悩が無ければ我々は永遠に無明のままなのです。
煩悩を無明から光明へ我々を運んでくれる乗り物だと知り
煩悩に感謝し認めなさい。
煩悩に感謝出来れば心は静まるでしょう。





我々に必要なことは唯一つです。
何が良いだの、何が悪いだのと、
あらわれる思いに囚われ、ウロウロせず、
ただこの今に、くつろぎなさい。
心に何が浮かんでも捨てておきなさい。
起ることは起こるに任せ捨てておきなさい。
勝手にさせておきなさい。
それだけ出来れば後は何もいりません。




何にも依存することなくありのままに存在するそれ
有無を超えて、みずから存在を意識しそれを継続しているそれ
みずからは何も行うことなく全てを生み出しているそれ
一度得たら永遠に失うことのないそれ
このそれの自覚が、ああでもない、こうでもないと、
ウロウロするから失われ続けているのです。

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何かを認められない、だから何かをする、それが煩悩です。
認められないことから、煩悩はあらわれるのです。
煩悩を認められない限りあなた方は知らず知らず煩悩を無くそうとする。
煩悩を無くそうとすることが煩悩なのです。
智慧により煩悩とは何かを知ることが煩悩を認めさせ
今の現状に満足しくつろぐことが出来るのです。
正しく物事を見ることこそが必要なのです。
煩悩を認められず煩悩を無くそうということは、
それが煩悩だから無限のループなのです。





今を認められず何かをすることが煩悩だからです。
何かをするということは、求めるということなのです。
生きること自体何かをすると言うものだから、
生きているというエゴも捨てることが必要です。
わたしは何かをするなといい、またエゴを捨てろといいます。
わたしがエゴを捨てろと言った時
エゴと戦え言ったのではないのです。
正しく物を見なさいと言ったのです
正しく物を見ることが出来ればそれだけでよのです。
光明が現れれば無明は消えます。
暗闇で明かりをつけると暗闇はなくなります。
無明からあらわれる物もおのずとなくなるのです。






我々は悟りを何時か得るものと考えている。
愛欲と怒りと愚かさを離れて悟りに到達すると考えていが
これも異なるのです。



維摩経にこのことについて説かれている教えがあるので
ちょっと長いが一部を紹介いたします。

-------------------------------------------------------

維摩詰がその病気見舞いに来た菩薩や声聞たちと問答をかわしている。

そのとき天女が天の花を菩薩や声聞にふりかけた。
すると菩薩たちにふりかかった花は地に落ちたが
大声聞にふりかかった花はそこにくっついて地に落ちない

大声聞たちは神通力をふりしぼって花を振り落とそうとするが落ちない。
そこで天女が長老に言った(大徳よこの花を振りをとして何になるのですか)

長老が答える(これらの花は出家の身に相応しくないから振り払うのです)

天女が言う(大徳よそのようなことを言ってはなりません。
何故かと言えば、この花は法にかなって物です。その理由は
この花のほうでは思慮し分別したりしていないのに
長老こそが思慮し分別しているのです。
大徳よ出家して善説の法と律との中にありながら思慮し分別するなら
それこそ法にかなわないことです。)・・・・・・

天女(大徳よ御覧なさい思慮や分別を離れていればこそ
菩薩の身体には付着しないのです。・・・・・・・・
生死輪廻の恐怖におののく人には色や声や香りや味や触れ合うこと
(五欲)がそのすきにつけ入ってくることでしょう。
もし形成された諸存在への煩悩に対する恐れを去った人なら
その人に対して色や声や香りや味や触れ合うこと(五欲)が
何をなしうるでしょうか。
愛着によって薫じつけられた習慣をいまだ断ち切れない人には
花が付着しますが、それを断っている人の体には付着しません
・・・・・・・・)

長老が問う(愛欲と怒りと愚かさを離れるからこそ解脱が
あるのではないですか。)

天女が答える(愛欲と怒りと愚かさを離れて解脱すると言うのは
慢心のある者に対して説かれたのです。
慢心の無い者においては愛欲と怒りと愚かさの本性がそのまま
解脱なのです)

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わたしはブログの中で怒りや不満を無くせと語っていますが
怒りや不満と戦えというのではないのですよ!
その本性を真実を知りなさいというのです。
戦わないことが戦いでありるというのです。

2012/04/26
14:56:56
怒り




怒りがなくなるとは不思議だと以前質問いただいておりますので
少し怒りについてお話しておきます。




先ず物事は鏡のような心に写ります。
この段階では何の判断も行われておらず
ただありのままに写るだけです。




次の段階で我々の自我の判断基準に照らし合わせ判断されます。
この段階で始めて怒るべきか、悲しむべきか様々た対応が
決定され行為が行われます。




そうです全ては我々の判断基準により決定されるのです。
誰かから同じことを行われてもその相手や、その時の
みずからの心の状態で判断が変わるのです。




相手が子供だったり自身が恐れている人だったりすれば
怒りがあらわれないこともあります。
みずからが、怒るべきなのか、そうでないのか、
判断をしているのです。




人間の判断基準は多少の差はあったとしても
基本は同じです。
この宇宙に個人がいてその個人は自由のもとに
行為している、と言うのが人間の基本の判断基準です。




ですから怒りがわくのです。
ですから誰かが悪いと裁くのです。
個人がいて個人がみずからの責任の下に行為していると
見るから責任をとらせたくなるのです。




この世には個人は存在せず個人の自由に基づく行為はないのだと
しれば裁く相手が存在せず裁く出来事も存在しないが故に
怒りはあらわれる事はないのです。




判断基準のこの部分が変われば決して怒りがあらわれる事はないのです。




相手が何かをしたから怒りがあらわれたのではないのです。
みずからの心が怒りをあらわしたのです。
自分で怒るべきだと決めて怒ったのです。
物事をありのままに映す心の状態では怒りなどないのです。
自身の判断基準で怒ることを決めたのです。




怒りについてではありませんが関連のあるお釈迦様のお言葉から。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いかなる苦しみが生ずるのであろうとも、
全ては認識作用によって起こるのである。
認識が消滅すれば、
苦しみが生ずると言うことはありえない。
スッタニパータ734
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。
好きと嫌いと身の毛のよだつこととは、自身から生ずる
諸々の妄想は自身から生じて心を放つ、----
あたかも子供らが鳥を放つように。
スッタニパータ271
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

相手のことなどお構いなしにみずからの価値判断に照らし合わせて
妄想をおこし勝手に怒っているのです。





怒りがあらわれるということは、
この世に個人は存在せずしたがって個人の自由意志に
基づいて行われる行為は存在していと言う
真理が見えていないと言うことです。





この価値判断の基本的部分である個人が有るの無いのかが
変われば怒りがあらわれなくなって当然なのです。





逆から言えば個人と言う意識が無くなるまでは
怒りは完全に修まることはありません
ましてや個人と言う意識に基づき生きている人間は
怒って当然なのです。
ですから少しでも怒りを修めはじめたなら
相手を理解し言動にとても注意を払うことが必要です。
誰かに教えられて簡単に個人と言う意識から、
脱することは出来ないのだから
決して個人が無いのだから怒るなとはいわないことです。
相手を認めてあげることが、
また我々の怒りを修めてくれるのですから。






個人と言う意識が消えるまでは怒りや執着、求めや
焦りなどは完全に消え去ることはありません。
自分も何回も怒ってしまうかも知れませんが
それも認めてあげることです。
当然なのですから。





わたしもこのブログを書くにあたって
ここが気をつけている部分です。
誰かがと書くと他人事のように感じ心に響かないのでは。
貴方がと書くとあまりに直接的で
憤慨してしまう人がいるかも知れない
ですから出来るだけ我々はと今は書くようにしています。
このブログを見てもわたしの語り方は変化していると思います。
である、と言う言葉を使っているときは
虚空に語りかけておりました。
今はこれを読んでいるあなた、あなたに直接お話しています。
だから十分注意をはらっているつもりです。
不十分ではありますが、わたしが気をつけている部分です。





心理学と言うものは今はあまりにも貧弱ですが
何時かは心理学も心の仕組みを解き明かすでしょう。
心の仕組みを解き明かせば個人は存在し無いと言うことが
明らかになります。






08:10:18
・毎日が新しい
瞑想とサマディー



空海さんが心の奥深く喜びが沸きいずるとところの
宝物庫の戸を開くと毎日が新しくなると秘蔵宝鑰で語っていますが
毎日が新しくなるを取り上げて見ましょう。


心が静まって行き判断が消えて行き、
判断する前の状態が見えてくると、
瞬間が常に新しい瞬間になるのです。
この状態がどのような常態かお話いたします。



・鳥の声を聞いて鳥の声だと気づくとき。
鳥の声だと言う判断があります。



・鳥の声とも分からず音が聞こえた
聞こえた言う判断が入っております。



一切の判断が加わる前は音と音を聞く者と言う
主体と客体とい言う者もないのです。



ただ音が鳴るのです。
音が音を聞くのです。



ヨガではこれを観照と言います。
道元禅師は大悟のさい
禅が禅を行っていたとわたしは聞いておりますが
これが観照です。



一切の判断が加えられる前の物事の本来の姿は
主体も客体もないのです。
判断が加えられ音は外から聞こえる物と成るのです。
認識作用が働いて世界が生まれるのです。



夢の中では我々の外側に真実は何もなかった事を
知っております。
見たり聞いたり触ったり利用したり出来たのに
真実は何もなかったのです。
我々が現実と呼ぶ世界も判断が加わる前は外側には
何もないのです。
ですからこの現実と呼ぶ世界も心が生み出す世界なのです。



判断が入ると腐った瞬間になります。
全ては見慣れたものでつまらなくなります。



判断が入る前は全ての瞬間は新たな瞬間です。
全てが新しいのです。



まるで全く見たことも聞いた事もない惑星に来ているようなのです。
全てが新鮮ですばらしい、これが生です。



判断が入ると記憶であり見慣れた古くさい物であり、
つまらない物と成るのです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・ここまでまとめます。
見たり聞いたりする全て、判断がまだ行われる前は
まだ私は存在せず、主体も客体も無くただそれがあり
それがそれに気づいているという状態が起きており、
判断が入るとそれはわたしが見たり聞いたりした何かとなり
分離がおき世界が現れます。

と言うと我々の論理的思考は嫌待てよ
外で音が鳴ったら距離に応じた時間を経てその音が聞こえるのだから
外で音が鳴っているに違い内というでしょう。

我々の心に現れるものは一人一人繋がっているが
ずれているのです。
そのずれを結ぶものが距離、時間、速度又は諸物の法則です。
外で起きている世界があるというのが、誰の目にも
矛盾無く見えるようになっているのです。
外界に見える一切は心が現しているのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この判断が入る前の状態を観照といい、観照とはディヤーナ
であり、ディヤーナは瞑想又は禅です。



判断が一切入る前の状態は全ての人が常に経験しているのです。
判断が一切入る前がの状態が無い人などいるでしょうか?
何かが心に現れると同時に判断がされる事などあるでしょうか?



我々が気づいていても、いなくても、表れるのが先で
判断が後なのです。
だから誰でも常に瞑想を行っているわけです。



この常に行われている瞑想を意識しょうと言うのが
技法としての瞑想や禅ですが、何かが心に現れ、
一切の判断が行われる前を意識して入れた時、
初めて瞑想になり禅になるのです。
そこまで行く道のりはまだ瞑想でもなく、禅でもないのです。



瞑想は常に行われているが我々は技法としての
禅や瞑想を行いそれを意識出来るようにしているのです。



ここまでは現象の初めの段階のお話をしました。
ここからもっと心の奥深く喜びの沸きでずる所に
入って行きましょう。
観照からサマディーへの道のりをお話します。



サマディーも観照、瞑想、禅と同じく誰一人
一瞬たりともそれを行っていない人はいないのえです。
気づいているか、いないかの違いです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

それでは、空海さんが言っている心の奥深く喜びのわきでずる所の、
宝物庫の戸をあけて中に入って行くとしますか。



ここまでは、何かがありました。
それは音かも知れずまた何かかも知れませんが
主体と客体が溶け合ってそれに気づいてる何かが在ったわけです。
この秘密の戸の先は無の領域です。



観照が起きている心のもっと奥ですから
観照すら消えてしまいます。
主体と客体が溶け合ってそれに気づいている
気づく何かが何もないのです。



気づきだけがあり気づくものがないのです。
音やその他、諸々の気づく対象が全て消えてしまうと、
気づきは気づきに気づく様になるのです。
気づきに気づくと、存在の自覚に気づくのです。
在るという自覚に気づくのです。



仏教では我々は無我であり、自性はないとして
何かが在るとする、教えを嫌いますが、
無我の境地は無であるから何も無いと言うなら
何もない事に気づいていたのは誰なのでしょう。
無我である時も無の中でもそれに気づいている無があるのです。
この気づきが無ければ深い眠りの中と同じなのです。
無我の境地とは気づく対象が消え去り気づきだけになることです。
気づきも消えたらそれは眠りです。



この存在の自覚に気づいていることがサマディーです。
観照も、サマディーも今失われている人などいないのです。
何かが心に現れ判断が下される前が主体も客体もないところが
観照であり、これが瞑想であり、禅です。
そのまた心の奥深くでは対象は無く気づきだけが在るところ
そこがサマディーです。
だれか気づきを失っている人はいるでしょうか?
我々は今でも見たり聞いたりしているではありませんか。



では如何して、そこに我々は気づく事が出来ないのでしょうか?
今でもそれが在るのなら如何して気づけないのかをお語りましょう。



そこに気づくには、強烈な気づきが必要なのです。
その強烈な気づきも私達は初めからもっています。
強烈な気づきは持っていますが外界の様々た物に
この気づきが向けられていて内側に意識が向いていないのです。
この外界の様々な物、気になるものに向けられている
意識を内側に向ける事ができれば強烈な気づきが表れます。



この気づきは過去生にまで気づくことが出来るほど強烈です。
時間が止まるほど強烈です。
命の危機に直面した時、時間がゆっくり流れる事があります。
これは命の危機に直面し意識が強く向けられたからです。
つよい気づき表れてのです。



この気づきを内側に向ける方法として、
出息入息に関する気づきの経というのが在ります。
16の考察からなる瞑想方法であり、
ヴィパッサナー瞑想という物です。
今のヴィパッサナーは出息入息に関する気づきの経を短縮した物です。



気づきを内側に向ける方法をこれから語ります。
そもそも如何して気づきが外側に向いているのでしょうか。
執着があるからです。
人は様々な事物に執着し意識を散乱させているのです。
気づきもその意識に従い様々な事物に分散されているのです。



執着が無くなれば我々が好まなくても、
求めなくても存在の自覚に気づくのです。
執着が何故問題なのか意識が拡散され
内側に気づくことが出来なくなるからです。
自己を見失うのです。



そんな知ってどうなるのか、思う方もいるかの知れないので
もし存在の自覚に気づくことが出来れば一体何が起きるのか
少しお話します。



先ず生死という感覚が消え去ります。
死によっても決して失うことが無い物を
自覚したので、死ぬということが無いからです。


次に何もかもが、新しく新鮮になるのです。
毎日が新しいのです。



次に何の理由も無く、全く原因が無いのに
喜びに包まれるのです。
寝ても起きてもこの喜びは失われません。
どんな状態に自身がいても喜びに満ち溢れるのです。
この世で得ることが出来る最高のよろこびです。



何かを得る事で得られる喜びは、はかない物です。
得た瞬間に失いはじめるのです。
これが秘密の戸の先に在る宝です。



全ての執着は非我なるものを自我と思いなすことで
生まれます。
非我なるものを非我と確かに知る事が必要なのです。
我々は勘違いをしているのです。



瞑想や禅が必ず必要な物ではありません。
自分を消し去ればよいだけです。
瞑想や禅をしていながら、
日常では非我なる者を、自我と思いなし
自己に執着し成果を求めて世間をうろついている限り
決して瞑想や禅は成功しないでしょう。



瞑想や禅や求道する者はわたしがいるとか、
わたしが何かをしたとか、
誰かが何かをしているとか、
決して考えては成らないのです。
その様に感じたとしても、考えてはならないのです。
もしこれが出来たら事物を一切裁かないはずです。
不満が表れる事もないはずです。
そうです、心は静かになって行くのです。




執着など煩悩など消す必要はないのです。
わたしが消え去れば、わたしに属する全ては消えるのです。



瞑想を禅を成功させるためには自我の壁を薄く
する必要が在るのです。
わたしがいるとか、
わたしが何かをしているとか、
思いなすことは、自我の壁を厚くするのです。
本質との分離を強めるのです。



無我になることが自己を知る唯一の方法なのです。
無我である時、無我であると知る者それが無の貴方だ。
ですがそれをわたしとは語れませんわたしが消えた時
それが在るからです。


03:31:53
気づいている者



全てを見たり聞いたりしている者
それが気づいている者です。



貴方は何かを見るか何かを聞いている
また貴方は何かを行っている。
それに気づいている者
貴方の行為の全てに気づいている者です。



わたしがいて、対象がある
その他に気づいている者がいるのが見えませんか?
第三者となって見ている者です。
心のキャンパスに何かが映るそれに気づく者です。



この第三者は名前も無く形も無く誰かでない者であり
何かでない者であるが故に無とも呼ばれます。



臨在禅師はこの者を真の人と呼びました。
そうです、如何なる物にも依存せず在るがままに在る
自らは何もすることなく宇宙の全てを
現し維持する者。
この者が真の人なのです。
主人なのです。



意識が内側に向き全ての気づき内側を向く時
世界の一切が消え去りこの気づく者だけが残ります。



この気づく者は在ると言うことに気づくのです。
意識が内側に向くとは、集中ではなく統一です。
集中とは意識を使うから気づきも集中に向けられ
集中で得られる気づきはあらい気づきのなるのです。



完全な気づきは執着により外に散乱している意識が
無我になることで意識が内側に統一される事により現れます。
何の努力もない自然な状態で生まれるのです。



もし集中せず、この意識を気づき自由に向ける事が出来るように成ると
一度見たものは決して忘れる事がないようになります。




精神に何かの問題があり
この力の一部を使う者が下りま
芸術家に多く見られます。
外に向かう意識が何かが原因で偶発的に
内側にとどまるとこのような事がおこるのです。



この気づきは大変な事に時間さえ止めてしまい
過去現在未来の全てに気づき見ることも出来てしまうのです。
お釈迦様が自らの過去生をご覧になったのも
この力なのです。



執着により散乱する意識が無我を知ることで
意識が統一され、その強烈な意識が生み出す
気づきを対象に向けると見る聞く知るという神通力になるのです。



我々が見たもの聞いた物は、
実は完全に忘れ去られる物はありません
記憶の奥底に深く入っており気づきづらくなっている。
又は気づくことが出来ない位意識の奥底に
入ってしまっているのですが
強烈な気づきがあれば知ることが出来るのです。
生まれる前の記憶さえ死により失われる物ではないのですが
思い出せないから失っていると同じなのです。



ですから今生の終わりの時わたしを失うとわたしは語るわけです。
無を知る者を見いださ無ければですが。
無を知る者は無に成っても見失う事が無いからです。



2012/11/02
07:11:12
・有ると在る


有ると在る何が異なるのでしょう。
人間のわたしはあるのあるは、有るです。


道を達成した存在のわたしはあるは、在るです。


一体、有ると在る何が異なるのでしょう。
在るの自覚があるのと無いのの事なりです。


では如何して自覚がある在ると自覚が無い有るがあるのでしょうか。
みなさんは、世界を見るように、自らを対象として捉えているのです。


みんさんの自己の見方はこのような物です。
自己の前に綺麗なお花が有ると想像してみてください。
自己の前に綺麗なお花が有りますね。
そのお花を自己と見なしているのです。


そのお花とは対象です。
客体です。
そのお花を見ている者が自己です。
ですから対象の存在の自覚が持てるわけがないのです。
それは有るであり在るではないのです。


どんな物であれ、見ることが出来る物は対象であり、客体です。
自己とは見る事が出来ず自覚だけが在るものなのです。


みなさんは、
対象として世界を見るように自己を見ようとしているのです。
外側から自己を見ようとしているのです。
その自己を見る位置を見方を変えることが必要です。


もしわたしがわたしを対象としてみる事が出来たら、
わたしが主体では無くなるのです。
見えている物は価値観であれ、考えであれ、思いであれ、
身体であれ、何であれ客体です。
それをわたしと見なすから有るになるのです。


対象である、わたしとは、相対的認識だから、失います。
相対的認識は相対的世界で生きている時のみ可能です。
ですから死ねばわたしを失うのです。


絶対的認識である、わたしは在るの自覚は死によっても失わないのです。
相対的認識ではないからです。
これが永遠の生です。
わたしはこの自覚を霊性の自覚と呼んでおりますが、


真我の自覚とか生死を超えるとか彼岸とか天国とか
涅槃と呼ぶ人もおります。


我々は有るであり在る自覚が無いから、わたしを失う事を知っております。
この恐怖が様々な問題を世界に生み出すのです。
今生この霊性の自覚が出来る事が大事です。


日記は更新は不定期ですが二つの掲示板でほぼ毎日ここに集う方々と
お話していますので掲示板においでください。


02:10:19
・行為の原理と悟りの原理


わたしは今振り返ると5年前と自他認める別人格に成っております。
如何して人格が変わりえるのか、行為の原理と悟りの原理を
明らかにする事に致します。


神秘とは原理が明らかでない時、神秘です。
ですから智慧の道、仏教とは神秘性が無く神秘に引かれる方々は
神秘的教えに引かれますがその神秘がまた障害となるのです。


神秘の原理を探る事が智慧の道を歩くものの役目であると思います。
それで今回は行為と悟りの秘密を詳細なところまでは踏み込まず、
ザクット見て行きたいと思います。


・行為の原理

人は事物を世界をどの様にとらえているかにより、
現象により、思いを起こします。
この思いとは、ある種のエネルギーであり
心の無意識層に欲求を生み出します。


この無意識層の欲求が行為の元であり
行いたいと言う欲求です。
行いたいと言ってもこれは言葉には成っていない単純な欲求です。


人はこの欲求に従い何かを行うわけですが
只欲求を晴らせば、自己にも害が及ぶかもしれません。
そこで力関係が出てまいります。


自己の害にならない欲求の晴らし方を
選び欲求を晴らすわけですから、
自己の害に成らなければ強く欲求を表わします。
ですから害になりづらいネットや車の運転では
欲求が強く現れます。
また自己よりよわい相手には強く向けられます。


厄介なのは、
正義や正しいと思っている事にこの欲求が向けられると
正義の名の下に欲求が強く現れる事です。
正義だと思うことでブレーキが外されるのです。


何かの原因で欲求を晴らすことが困難な場合は我慢する事になり、
この無意識層の欲求を我慢するとストレスになります。


どんなに上手く欲求を晴らそうとしても、
この世は自己の思うようにはならず
次から次に欲求が生まれ続けるわけです。


人間の行為というものは何であれ無意識層の欲求から現れます。
細かく見て行けば生きているということ自体が
無明から現れる欲求が原因です。


またこの自己の無意識層の欲求を何処かに向けて晴らすことで
この世の如何なる問題も生まれます。


・悟りの原理


人の無意識層に生まれる欲求とはその人の事物を世界をどの様に
認識しているかで生まれます。


個人意識が強いほどにこの世を個人の成果と責任で
成り立つと考えているほどに強い欲求が生まれます。



要するに事物を世界をどの様に見ているかで変わるのですが
如何見ているか縁起と見ている、真我と見ている、
神仏と見ていることが問題ではなく、
個人の成果と責任で成り立つと見ているか
そうでないかが問題なのです。
それなのに人間はその方法にこだわりまた
欲求を生み出すのです。



無意識層に欲求を生み出さない何かの理解が悟りです。
我々の理解は人間の行動の原理を変えてしまうものなのです。
どんな状態でも不満を感じない
不満が欲求を生み出すわけです。
不満が現れるのは理解が足りないのだから理解を深める事なのです。



欲求を晴らしているうちは悟りではなく
欲求が生まれないことが悟りです。



この無意識層に欲求を持っている者を人間と呼びます。
今日はヒンズー教のおしえから一言。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

心が変わるには何かの理解が必要ですね。
日常で自己の人格が変わらなければ悟りではなく
悟りに向かっていると日常の全てが変わってきます。
それはあなた自身が変わってくるからです。


質問掲示板のTさんの自己の変化について是非見てください。
わたしの話がそのまま証明されております。


欲求が減ってくると、
即ちわたしを捨てるほどに心はどんどん静まり
それがサマディーの始まりです。


思わず、思うことそれが悟りです。
何にも囚われない空心が悟りの心です。



わたしの話しは只の理解ではなくみなさんが実感できるものです。
ですから本当であるか嘘であるか論議するのではなく
自身で試してみる事です。
三年も続ければ人格が完全に変わります。
わたしは誰かから聞いたことを語っているのではないのです。
わたしが実際に体験したことを話しているのです。



ですから論議するだけなら意味はないのです。
自分自身で歩いてみて確かめる事です。


もう少し続くかも知れませんが今日はこの辺で。


07:33:53
・静けさそれは台風の目


貴方が見ることが出来る物は何であれ、
それは対象です。


肉体、思考、思い、何であれそれは対象です。
対象を主体と誤解すると有るになり、
わたしは有るになります。


有るとは対照的認識方法であり、
有るは、有るでしょう、有るに決まっている、
と言う不安が秘められています。
それは対照的認識方法で相対的認識だからです。


絶対的認識とは在ると言う主体的認識であり、
そこに一抹の不安も含まれない自覚です。
この絶対的認識とは相対的認識と異なり対象を必要としないから
死によっても失われません。


肉体を思考を思いを自我をまた何であれ対象を
わたしと思い込むと感情が動き現象に振り回されてします。
また対照的認識とは生きている間それも目ざめている間に限られ
死により失う。


あなたは主体であり客体とは成り得ない。
客体をわたしと主体と見なさないとき、
肉体に思考に思いに振り回されなくなり
それは現れてはまた消えて行く現象と捉える時


まるで映画でも見るようにわたしと思っていた者の人生の
観照者に成るのです。


その時全ての現象は貴方の外側に現れまた
跡形も無く消え去って行きます。


如何なる現象にも影響を受ける事が無い外側では風が吹き雨が降るが
中心は静かなまま、そこが主体の居場所です。


如何なる対象もわたしと、主体と思いなしては成りません。
対象をわたしと思いなすと貴方は台風の目の外側に移動する。
内側でくつろぐ事です。


もし思いに思考に現象に振り回されているなら
これもまた外側にいることを現す。
仏教のまたその他の教えとは振り回されない心を生み出す事で
中心に定まる方法なのです。


道は様々あり選ぶのはあなたですが、
どの道を選んでも八正道になるのです。
見ないことも見ることであり
正しく見ること無くして成立しないからです。


もしもっと聞きたいと思ったなら掲示板に起こしください。

07:23:25
悟りの生き方


わたしが悟りとは人の為に生きる事ですと言うと
みなさんは困惑するかもしれません。



何故かと言うと、今まで悟りに達したと思われる方々は
皆様々な生き方をしたからです。
存在によっては慈悲とは無関係に見える生き方すら見せました。


ラマナはどうして苦しむ人たちを助けないのかという質問にたいして、
だから助けているのではないかと回答をしております。


道元さんは多くの人を救うべきか、
本物を作るべきかと考えたと言われております。


お釈迦様、イエス、臨在さん、道元さん、日蓮さん、空海さん、
多くの即身仏の方々、ラジニーシ、ラマナ、マハリシ。


このような存在たちは、時代と場所と人により
慈悲の現し方が異なったのです。
それはその方に出来る最大の慈悲の現し方を
選んだためにそれぞれ異なる生き方に
成ったのです。



そして、みなさんは自分の理解に従い信じる存在を
理想としその人に成ろうとする訳です。
みなさんにはみなさんの最大の慈悲との現し方があると言うのに、
自分が信じる過去の存在の真似をしようとするのです。



過去の存在の時代に世界を変えることは出来ませんでした。
今までどの存在も望んでいたのに変わっていない事がその証です。



例えば川で溺れている人が沢山いるのを承知で、その救う方法があるのに、
みなさんは、わたしの信じる人は山で遭難者を助けていたから
わたしは山に登り遭難者を助けなければ成らないと言って
それでは川で溺れる人たちを見殺しにしているのと同じなのです。



今の現代にお釈迦様が生まれたら以前のお釈迦様とは
全く異なる生き方をするでしょう。



ですからわたしは、今の日本には日本のやり方が有ると言うのです。
過去の存在は自分に出来る最大の慈悲を現したのです。
どんな生き方が理想かではないのです。
真似する必要は無いのです。



この世でみなさんが最大の慈悲を現す生き方をすることが
みなさんの悟りの姿です。

18:52:30
人は変化を認めると裁きが生まれやすく
変化を認めないと努力や優しさを失いやすい
裁かずしかも優しさを失わない為には


今の完全性と未完成性を理解し
今にとどまりながら未来を創造することです。
世界は今完全で在りながら、より完全に


よりより完全にと永遠に変化し続ける。
変化の中に完全性を見ないと裁きが生まれ今に在れない。
人は無明から光明に進む。


決して光明から無明には進まない
これと同じ様に
どんなに悪く成ったと思えても
大きな目で見れば良く成っているのです。


何がおきても大安心してより良くと働けばいい。


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2014/07/27
19:44:51
兄弟の皆さん今日は。
瞑想とは。


瞑想と言う技法・ディヤーナー・サマディーと成る
これは呼び名は違っても伝統的な瞑想は一致している。
その瞑想の本質は良いだの悪いだのと口を出さず
見ていることがその本質だ。


何を見ているか、どう見ているかは関係ない。
ただ見ていること。
瞑想と言う技法・ディヤーナー・サマディー
この中で一貫して行われていることはただ
見ていると言うことだ。
サマディーに至っては見るものが無いから
自分を見るが
見ると言うことに関して何も変わらない。


瞑想と言う技法・ディヤーナー・サマディーと言う
状態を分けるのは見ていると言う質だ。
見ていることにかんしてなにもかわらないのだ。
見ている質とは口を挟み
操作しないことがどのくらい出来ているかだ。
良いだの悪いだの考えずに
ただ見ているそれが瞑想だ。


もし私の見方は良いのかと悪いのかと考えたら
それはもう瞑想では無い。
何が正しく何が間違いだなと思考せず
ただ全てを見ていることそれが瞑想で
それはあなた方は沈黙すると言うことを表すのです。


ただ感覚で感じるもの行為の全てに気付いていれば良い
それを良いだの悪いだのと評価しない
ただ見ていなさい。


見ているとは貴方の本質で在るから
瞑想とはただ貴方があなたで在ると言うことだ。
それはどう在るかでは無くただ私は私で在ると言うことで。
それはあなた方の自然な状態だ。
どう在るべきか、こう在るべきかと口を挟むから
自然な状態は壊れる。


心が静まればそれは自然に現れ、
あなた方は至高なる光を放ちだし,
あなた方には不可能と言うものは無くなる。
思考で口を挟まないとは、良いと思ったことを
思考せず考えずすーっとやることで
その為に思考をしもべとして使うのです。


人は主人と使いが逆だ。
使いで在る思考に縛られ使われている。


私は誰で在るある、彼で在るも
思考の産物だ


一切の思考が消え去っても、
私は私で在るのである。


思考が口挟む前の思いのままに生きることです。
それは個人としての私の無い
神仏と同じ思いだ。
人は思考で口を挟まず
思いのままに生きたら自然に本来に帰るのです。


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2015/02/09
17:57:51
兄弟の皆さん今日は

この道は始めは苦しくだんだん楽になる道です。


暴れ牛の言うこと聞くのは始めは楽で
だんだん苦しくなる道です。


暴れ牛に従うのは楽で
制するのは苦しいからです。


暴れ牛に従い泥棒したかったら泥棒し
車で暴走したかったら暴走し
人を怨みたければ怨み
仕返ししたかったら仕返ししたら
スッキリするかもしれません。


だがこの暴れ牛のままに生きていたら
何倍にもなってスッキリしないものは帰ってくるんだ
そうしたらまた暴れるしか無く
また暴れたら又暴れなくてはならないことが帰ってくる。


これではキリがないと悟って覚醒の道が始まるんです。
抑制する事なく暴れ牛を制しなくてはなりません。
要するに手懐けるんです。


この手懐ける方法に智慧の道は理解を使うわけです。
暴れ牛が暴れる原因は無知だからです。
暴れて損をするのは自分だと知らないんです。


だから牛は気を抜くと暴れるほうに動いてしまい
牛が、これではダメなんだと思うことを覚悟と言いますが
これは何も難しくないんです。


覚醒とは悟りとはこの世でもっとも単純で
もっとも簡単なことなんです。


暴れ牛は落ち着くために暴れているんです。
ただ暴れるのをやめて落ち着けば良いだけなんです。


何も難しく無く簡単なんだよ。
ただ安らいでいれば良いんだ。


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