カテゴリ:世界観 の目次
- 不調和の世界
- 自由意志迷いの原因
- 心が苦しみの原因
- 不調和の世界も必要だから存在する
- 何かの否定は一切を否定すること
- 真理とは逆説的ものである。
- 死の恐怖
- 人間は何故求めるのか
- 覚醒の道・選択
- 過去生とのつながり
- 縁起と生態系
- 真実の創世記
- 唯我独尊
- ラマナ・マハルシの教えと仏教
- 無明(無知)と罪
- 怒りを無くす・無知
- 無依なる真の人
- 全体だけがある
- 善悪・対立
- 悪を憎む事が最大の悪
- 個人意識からの超越
- お金を無くす
- 犯罪対策
- 物の値段は0円
- わたしは誰か。
- 混乱と悟りと解脱
- 悟り・全てが無駄
- 忍耐
- 色即是空・空即是色
- 自由と開放
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2011/04/03
10:03:06
真実は全体(一者)だけが存在し個人や世界など存在していないのだが、
人間の自我を通して見ると個人が存在し、不調和の世界が存在しているように見える。
その原因はごく自然なことだ、感覚器官が人間に与える印象は、
個人が存在すると言う物だ。
それにより、(わたし)が作られる。
人間の全ての記憶は真実ではなくわたしの判断したもの
であり、人間は世界を内側に築き上げているのだ。
感覚器官が与える印象によりわたしが作られ、
わたしが現れると世界が現れるのだ。
またわたしが消え去ると世界が共に消え去る。
わたしの判断の記憶の集まりが自我である、
自我から現れる如何なる動機もそれがどんな物であれ
自我の性質上自己中心的物である。
深く見極めて見ると良い。人間が語る良い行い、
悪い行いどちらも自己中心的行いに変わりは無い。
この自己中心的行い自我から現れる動機が不調和な世界を築きあげる。
自己が複数ある世界、個人が存在する世界には調和は存在しない。
個人の利益と個人の利益は相反するためである。
良い行いを主張する宗教を信じるもの同士でもどちらが正しいのか?と
不調和をあらわにする。
調和の世界が出来るためにはわたしが邪魔なのである。
わたしがない世界は世界ですら無いのであるが。
感覚器官が指し示す、わたしとは何の実態も存在しない、
自我とはわたしという感覚が築き上げた思いの集まりでありこれも
何の実態も存在しない全ては幻想なのである。
自我が認識する全ての個人の動き、世界の動き、宇宙の動きは全体の(一者)
の動きであり、わたしの行為などどこにも存在してはいない
実はあなたは今まで何一つ行ったことは無いのである。
一歩として動いたことも無いのである。
わたしが消え去ったとき全ての幻想も共に消え去る。
人間の自我を通して見ると個人が存在し、不調和の世界が存在しているように見える。
その原因はごく自然なことだ、感覚器官が人間に与える印象は、
個人が存在すると言う物だ。
それにより、(わたし)が作られる。
人間の全ての記憶は真実ではなくわたしの判断したもの
であり、人間は世界を内側に築き上げているのだ。
感覚器官が与える印象によりわたしが作られ、
わたしが現れると世界が現れるのだ。
またわたしが消え去ると世界が共に消え去る。
わたしの判断の記憶の集まりが自我である、
自我から現れる如何なる動機もそれがどんな物であれ
自我の性質上自己中心的物である。
深く見極めて見ると良い。人間が語る良い行い、
悪い行いどちらも自己中心的行いに変わりは無い。
この自己中心的行い自我から現れる動機が不調和な世界を築きあげる。
自己が複数ある世界、個人が存在する世界には調和は存在しない。
個人の利益と個人の利益は相反するためである。
良い行いを主張する宗教を信じるもの同士でもどちらが正しいのか?と
不調和をあらわにする。
調和の世界が出来るためにはわたしが邪魔なのである。
わたしがない世界は世界ですら無いのであるが。
感覚器官が指し示す、わたしとは何の実態も存在しない、
自我とはわたしという感覚が築き上げた思いの集まりでありこれも
何の実態も存在しない全ては幻想なのである。
自我が認識する全ての個人の動き、世界の動き、宇宙の動きは全体の(一者)
の動きであり、わたしの行為などどこにも存在してはいない
実はあなたは今まで何一つ行ったことは無いのである。
一歩として動いたことも無いのである。
わたしが消え去ったとき全ての幻想も共に消え去る。
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2011/04/13
14:45:24
宇宙(世界)は近くのものから遠くのものへ影響を与え合って繋がって
生滅変化している。そこに独立した個(我)と言う物は無く、
全体(一者)の流れだけがある。
分離した個(我)はこの世には存在していないというのに個(我)に依存する
自由意志があるはずも無い。
だが個人(我)が存在しているという感覚がある限り自由意志という感覚も
また残るだろう。
自我(エゴ)は自由意志というものが大好きである。
その自由意志というものが実際は何を生み出しているのかも知らずに。
自由意志には判断が必要である。
判断には迷いがあり、不安があり、その結果には不満があり後悔がある。
自由意志には迷いや後悔は必ず付いて来る。
自由意志がある限り、迷いが消えることは無い
実際には内側の条件と外側の条件により自我から思いが表れその
思いに従い行為を行っているのが人間である。
条件が同じであれば同じ思いが自我から現れる。
人により時により行為が異なるのはただ条件が異なっているだけなのである。
この条件は全体(宇宙の)の動きの流れの中で瞬間ごとに変化している。
完全に同じ条件は無いのである。
条件が同じであれば、どんな人間でも自我から同じ思いが現れ同じ
行為を行うのである。そこに自由など存在はしていない。
全体の流れの中で現れた条件に従い行われる行為に自由いしなど無いのであるが
条件により現れる重いとは、自我から現れるゆえ、
わたしはやりたい、やほしいの様に、如何にも自身の
意思であるかのような思いなのである。
それを人間は自由意志と呼んでいる。
このことを時系列に見ると原因が結果を生みその結果が次の原因となり
また結果を生むとなるが、実際は宇宙の全ては近いものから遠くのものへと
影響を与えあい繋がって消滅変化しているのであってそこに個人的物は
存在していない。
全体だけがあり、個(我)は、はじめから存在していないのである。
人間の自由とは怒る条件が整ったとき怒る悲しむ条件が整ったとき悲しむ
悩む条件が整ったとき悩むこの様なものなのである。
心の動きが条件により左右されるなら、その行為も条件に左右されるのである。
真実の自由とは条件に心が左右されないことなのである。
どのような状況におかれても、心を静かな状態に保つ、条件に左右されない
心これが真実の自由と言うものである。
真実の自由とは動きの中には無いものである。
何にも影響を受けない自由とは完全な停止を意味している
心の完全な永遠の停止こそ真実の自由なのである。
生滅変化している。そこに独立した個(我)と言う物は無く、
全体(一者)の流れだけがある。
分離した個(我)はこの世には存在していないというのに個(我)に依存する
自由意志があるはずも無い。
だが個人(我)が存在しているという感覚がある限り自由意志という感覚も
また残るだろう。
自我(エゴ)は自由意志というものが大好きである。
その自由意志というものが実際は何を生み出しているのかも知らずに。
自由意志には判断が必要である。
判断には迷いがあり、不安があり、その結果には不満があり後悔がある。
自由意志には迷いや後悔は必ず付いて来る。
自由意志がある限り、迷いが消えることは無い
実際には内側の条件と外側の条件により自我から思いが表れその
思いに従い行為を行っているのが人間である。
条件が同じであれば同じ思いが自我から現れる。
人により時により行為が異なるのはただ条件が異なっているだけなのである。
この条件は全体(宇宙の)の動きの流れの中で瞬間ごとに変化している。
完全に同じ条件は無いのである。
条件が同じであれば、どんな人間でも自我から同じ思いが現れ同じ
行為を行うのである。そこに自由など存在はしていない。
全体の流れの中で現れた条件に従い行われる行為に自由いしなど無いのであるが
条件により現れる重いとは、自我から現れるゆえ、
わたしはやりたい、やほしいの様に、如何にも自身の
意思であるかのような思いなのである。
それを人間は自由意志と呼んでいる。
このことを時系列に見ると原因が結果を生みその結果が次の原因となり
また結果を生むとなるが、実際は宇宙の全ては近いものから遠くのものへと
影響を与えあい繋がって消滅変化しているのであってそこに個人的物は
存在していない。
全体だけがあり、個(我)は、はじめから存在していないのである。
人間の自由とは怒る条件が整ったとき怒る悲しむ条件が整ったとき悲しむ
悩む条件が整ったとき悩むこの様なものなのである。
心の動きが条件により左右されるなら、その行為も条件に左右されるのである。
真実の自由とは条件に心が左右されないことなのである。
どのような状況におかれても、心を静かな状態に保つ、条件に左右されない
心これが真実の自由と言うものである。
真実の自由とは動きの中には無いものである。
何にも影響を受けない自由とは完全な停止を意味している
心の完全な永遠の停止こそ真実の自由なのである。
2011/04/22
17:26:36
世界の全ては近いものから遠くの物へ影響を与え合いながら、
繋がって消滅変化している。世界から分離された個(我)
と言うものは存在せず、全ては一つの者である。
この事を深く知っている者は、どの様な事が起きても
決して心を動かさない。
私が、語ることの全てはこの事につきる。
人間の心の停止、全ての原因は心にある。
心の停止に役立たない事は語る意味も無いのである。
間接的、直接的に心を静めるための言葉だけが意味を持つのである。
どの様な伝統的教えも言葉は異なれどその為にだけ現れてきた教えなのである。
方法(教え)が大事なのではない心が静まる事が大事なのである。
心とは自我が何かと触れることにより現れる思いである。
自我とは思いの集まりである。
思いは執着により現れる。あるがままのこの瞬間に対する不満の表れである。
心の動きはどのような動きであれ執着ににより起きる。
執着が心の動きの動力である。執着の元は我執である。
我執は、全体だけが存在し
この世界から切り離された個(我)は存在していないのに、
感覚器官が指し示す個人(我)が存在しているという感覚が個人を
作り上げ世界を作り上げている。この個人が存在するという錯覚が
原因で我執を発生させている。
執着が苦しみの原因と言うと、求めることが悪いと思うが、
真実は世界から切り離された、あなたが存在していると言う錯覚を
捨て去らなくてはならないのである。
だから私は心の動きが原因だと言う。
行為する者を自身と見なさなくなればなるほど、
心は静まるのである。ついにはあまりの心の静かな故に個人が
存在できない領域、見るものも、見られるものも存在していない、
領域にあなたは入っていくことになる。
その時初めて本物の知識を得る、
自分とは何であったのかを知ることとなる。
世界は常にあるがままに在る我々の思うようには決してならない、
我々が何を望もうと起きる事は起き起きない事は決して起きることは無い
全ては繋がって消滅変化をしているのであって、人間がいくらもがいても
思うようには決して行かないだろう。
真実は、この世に今苦しみは存在してはいない。
あるがままの事実だけがあり世界は苦しみとは無縁なのである。
苦しみを感じるのは条件により動く心である。
例え誰の行為により苦しみを感じたという場合でも、
誰かが誰かにに苦しみを感じることをしているのではない。
誰かが誰かに何かを行ったという事実だけがあり、そこに苦しみは無い。
苦しみは苦しみを感じた人間の心の動きなのである。
この世は繋がってこの一瞬貴方に一番、必要な事が起きている。
世界にも今必要なことが起きているのである。
余計なことは何一つ起きてはいない。
全体(神)だけが存在し個人は存在していないのである。
繋がって消滅変化している。世界から分離された個(我)
と言うものは存在せず、全ては一つの者である。
この事を深く知っている者は、どの様な事が起きても
決して心を動かさない。
私が、語ることの全てはこの事につきる。
人間の心の停止、全ての原因は心にある。
心の停止に役立たない事は語る意味も無いのである。
間接的、直接的に心を静めるための言葉だけが意味を持つのである。
どの様な伝統的教えも言葉は異なれどその為にだけ現れてきた教えなのである。
方法(教え)が大事なのではない心が静まる事が大事なのである。
心とは自我が何かと触れることにより現れる思いである。
自我とは思いの集まりである。
思いは執着により現れる。あるがままのこの瞬間に対する不満の表れである。
心の動きはどのような動きであれ執着ににより起きる。
執着が心の動きの動力である。執着の元は我執である。
我執は、全体だけが存在し
この世界から切り離された個(我)は存在していないのに、
感覚器官が指し示す個人(我)が存在しているという感覚が個人を
作り上げ世界を作り上げている。この個人が存在するという錯覚が
原因で我執を発生させている。
執着が苦しみの原因と言うと、求めることが悪いと思うが、
真実は世界から切り離された、あなたが存在していると言う錯覚を
捨て去らなくてはならないのである。
だから私は心の動きが原因だと言う。
行為する者を自身と見なさなくなればなるほど、
心は静まるのである。ついにはあまりの心の静かな故に個人が
存在できない領域、見るものも、見られるものも存在していない、
領域にあなたは入っていくことになる。
その時初めて本物の知識を得る、
自分とは何であったのかを知ることとなる。
世界は常にあるがままに在る我々の思うようには決してならない、
我々が何を望もうと起きる事は起き起きない事は決して起きることは無い
全ては繋がって消滅変化をしているのであって、人間がいくらもがいても
思うようには決して行かないだろう。
真実は、この世に今苦しみは存在してはいない。
あるがままの事実だけがあり世界は苦しみとは無縁なのである。
苦しみを感じるのは条件により動く心である。
例え誰の行為により苦しみを感じたという場合でも、
誰かが誰かにに苦しみを感じることをしているのではない。
誰かが誰かに何かを行ったという事実だけがあり、そこに苦しみは無い。
苦しみは苦しみを感じた人間の心の動きなのである。
この世は繋がってこの一瞬貴方に一番、必要な事が起きている。
世界にも今必要なことが起きているのである。
余計なことは何一つ起きてはいない。
全体(神)だけが存在し個人は存在していないのである。
2011/04/27
16:38:18
・不調和の世界
感覚器官が指し示す、宇宙(世界)から分離した個人が存在する
と言う印象で錯覚をおこし、私という思いの上に自我を作り上げ
世界を作り上げているのが人間である。
人間の自我から現れる動機はどのような動機であれ、自我の性質上
自己中心的である。
世界の本質を知らないで、自分がいったい何を行ったいるかも知らずに
行為する人間が作り上げる世界は不調和の世界である。
・調和の世界
世界の一切は、近いものから、遠くのものへ影響を与え合い、繋がって
生滅変化している一つの物でありそこに個人(我)と言うものは存在しては
いないことに気づき、我を捨てた者の作り上げる世界は調和の世界である。
我を捨てたものは自身が本当は何を行っているかを知っており、
我を捨てているが故に人間を超えた存在である。
人間は内的、外的条件により心が左右される故に、
不調和の世界は人間にとって苦しみ多き世界である。
その苦しみの中でついには、世界は繋がっており個人(我)など
存在していないことを、知るのである。
苦しみ多き世界こそが人間にとって必要なのである。
人間が人間を超えるためには、苦しみが必要だからこそ
苦しみは存在するのであり、必要の無い苦しみはこの世には
存在してはいないのである。苦しみが必要でなくなれば、
おのずから苦しみは消え去るのであってそれまではどのような
方法をもってしても決して苦しみは消えることは無い。
例え天国にあっても人間は苦しむのである。
人間が語る世界もこの通りなのである。
不調和の世界もそれが人間にとって必要だからこそ存在している
不調和の世界が必要でないなら自然と消え去るのである。
苦しみも不調和の世界もそれそのものをなくそうとしてなくなるものではない
人間がそれを必要としなくなることこそがそれを消し去る、唯一つの
方法だのである。
この宇宙を(世界)を見てごらん何一つ必要の無いものは無いのである。
例え一見必要の無いものと見えるものであってもつながりの中で必要
なのである。
この事こそが神(全体)は完全なのに世界は世界に苦しみが満ち溢れているのかの
理由なのである。人間の進化に、世界の進化に苦しみが必要だからである。
人間の進化と共に世界の進化と共に苦しみは減り、終には消え去るのである。
ここに何の意思も持たない、神(全体)意思が見えないだろうか、
水は低いところへ流れるように全体は生滅変化しておりそれは流れであり。
そこには意思が見えるのである。
人間に必要なことは、一切は繋がって生滅変化しており、そこに個人(我)
と言うものは存在していない個人(我)がいる様に見えるのは感覚器官の
が指し示す、錯覚だと正しく物を見ることなのである。
この者の見方が深まれば深まるほどに、思いも、行いも変化していく
そして終には個人と言う感覚すら消え去り、内的、外的条件により、
勝手に動く心は静まり停止する。その時その存在はもはや人間ではない。
正しく見ることこそが心の停止(サマディ)をもたらすのである。
不調和の世界も全体の流れの中で必要だからこそ存在しているのである。
不調和の世界が不必要になれば自然に調和の世界が訪れる。
人間が正しく物事を見ることが出来るようになれば自然に、
調和の世界が訪れることになる。
感覚器官が指し示す、宇宙(世界)から分離した個人が存在する
と言う印象で錯覚をおこし、私という思いの上に自我を作り上げ
世界を作り上げているのが人間である。
人間の自我から現れる動機はどのような動機であれ、自我の性質上
自己中心的である。
世界の本質を知らないで、自分がいったい何を行ったいるかも知らずに
行為する人間が作り上げる世界は不調和の世界である。
・調和の世界
世界の一切は、近いものから、遠くのものへ影響を与え合い、繋がって
生滅変化している一つの物でありそこに個人(我)と言うものは存在しては
いないことに気づき、我を捨てた者の作り上げる世界は調和の世界である。
我を捨てたものは自身が本当は何を行っているかを知っており、
我を捨てているが故に人間を超えた存在である。
人間は内的、外的条件により心が左右される故に、
不調和の世界は人間にとって苦しみ多き世界である。
その苦しみの中でついには、世界は繋がっており個人(我)など
存在していないことを、知るのである。
苦しみ多き世界こそが人間にとって必要なのである。
人間が人間を超えるためには、苦しみが必要だからこそ
苦しみは存在するのであり、必要の無い苦しみはこの世には
存在してはいないのである。苦しみが必要でなくなれば、
おのずから苦しみは消え去るのであってそれまではどのような
方法をもってしても決して苦しみは消えることは無い。
例え天国にあっても人間は苦しむのである。
人間が語る世界もこの通りなのである。
不調和の世界もそれが人間にとって必要だからこそ存在している
不調和の世界が必要でないなら自然と消え去るのである。
苦しみも不調和の世界もそれそのものをなくそうとしてなくなるものではない
人間がそれを必要としなくなることこそがそれを消し去る、唯一つの
方法だのである。
この宇宙を(世界)を見てごらん何一つ必要の無いものは無いのである。
例え一見必要の無いものと見えるものであってもつながりの中で必要
なのである。
この事こそが神(全体)は完全なのに世界は世界に苦しみが満ち溢れているのかの
理由なのである。人間の進化に、世界の進化に苦しみが必要だからである。
人間の進化と共に世界の進化と共に苦しみは減り、終には消え去るのである。
ここに何の意思も持たない、神(全体)意思が見えないだろうか、
水は低いところへ流れるように全体は生滅変化しておりそれは流れであり。
そこには意思が見えるのである。
人間に必要なことは、一切は繋がって生滅変化しており、そこに個人(我)
と言うものは存在していない個人(我)がいる様に見えるのは感覚器官の
が指し示す、錯覚だと正しく物を見ることなのである。
この者の見方が深まれば深まるほどに、思いも、行いも変化していく
そして終には個人と言う感覚すら消え去り、内的、外的条件により、
勝手に動く心は静まり停止する。その時その存在はもはや人間ではない。
正しく見ることこそが心の停止(サマディ)をもたらすのである。
不調和の世界も全体の流れの中で必要だからこそ存在しているのである。
不調和の世界が不必要になれば自然に調和の世界が訪れる。
人間が正しく物事を見ることが出来るようになれば自然に、
調和の世界が訪れることになる。
2011/05/17
10:08:17
何かを否定することは、宇宙の一切を否定することである。
どの様な事物を否定しても宇宙の一切を否定し神をも否定することになる。
現在起きている又は起きた出来事が起きないようにするためには、
それが起きた原因を変えなくてはならない。
その原因を変えるためには、又その原因を変えなければいけない。
その原因、又その原因とたどって行くと、宇宙に始まりがあるとすれば
始まりに行く付くのである。
宇宙の成立そのものを変えなければ、一切の事物は変わらないのである。
宇宙の物事と物は一切の事物があることを条件に成立しているのである。
過去の何かが変われば現在が変わる事は人間も認識しているが、
現在の何かを過去の何かを認めないとは宇宙の一切を認め無い
ことなのである。
宇宙の一切は直接又間接的に影響を与え繋がって生滅変化しているのであり
一部を切り取ることは出来ないのである。
今貴方の足元にあるかも知れない小さな石ころ一つでも、それが在ることが
過去現在未来の宇宙の成立の条件なのである。
だから言っている。繋がっている一部を切り取り裁いてはいけないと。
何かを裁くこと、何かを認めないことはあなた自身を裁くことであり、
認めないことであり、神をも裁き認めないこととなるのである。
だから私は裁く者をも裁かないのである。
ここで語っているのは、誰かを裁いているのではない、
事実を言っているだけなのである。
何かを裁くとは、自由な意思のもので物事は行われていると言うことを
前提にしている。
一体どう考えたら自由の意志の元の行為と言う物がありえるのだろうか?
誰かの自由な意思とは過去に縛られている自由なのだ何かに縛られた
自由とは一体どの様な自由なのだろうか?
感覚器官が指し示す印象は個人(我)存在するというものであるが、
あるように感じる個人(我)は存在せず。
無いように思える神だけがは存在している。
一切は神のあらわれである。この世には神しかいないのに
神に逆らう行為がどの様にしたら出来ると言うのであろうか。
人間はありえないことに従って不調和の世界を作り上げているが
それさえも神の愛なのである。
だから私は如何なるものをも否定しない宇宙の一切は互いに影響を
与え合い繋がって変化するものであるから、変化を促しているのである。
どの様な願いも持たない神の願いを成就させるために。
神(全体)は何時も全てに語りかけているが決して人間は
それを聞くことはない。人間は耳をふさいでいるからである。
人間は宇宙を単なる物理現象と見ているが我々の体も細かく
分析していけばこれも単なる物理現象に見える。
宇宙とは生なのである。
物理現象に意思は見えないが生には意思があるのである。
宇宙の一切が一つの生なのである。
神(全体)は何の意思も持たないが全体が繋がって変化している。
変化とは流れであり、流れとは何かの規則があるもので得ある。
この流れの向かう方向が意思をあらわしているのである。
神(全体)は、全体の永遠を考えている。
個人として見れば、一時的出来事を見れば、愛を感じないかもしれないが
全体の永遠の最善の道を進んでいる。
我々は多くの者の犠牲の上に立っている。
これが良いこととは言うことが出来ないがそれを生かす事こそが
我々のやるべき事なのである。
人事だから言えるのではない、私は親、兄弟の全てを早くに失っているが
それでも全ては神の行いであるが故に正しいと言うしかなのである。
我々は常に過程を生きている過程に結果というものは存在しない。
結果と見えることが因となり、次の結果に見えることを生む
その結果に見えるものが、次の因となり、また結果に見えるものを
生んでゆく、今を見れば良くない出来事とおもえることも
つぎの今は良い結果に繋がるかも知れないのえである。
一時的に結果と見えることは世界の永遠に影響を与え続けていき
永遠に結果と見えることを生み続けていくのである。
だから一時的な現象を切り取り神の(全体)計らいを我々が良いだの
悪いだのと評価すべきではないのである。
全ては神(全体)の行いであるがために正しいのである。
どの様な事物を否定しても宇宙の一切を否定し神をも否定することになる。
現在起きている又は起きた出来事が起きないようにするためには、
それが起きた原因を変えなくてはならない。
その原因を変えるためには、又その原因を変えなければいけない。
その原因、又その原因とたどって行くと、宇宙に始まりがあるとすれば
始まりに行く付くのである。
宇宙の成立そのものを変えなければ、一切の事物は変わらないのである。
宇宙の物事と物は一切の事物があることを条件に成立しているのである。
過去の何かが変われば現在が変わる事は人間も認識しているが、
現在の何かを過去の何かを認めないとは宇宙の一切を認め無い
ことなのである。
宇宙の一切は直接又間接的に影響を与え繋がって生滅変化しているのであり
一部を切り取ることは出来ないのである。
今貴方の足元にあるかも知れない小さな石ころ一つでも、それが在ることが
過去現在未来の宇宙の成立の条件なのである。
だから言っている。繋がっている一部を切り取り裁いてはいけないと。
何かを裁くこと、何かを認めないことはあなた自身を裁くことであり、
認めないことであり、神をも裁き認めないこととなるのである。
だから私は裁く者をも裁かないのである。
ここで語っているのは、誰かを裁いているのではない、
事実を言っているだけなのである。
何かを裁くとは、自由な意思のもので物事は行われていると言うことを
前提にしている。
一体どう考えたら自由の意志の元の行為と言う物がありえるのだろうか?
誰かの自由な意思とは過去に縛られている自由なのだ何かに縛られた
自由とは一体どの様な自由なのだろうか?
感覚器官が指し示す印象は個人(我)存在するというものであるが、
あるように感じる個人(我)は存在せず。
無いように思える神だけがは存在している。
一切は神のあらわれである。この世には神しかいないのに
神に逆らう行為がどの様にしたら出来ると言うのであろうか。
人間はありえないことに従って不調和の世界を作り上げているが
それさえも神の愛なのである。
だから私は如何なるものをも否定しない宇宙の一切は互いに影響を
与え合い繋がって変化するものであるから、変化を促しているのである。
どの様な願いも持たない神の願いを成就させるために。
神(全体)は何時も全てに語りかけているが決して人間は
それを聞くことはない。人間は耳をふさいでいるからである。
人間は宇宙を単なる物理現象と見ているが我々の体も細かく
分析していけばこれも単なる物理現象に見える。
宇宙とは生なのである。
物理現象に意思は見えないが生には意思があるのである。
宇宙の一切が一つの生なのである。
神(全体)は何の意思も持たないが全体が繋がって変化している。
変化とは流れであり、流れとは何かの規則があるもので得ある。
この流れの向かう方向が意思をあらわしているのである。
神(全体)は、全体の永遠を考えている。
個人として見れば、一時的出来事を見れば、愛を感じないかもしれないが
全体の永遠の最善の道を進んでいる。
我々は多くの者の犠牲の上に立っている。
これが良いこととは言うことが出来ないがそれを生かす事こそが
我々のやるべき事なのである。
人事だから言えるのではない、私は親、兄弟の全てを早くに失っているが
それでも全ては神の行いであるが故に正しいと言うしかなのである。
我々は常に過程を生きている過程に結果というものは存在しない。
結果と見えることが因となり、次の結果に見えることを生む
その結果に見えるものが、次の因となり、また結果に見えるものを
生んでゆく、今を見れば良くない出来事とおもえることも
つぎの今は良い結果に繋がるかも知れないのえである。
一時的に結果と見えることは世界の永遠に影響を与え続けていき
永遠に結果と見えることを生み続けていくのである。
だから一時的な現象を切り取り神の(全体)計らいを我々が良いだの
悪いだのと評価すべきではないのである。
全ては神(全体)の行いであるがために正しいのである。
2011/05/22
09:26:03
わたしは自分を見つけるために、自分を無くせと言う。
わたしは幸せを得るために、幸せを求めるなという。
わたしは一体となるために、観るものを確立しろという。
わたしは、個人があると感じてる人に個人はないという。
わたしは神はいないと思ってる人に神だけが在るという。
何故常に逆説的なのだろうか?
我々の認識とは自身の自我の凸凹に真実が写ったものを観ている。
正確に言えば真実という一つの物がありそれが何かに反射したものを
自我の凸凹に応じて見ていると言うのが正しいのであるが。
この世には見るものしかいない見えるものは全て写ったものであるという事である。
あなたは鏡の前に立って鏡の中の自分を見てごらん
あなたが右手を上げたとき鏡の中の自分は左手を
上げている。観ている自分が本当の自分であるのに
観られているのが自分と勘違いをすれば、鏡に写る自分が
右手を上げるためには、本当の自分の左手を上げなければならない。
だが鏡に映る自分が右手を上げているとき真実は左手を
上げているのである。
だから真理とは常に逆説的なのである。
おぼえておきなさい
我々は写ったものを見ている写ったものは逆に見えることを
我々が何か感じる時それを疑ってみなさい
宇宙と切り離された個人がいると感じる時それを疑ってみなさい
神の存在が感じない時その感覚を疑ってみなさい
自分の感覚を疑ってみることが真実を解き明かすのである。
真理とは常に逆説的なのである。
だから見つからないのだ。
我々の感覚に真理がそっているなら真理とは探さなくてはいけないものでは
ないはずである。
我々の感じ方と逆説的であるがゆえに探さなくては見つからないのである
真理とは初めから明らかに現われている。
逆の道を選んでいるのは我々なのである。
人間が築き上げている社会も我々の幸せとは逆のほうに進んでいるのだ
個人の幸せを追求することはだれも幸せを得られないことを表している。
個々の幸せは対立するからである。
全体の幸せを求めれば全ての個人は幸せを得られるのである。
調和の世界と、今まで現れた全体主義とは全く別なものであることを語っておく。
わたしは幸せを得るために、幸せを求めるなという。
わたしは一体となるために、観るものを確立しろという。
わたしは、個人があると感じてる人に個人はないという。
わたしは神はいないと思ってる人に神だけが在るという。
何故常に逆説的なのだろうか?
我々の認識とは自身の自我の凸凹に真実が写ったものを観ている。
正確に言えば真実という一つの物がありそれが何かに反射したものを
自我の凸凹に応じて見ていると言うのが正しいのであるが。
この世には見るものしかいない見えるものは全て写ったものであるという事である。
あなたは鏡の前に立って鏡の中の自分を見てごらん
あなたが右手を上げたとき鏡の中の自分は左手を
上げている。観ている自分が本当の自分であるのに
観られているのが自分と勘違いをすれば、鏡に写る自分が
右手を上げるためには、本当の自分の左手を上げなければならない。
だが鏡に映る自分が右手を上げているとき真実は左手を
上げているのである。
だから真理とは常に逆説的なのである。
おぼえておきなさい
我々は写ったものを見ている写ったものは逆に見えることを
我々が何か感じる時それを疑ってみなさい
宇宙と切り離された個人がいると感じる時それを疑ってみなさい
神の存在が感じない時その感覚を疑ってみなさい
自分の感覚を疑ってみることが真実を解き明かすのである。
真理とは常に逆説的なのである。
だから見つからないのだ。
我々の感覚に真理がそっているなら真理とは探さなくてはいけないものでは
ないはずである。
我々の感じ方と逆説的であるがゆえに探さなくては見つからないのである
真理とは初めから明らかに現われている。
逆の道を選んでいるのは我々なのである。
人間が築き上げている社会も我々の幸せとは逆のほうに進んでいるのだ
個人の幸せを追求することはだれも幸せを得られないことを表している。
個々の幸せは対立するからである。
全体の幸せを求めれば全ての個人は幸せを得られるのである。
調和の世界と、今まで現れた全体主義とは全く別なものであることを語っておく。
2011/05/24
12:59:13
もし自我が自我から現われる思い(心)が自分だと思っているなら
我々は決して死の恐怖から逃れることは出来ないだろう。
意識の内にまたは無意識の内に死の恐怖に怯え生きていかねばならない。
自我を心を自身と思っている者が死の恐怖を乗り越えることは
無理なことなのだ。
自我とはこの世で生まれた後に作られているからだ。
後から得たものは又失う、それが定めなのだ。
形あるものは必ず壊れる。後から得たものは必ず失う。
初めから在り続けるものそれだけが失うことのないもの
永遠に続くものである。
我々は生まれる前から、死んだ後も、在るという一種の感覚を備えている
今でもこの感覚は在るが、自我を自身と思っている故にこの感覚を
捉える事が出来ないこの感覚だけに何の努力もなく目的もなく動機もなく
全ての意識が向き続けている我々の本来の自然な状態をサマディと言うが
この在ると言う感覚を見つけ出しこれに意識をとどめた者は、わたしと言う
い感覚は真実は自我から現われているのではなく、在ると言う感覚から
立ち現われていたことを知るのである。この様な存在は死の恐怖を
持たない。在ると言う感覚はけして失われる様な物ではないからである。
我々が死を恐れているのは我々には本来死はないからである。
死と言う物がないのに死があるように見えるから怖いのである。
自我と身体が自分と思っている間は死があるだろう。
実際に死ぬことになる。
本来死を知らないわたしが自我を身体を自分と勘違いしているために
死と言うことが起きるのである。
自我と身体は移り変わる物である移り変わる物に実体はない実体がない
わたしとは一体どのようなわたしなのだろうか?
仏教ではこの世界には移り変わるのも変化する物と言った。
それではわたしが語る永遠に在り続ける物とは何なのか、在ると言うい感覚は
二元性を超えている故にこの世の物ではないのである。
移り変わるこの世を超えた彼方である彼岸に在るのである。
この事は大事なことであるが故何回も何回も言うこととなるだろうが
我々がわたしと感じているのは自我ではないのである。
自我がわたしと言う思いを現していると感じるのは錯覚なのである。
在ると言う感覚がわたしと言う思いを現している。
自我がなくても身体がなくてもわたしは在るである。
我々が恐れているのは死ではない意識を失うことなのである。
意識には死はないからである。
わたしと考える時自我や身体を思い浮かべてしまう
考えず、わたしを感じなさい、今のそのままのわたしが自我や身体と
何の関係もなく在ることに気づきなさい。
わたしの立ち現れる元を見つけなさい
このわたしは個人(我)を超えているこのわたしだけが個人性を超えてえるため
本物の個人なのである。そのときわたしのまま個人性を超えたのである。
本来の我々は死と言う物を知らないが故に我々は死を恐れるのである。
我々は決して死の恐怖から逃れることは出来ないだろう。
意識の内にまたは無意識の内に死の恐怖に怯え生きていかねばならない。
自我を心を自身と思っている者が死の恐怖を乗り越えることは
無理なことなのだ。
自我とはこの世で生まれた後に作られているからだ。
後から得たものは又失う、それが定めなのだ。
形あるものは必ず壊れる。後から得たものは必ず失う。
初めから在り続けるものそれだけが失うことのないもの
永遠に続くものである。
我々は生まれる前から、死んだ後も、在るという一種の感覚を備えている
今でもこの感覚は在るが、自我を自身と思っている故にこの感覚を
捉える事が出来ないこの感覚だけに何の努力もなく目的もなく動機もなく
全ての意識が向き続けている我々の本来の自然な状態をサマディと言うが
この在ると言う感覚を見つけ出しこれに意識をとどめた者は、わたしと言う
い感覚は真実は自我から現われているのではなく、在ると言う感覚から
立ち現われていたことを知るのである。この様な存在は死の恐怖を
持たない。在ると言う感覚はけして失われる様な物ではないからである。
我々が死を恐れているのは我々には本来死はないからである。
死と言う物がないのに死があるように見えるから怖いのである。
自我と身体が自分と思っている間は死があるだろう。
実際に死ぬことになる。
本来死を知らないわたしが自我を身体を自分と勘違いしているために
死と言うことが起きるのである。
自我と身体は移り変わる物である移り変わる物に実体はない実体がない
わたしとは一体どのようなわたしなのだろうか?
仏教ではこの世界には移り変わるのも変化する物と言った。
それではわたしが語る永遠に在り続ける物とは何なのか、在ると言うい感覚は
二元性を超えている故にこの世の物ではないのである。
移り変わるこの世を超えた彼方である彼岸に在るのである。
この事は大事なことであるが故何回も何回も言うこととなるだろうが
我々がわたしと感じているのは自我ではないのである。
自我がわたしと言う思いを現していると感じるのは錯覚なのである。
在ると言う感覚がわたしと言う思いを現している。
自我がなくても身体がなくてもわたしは在るである。
我々が恐れているのは死ではない意識を失うことなのである。
意識には死はないからである。
わたしと考える時自我や身体を思い浮かべてしまう
考えず、わたしを感じなさい、今のそのままのわたしが自我や身体と
何の関係もなく在ることに気づきなさい。
わたしの立ち現れる元を見つけなさい
このわたしは個人(我)を超えているこのわたしだけが個人性を超えてえるため
本物の個人なのである。そのときわたしのまま個人性を超えたのである。
本来の我々は死と言う物を知らないが故に我々は死を恐れるのである。
2011/05/24
20:37:09
我々は常に何かを求めている。
何かを求めているのは、幸せに成りたいからであ。
幸せに成りたいのは、満足したいからであるが
移り変わる物は決して手にすることは出来ない
必ず又失うからである。
得た物を失う前に幸せを、満足を失い続ける。
我々の思いも移り変わる故にである。
この世界に存在する物は全て常に変化しており
失態はないのである。
実体のない物を決して手にすることは出来ない。
では我々は如何して何かを求め続けるのだろうか?
我々の本来の姿が完全な満足だからである。
完全な幸せこれ以上何も得る物がない満足
得たい物もなく、知りたいこともない完全な満足の
状態これがサマディの状態である。
正確に言えば肉体を持ったサマディは完全な状態とは
言えない肉体を離れた時完全な涅槃、ニルヴァーナ、天国の状態になる。
この完全な満足の状態は本来の存在の自然な状態である。
我々から見れば求めるべき究極の状態だがこの状態は
存在の自然な状態である。
何処からか後から得ると言う物ではない。
後から得るような物は必ず又失うからである。
では何故今も我々は完全な満足の状態であるのに
それを感じ取れないのか。
外に何かを求め続けているからである。
外に何かを求めていない状態がサマディだからである。
我わらは求める故に満足を幸せを失い続けているのである。
得るために失っているのである。
幸せとは逆の道を進んでいるのである。
では如何して外に何かを求め続けるのか?
我々の本性は存在であるが。
在ると言う感覚が継続する故に意識と言われている。
この意識の潜在的指向、対象に向かうからである。
何故自身が完全な満足であるのに対象に意識が向かうのか
潜在的指向は何故あるのか?
意識とは存在とは知識であるが、
完全な知識であり全てが含まれている故に
無知なのである。
自身が初めから幸せであり完全な満足であることを
知らないので外に探しに向かうのである。
この無知、無明が全ての原因である。
無明(無知)があるから生があるのである。
意識が外に向かうと何故個人を作り上げ世界を作り上げるのか?
一者、一つの者、見る者しかいないのに対象がないのに
外に向かうことは分離を意味するからである。
無知(無明)これが世界を作り上げている原因なのである。
意識は外へ向かうと個を作り上げ世界を作り上げるが
終にはわたしは初めからそれであったことに気付き
無知(無明)が消え潜在的指向を終わらせるのである。
これが仏になることであり、神と一体になることである。
意識の潜在的指向により現われているように見えているのが
個人であり、世界なのである。
世界は初めもなく終わりもない、今あるわけでもなく、無いものでもない
一種の全体で観ている夢のような物なのである。
つながって変化する故に矛盾のない夢のようなものなのである。
個人の体験ではなく、一者が観ている夢のようなものなのである。
仏教の唯識もあらわし方は異なれど同じことを言っている。
・我々が何かを求めるの?
我々は初めから完全な満足の状態だから
・何故満足していないか?
外に何かを求めているから
・何故外に求めるのか?
潜在的指向のため
・潜在的指向は何故あるのか?
無知(無明)なため
全てを得ようとしない事が全てを得ることなのである。
何かを求めているのは、幸せに成りたいからであ。
幸せに成りたいのは、満足したいからであるが
移り変わる物は決して手にすることは出来ない
必ず又失うからである。
得た物を失う前に幸せを、満足を失い続ける。
我々の思いも移り変わる故にである。
この世界に存在する物は全て常に変化しており
失態はないのである。
実体のない物を決して手にすることは出来ない。
では我々は如何して何かを求め続けるのだろうか?
我々の本来の姿が完全な満足だからである。
完全な幸せこれ以上何も得る物がない満足
得たい物もなく、知りたいこともない完全な満足の
状態これがサマディの状態である。
正確に言えば肉体を持ったサマディは完全な状態とは
言えない肉体を離れた時完全な涅槃、ニルヴァーナ、天国の状態になる。
この完全な満足の状態は本来の存在の自然な状態である。
我々から見れば求めるべき究極の状態だがこの状態は
存在の自然な状態である。
何処からか後から得ると言う物ではない。
後から得るような物は必ず又失うからである。
では何故今も我々は完全な満足の状態であるのに
それを感じ取れないのか。
外に何かを求め続けているからである。
外に何かを求めていない状態がサマディだからである。
我わらは求める故に満足を幸せを失い続けているのである。
得るために失っているのである。
幸せとは逆の道を進んでいるのである。
では如何して外に何かを求め続けるのか?
我々の本性は存在であるが。
在ると言う感覚が継続する故に意識と言われている。
この意識の潜在的指向、対象に向かうからである。
何故自身が完全な満足であるのに対象に意識が向かうのか
潜在的指向は何故あるのか?
意識とは存在とは知識であるが、
完全な知識であり全てが含まれている故に
無知なのである。
自身が初めから幸せであり完全な満足であることを
知らないので外に探しに向かうのである。
この無知、無明が全ての原因である。
無明(無知)があるから生があるのである。
意識が外に向かうと何故個人を作り上げ世界を作り上げるのか?
一者、一つの者、見る者しかいないのに対象がないのに
外に向かうことは分離を意味するからである。
無知(無明)これが世界を作り上げている原因なのである。
意識は外へ向かうと個を作り上げ世界を作り上げるが
終にはわたしは初めからそれであったことに気付き
無知(無明)が消え潜在的指向を終わらせるのである。
これが仏になることであり、神と一体になることである。
意識の潜在的指向により現われているように見えているのが
個人であり、世界なのである。
世界は初めもなく終わりもない、今あるわけでもなく、無いものでもない
一種の全体で観ている夢のような物なのである。
つながって変化する故に矛盾のない夢のようなものなのである。
個人の体験ではなく、一者が観ている夢のようなものなのである。
仏教の唯識もあらわし方は異なれど同じことを言っている。
・我々が何かを求めるの?
我々は初めから完全な満足の状態だから
・何故満足していないか?
外に何かを求めているから
・何故外に求めるのか?
潜在的指向のため
・潜在的指向は何故あるのか?
無知(無明)なため
全てを得ようとしない事が全てを得ることなのである。
2011/05/29
10:46:59
覚醒の道には必ず選ばなくてはならなくなる選択がある。
あなたで在り続け死によりあなたを失うか
一度あなたを捨て失うことのないわたしを手にするか
何時かはこの選択をしなくてはいけない。
我々が無心である時の、意識とは二元性を超えている。
あなたとわたし、善と悪、等と言う対立を超えているが故に
完全な平和であり、全てが含まれているが故に、満足なのであり
満足だから幸せなのであり、全てが一つである故に愛なのです。
言葉の彼方にある物を言葉で表せることでも無く、
自身で確かめるしかない。
この状態を存在は喜びと言う素材で作られていると言った方もいる。
この状態が静かに在る状態である。
対象が在ることで、わたしが在ることを知ると言う体験により知るの
ではなく 体験を超えた状態である。
仏教では彼岸とか仏になると言われている。
また真我を実現した状態でだ。
あまりにも静かな故に沈黙とも言われる。
見るものが全て消え去りただ在ると言う状態だ。
この二元性を超えた領域は、決して分離した個人を認めない
分離した個人は二元性の領域の存在だからだ。
多くの者がは自我でありながら身体でありながら、
分離した個人でありなら、この領域に触れようとしている。
分離した個人と言う意識を無くした時にのみこの領域に
ふれるのであり。一元性の領域は個人と言う意識を無くした時
現われるのである。
だから一元性の領域の美しさを知る存在は完全な平等の
意識を誰しも持っているのです。個人と言う意識を離れているからだ。
離れているからこそ一次元の美しさを生きることができるのだ。
この領域だけに本当の美しさがあり、平和があり、愛があり
幸せがあり、満足があるのだ。
この領域は美しさに満ち溢れており、生に満ち溢れており、
幸せに満ち溢れている。
この領域は、匂いの無い神聖な香りに満ち溢れており。
音の無い神聖な音に満ち溢れている神の住まいなのである。
人間の全ての問題は。
わたしの幸せも大事だと言うわたしを錯覚していること。
わたしは自我である、わたしは身体であると。
自我の手口は創造を超える巧妙な手口なのだ。
自我を失ったら、わたしを失うと自身に思い込ませている。
それは自我のごまかしだ。
自我が消え去っても今のままの自分が残るのだ。
完全な平等の意識を持った自分になっているだけだ。
聖なる存在に価値観が変化しているだけであり。
今の自分を失うことは無い。
わたしを感じなさい、考えず感じなさい。
自我からわたしが現われているのではないことがわかる。
なにも怖がることは無い、自我が無くても、何も変わらない。
意識が個人と言う意識から、全体と言う意識に変わるだけです。
決して自分を失うことではない。
わたしは自我で在ると言う錯覚に囚われていた場合死を持って
自分を失うことでしょう。その我執がまた次の生を 生み。
又死を持って自我を失い続けることになる。
これが輪廻というものである。
わたしが誰か知らない(無知)無明により 生がおきるのである。
自分を失うのは自我を自分だと思い込んでいるときであり。
自我を超えた自分を見つけることは永遠の自分を見出すこと。。
一見自分を失うように見える、自我を超えることが
自分を永遠に保つ方法であり
一見自分を保ち続けるように思える自我に同化することが
自身を失う結果になるのだ。
この話をした後にわたしは一元性の中に生きる自分も、
全体の一部である自分も捨てろと言わねばならない。
それは一度自分を捨てた後にのみ現われる
ものだからである。在る無いを超えた無は在ると考えては
いけないのである。自我とは巧妙な手口で我々をだまし続ける。
何かのために捨てることは実は何も捨てないことになるのである。
自我はそれに気づき生き残る道を見つけるのだ。
我々は希望を探すからである。
一度わたしを捨てたのだ、
わたしは全体の一部であると自我が全体の一部に成りすますのである。
全てを一度捨てなさい全体の一部であることも。
自我が生き残る道を全て閉ざすこと、これが成功の鍵である。
わたしが死んで始めてわたしが生まれるのである。
あなたで在り続け死によりあなたを失うか
一度あなたを捨て失うことのないわたしを手にするか
何時かはこの選択をしなくてはいけない。
我々が無心である時の、意識とは二元性を超えている。
あなたとわたし、善と悪、等と言う対立を超えているが故に
完全な平和であり、全てが含まれているが故に、満足なのであり
満足だから幸せなのであり、全てが一つである故に愛なのです。
言葉の彼方にある物を言葉で表せることでも無く、
自身で確かめるしかない。
この状態を存在は喜びと言う素材で作られていると言った方もいる。
この状態が静かに在る状態である。
対象が在ることで、わたしが在ることを知ると言う体験により知るの
ではなく 体験を超えた状態である。
仏教では彼岸とか仏になると言われている。
また真我を実現した状態でだ。
あまりにも静かな故に沈黙とも言われる。
見るものが全て消え去りただ在ると言う状態だ。
この二元性を超えた領域は、決して分離した個人を認めない
分離した個人は二元性の領域の存在だからだ。
多くの者がは自我でありながら身体でありながら、
分離した個人でありなら、この領域に触れようとしている。
分離した個人と言う意識を無くした時にのみこの領域に
ふれるのであり。一元性の領域は個人と言う意識を無くした時
現われるのである。
だから一元性の領域の美しさを知る存在は完全な平等の
意識を誰しも持っているのです。個人と言う意識を離れているからだ。
離れているからこそ一次元の美しさを生きることができるのだ。
この領域だけに本当の美しさがあり、平和があり、愛があり
幸せがあり、満足があるのだ。
この領域は美しさに満ち溢れており、生に満ち溢れており、
幸せに満ち溢れている。
この領域は、匂いの無い神聖な香りに満ち溢れており。
音の無い神聖な音に満ち溢れている神の住まいなのである。
人間の全ての問題は。
わたしの幸せも大事だと言うわたしを錯覚していること。
わたしは自我である、わたしは身体であると。
自我の手口は創造を超える巧妙な手口なのだ。
自我を失ったら、わたしを失うと自身に思い込ませている。
それは自我のごまかしだ。
自我が消え去っても今のままの自分が残るのだ。
完全な平等の意識を持った自分になっているだけだ。
聖なる存在に価値観が変化しているだけであり。
今の自分を失うことは無い。
わたしを感じなさい、考えず感じなさい。
自我からわたしが現われているのではないことがわかる。
なにも怖がることは無い、自我が無くても、何も変わらない。
意識が個人と言う意識から、全体と言う意識に変わるだけです。
決して自分を失うことではない。
わたしは自我で在ると言う錯覚に囚われていた場合死を持って
自分を失うことでしょう。その我執がまた次の生を 生み。
又死を持って自我を失い続けることになる。
これが輪廻というものである。
わたしが誰か知らない(無知)無明により 生がおきるのである。
自分を失うのは自我を自分だと思い込んでいるときであり。
自我を超えた自分を見つけることは永遠の自分を見出すこと。。
一見自分を失うように見える、自我を超えることが
自分を永遠に保つ方法であり
一見自分を保ち続けるように思える自我に同化することが
自身を失う結果になるのだ。
この話をした後にわたしは一元性の中に生きる自分も、
全体の一部である自分も捨てろと言わねばならない。
それは一度自分を捨てた後にのみ現われる
ものだからである。在る無いを超えた無は在ると考えては
いけないのである。自我とは巧妙な手口で我々をだまし続ける。
何かのために捨てることは実は何も捨てないことになるのである。
自我はそれに気づき生き残る道を見つけるのだ。
我々は希望を探すからである。
一度わたしを捨てたのだ、
わたしは全体の一部であると自我が全体の一部に成りすますのである。
全てを一度捨てなさい全体の一部であることも。
自我が生き残る道を全て閉ざすこと、これが成功の鍵である。
わたしが死んで始めてわたしが生まれるのである。
2011/06/06
16:59:56
わたしは常々感覚器官が指し示す宇宙とは切り離された
個人がいると言う錯覚により、自我が作られると
語っている。
また個人と言う意識がある限り輪廻もあると言う。
今生において作られる自我。輪廻する個人とは
矛盾しているではないか?
このような矛盾点を少し語ろう。
世界の全ては互いに影響を与え合いつながって生滅変化している。
計り知れないほど多面的で複雑なルービックキューブのようにつながって
動き我々が生きた影響は我々が死んでも決して消えるものではない。
姿形を変えながら永遠と世界に影響を与え続けるがそのつながって動く
どこかで我々が生まれ変わるべき瞬間が訪れる。
宇宙の一切が我々が生まれることを要求する瞬間である。
宇宙が神々が我々の誕生を要求する瞬間である。
この瞬間に我々は生まれ変わるのだ。
この瞬間は前世に従って我々が我々であるために必要な全ての条件を備えている。
この様にして生死を繰り返すのである。
前世に従って自我が作られるのは、我々は我々が生まれ変わるべき瞬間に
生まれ変わっているからである。
だから星星の運行と我々はつながっており、占星術などの占いや予言などが
可能なのである。
仏教の唯識も表し方は異なれど同じことを言っているのである。
2011/06/13
10:10:44
生態系
生態系を語る時世界の中の一部の体系を表すことが多い
(ある一定の区域に存在する生物と、
それを取り巻く非生物的環境をまとめ、
ある程度閉じた一つの系と見なすとき、これを生態系と呼ぶ。
生態系は生態学的な単位として相互作用する動的で複雑な総体である。)
大体この様なものであろう。
生態系とはある一定の区域に存在する生物と環境なのだろうか、
他と本当に切り離されている一定の区域があるのだろうか。
他から何の影響も受けない一定の区域があるのだろうか。
本来の生態系とは宇宙全体が生態系なのである。
我々は宇宙全体とともに生きているのである。
我々は宇宙の一切に、生かし生かされているのである。
宇宙の一切は互いに影響を与え合いつながって
生滅変化しているこれが縁起である
これこそが生態系なのである。
生態系を語る時世界の中の一部の体系を表すことが多い
(ある一定の区域に存在する生物と、
それを取り巻く非生物的環境をまとめ、
ある程度閉じた一つの系と見なすとき、これを生態系と呼ぶ。
生態系は生態学的な単位として相互作用する動的で複雑な総体である。)
大体この様なものであろう。
生態系とはある一定の区域に存在する生物と環境なのだろうか、
他と本当に切り離されている一定の区域があるのだろうか。
他から何の影響も受けない一定の区域があるのだろうか。
本来の生態系とは宇宙全体が生態系なのである。
我々は宇宙全体とともに生きているのである。
我々は宇宙の一切に、生かし生かされているのである。
宇宙の一切は互いに影響を与え合いつながって
生滅変化しているこれが縁起である
これこそが生態系なのである。
2011/06/15
22:16:26
初めの一者(存在・乾栗陀耶識・ブラフマン)は知識であるが完全な知識である。
全てが含まれる故に無知(無明)なのである。
無知なる存在(一者・乾栗陀耶識・ブラフマン)は対象に外に意識を向ける
対象に外に向かう意識、これが意識の潜在的指向である。
意識と言うものは潜在的に対象に外に向かおうとするのである。
この(一者・ブラフマン・乾栗陀耶識)が対象に向かうと
分離していない分離が起こり(真我・仏性・阿摩羅識)となる。
初めの一者(存在・乾栗陀耶識・ブラフマン)と(真我・仏性・阿摩羅識)の
異なりは(一者・ブラフマン・乾栗陀耶識)は完全な円であり
全てが含まれており、分離せず分離している故に(真我・仏性・阿摩羅識)は
個人性(個性)を備えているがまた同じ性質なのである。
(真我・仏性・阿摩羅識)この意識が対象へ外へ向かうと心
(阿頼耶識眼識)となり七職( 末那識 意識 身識 舌識 鼻識 耳識 眼識 )
があらわれ、識の相互作用でうける印象により心の中に個人があらわれ
身体があらわれ、世界があらわれる。
識の相互作用で心に作られるイメージが個人であり世界なのである。
これは神の創造荷より造られたともいえるものである。
識は(存在・ブラフマン・乾栗陀耶識)(真我・仏性・阿摩羅識)
(阿頼耶識眼識 末那識 意識 身識 舌識 鼻識 耳識 眼識 )
以上十識である。
-------------------------------------------------------------------
・分離せず分離している二つの意識・真我とブラフマン
実際には意識が向かう対象とは初めの一者(存在・乾栗陀耶識)
であるが故に対象も無く外もないのである。
この様にして分離が始まり世界が作られたが実際には
今も分離は起きていない。
この初めの分離が(初めの一者・乾栗陀耶識・ブラフマン)等と
呼ばれているものであり
これは全てが含まれる初めの一であるがために認識作用を
伴わない意識である。
この初めの一者から分離せず分離したのが
(真我・仏性・阿摩羅識)等と言われているもので
分離せず分離しているが故に固有性を備えている認識作用を
伴わない意識である。
この二つの意識は認識作用を伴わないために意識とも異なると言われる。
-------------------------------------------------------------------
・仏教の唯識では識は八識とされている理由
仏教では現象世界を説いている、だから論理的なのである
現象世界は互いに影響を与え合いつながって生滅変化しているので
つながって変化するものは、事物の特性に合った何かの
法則にしたがっているのである。
だから現象世界では科学が存在するのである。
現象世界は八識から始まる。
九識、十識は真我とブラフマン等と言われるもので
二元性を超えているが故に神秘なのである。
仏教では、ある、ないを超えている無をあるとは考えない
真我やブラフマンは二元性を超えているものであり
無であり、あるとも、ないとも言えないあるものだから
無と表されてきたのである。
あるのか無いのかと言うことは、見るものと見られるものと言う
相対的な関係があり言える事であり
対象が無い一元性の領域はあるのか無いのかを超えているのである。
この様な意味で識は八識とされてきたのである。
-------------------------------------------------------------------
・一者、神、存在は次元を超えた中心点を持つ円である。
初めの一者、神、存在は形は無いが表す事はできる。
初めの一者は全てが含まれているが故に内と外が無い
初めの一者は二元性を超えている一元性故に立体ではない
立体の世界は相対の世界である。
初めの一は相対ではないためあるのか無いのかを超えている
見るものと見られるものがあって始めてあると言えるのである
見るものも見られるものも無い、内も外も無いものとは
点なのであるこの点は次元を超えた点である
そこから全てが現われている
次元を超えた点が初めの一者、存在、神を表わしたものである
この点は相対的領域でないために、条件が無くある理由も無い
どのような物にも影響を受けることは無い。
この領域は距離も時間も形も無いが故に無限の空間である。
限界は相対の領域にしか無いからである。
時間が無いが故に過去と現在と未来が一所にある
この点が相対敵領域に現われて円となる
聖なるものを現すのに中心を持った円で表わされるはこの為である
法輪や車輪やチャクラや花で表わされる。
どのような大きい世界もどのような小さな世界も
中心点を持つ円で出来ている。
この次元を超えた中心点はハートと呼ばれることがある。
ハートとはこれが中心だという意味である。
-------------------------------------------------------------------
・立体の世界の不思議
立体の世界では1だけでは1にならない
立体の世界は相対の世界であり主体と客体があって
1を認識するもう一つの1があって始めて1となるのである
2から1が存在でき2から立体の世界は始まるのである。
対象と自分の分離は立体である事を表わしているのである。
対象と自分を分ける何かが必要だからである。
1だけでは1とならない
1は点であり0となるのである。
1では認識作用が働かないためにあるとか無いとか言えないと言う事である
これが二元性を超えていると言うことである。
これが二元性を超えた存在であるが無である理由である。
我々は立体の世界に生きていて幸せを求めるが立体の世界では
幸せは幸せだけでは幸せとはならない。
対立する物が存在し幸せは存在している
悪的事があり善的事が存在しえるのである。
悪があり善は何かが始めて明らかになるのである。
全てが含まれる最初の一は分離が無く対象がないため知識だが無知なのである
1でも1であるがために認識作用が働かなくてもあるはずなのに
1が0になるのが立体の世界なのである。
認識作用が働かない1だから真我は幸福だが
幸福とも異なると言われ
真我は意識だが意識とも異なると言われる
立体の世界では全てを含む1を0とするのである。
これが1なる存在を無と表わす理由である。
-------------------------------------------------------------------
主体と客体とそれ以外この三者は今も一体であが
この三者が分離せず分離して心の中に世界は現われる。
心を離れて世界は存在しない。
心の外には世界は存在しない。
全ては心の産物なのである。
人はそれぞれの識の相互作用による印象に従って心の中に世界を作るのである。
個々共通の世界があると感じるのは元々我々は一者だからである。
共通の印象があるからである。
※解り安くする為この記事は修正するかもしれません。
全てが含まれる故に無知(無明)なのである。
無知なる存在(一者・乾栗陀耶識・ブラフマン)は対象に外に意識を向ける
対象に外に向かう意識、これが意識の潜在的指向である。
意識と言うものは潜在的に対象に外に向かおうとするのである。
この(一者・ブラフマン・乾栗陀耶識)が対象に向かうと
分離していない分離が起こり(真我・仏性・阿摩羅識)となる。
初めの一者(存在・乾栗陀耶識・ブラフマン)と(真我・仏性・阿摩羅識)の
異なりは(一者・ブラフマン・乾栗陀耶識)は完全な円であり
全てが含まれており、分離せず分離している故に(真我・仏性・阿摩羅識)は
個人性(個性)を備えているがまた同じ性質なのである。
(真我・仏性・阿摩羅識)この意識が対象へ外へ向かうと心
(阿頼耶識眼識)となり七職( 末那識 意識 身識 舌識 鼻識 耳識 眼識 )
があらわれ、識の相互作用でうける印象により心の中に個人があらわれ
身体があらわれ、世界があらわれる。
識の相互作用で心に作られるイメージが個人であり世界なのである。
これは神の創造荷より造られたともいえるものである。
識は(存在・ブラフマン・乾栗陀耶識)(真我・仏性・阿摩羅識)
(阿頼耶識眼識 末那識 意識 身識 舌識 鼻識 耳識 眼識 )
以上十識である。
-------------------------------------------------------------------
・分離せず分離している二つの意識・真我とブラフマン
実際には意識が向かう対象とは初めの一者(存在・乾栗陀耶識)
であるが故に対象も無く外もないのである。
この様にして分離が始まり世界が作られたが実際には
今も分離は起きていない。
この初めの分離が(初めの一者・乾栗陀耶識・ブラフマン)等と
呼ばれているものであり
これは全てが含まれる初めの一であるがために認識作用を
伴わない意識である。
この初めの一者から分離せず分離したのが
(真我・仏性・阿摩羅識)等と言われているもので
分離せず分離しているが故に固有性を備えている認識作用を
伴わない意識である。
この二つの意識は認識作用を伴わないために意識とも異なると言われる。
-------------------------------------------------------------------
・仏教の唯識では識は八識とされている理由
仏教では現象世界を説いている、だから論理的なのである
現象世界は互いに影響を与え合いつながって生滅変化しているので
つながって変化するものは、事物の特性に合った何かの
法則にしたがっているのである。
だから現象世界では科学が存在するのである。
現象世界は八識から始まる。
九識、十識は真我とブラフマン等と言われるもので
二元性を超えているが故に神秘なのである。
仏教では、ある、ないを超えている無をあるとは考えない
真我やブラフマンは二元性を超えているものであり
無であり、あるとも、ないとも言えないあるものだから
無と表されてきたのである。
あるのか無いのかと言うことは、見るものと見られるものと言う
相対的な関係があり言える事であり
対象が無い一元性の領域はあるのか無いのかを超えているのである。
この様な意味で識は八識とされてきたのである。
-------------------------------------------------------------------
・一者、神、存在は次元を超えた中心点を持つ円である。
初めの一者、神、存在は形は無いが表す事はできる。
初めの一者は全てが含まれているが故に内と外が無い
初めの一者は二元性を超えている一元性故に立体ではない
立体の世界は相対の世界である。
初めの一は相対ではないためあるのか無いのかを超えている
見るものと見られるものがあって始めてあると言えるのである
見るものも見られるものも無い、内も外も無いものとは
点なのであるこの点は次元を超えた点である
そこから全てが現われている
次元を超えた点が初めの一者、存在、神を表わしたものである
この点は相対的領域でないために、条件が無くある理由も無い
どのような物にも影響を受けることは無い。
この領域は距離も時間も形も無いが故に無限の空間である。
限界は相対の領域にしか無いからである。
時間が無いが故に過去と現在と未来が一所にある
この点が相対敵領域に現われて円となる
聖なるものを現すのに中心を持った円で表わされるはこの為である
法輪や車輪やチャクラや花で表わされる。
どのような大きい世界もどのような小さな世界も
中心点を持つ円で出来ている。
この次元を超えた中心点はハートと呼ばれることがある。
ハートとはこれが中心だという意味である。
-------------------------------------------------------------------
・立体の世界の不思議
立体の世界では1だけでは1にならない
立体の世界は相対の世界であり主体と客体があって
1を認識するもう一つの1があって始めて1となるのである
2から1が存在でき2から立体の世界は始まるのである。
対象と自分の分離は立体である事を表わしているのである。
対象と自分を分ける何かが必要だからである。
1だけでは1とならない
1は点であり0となるのである。
1では認識作用が働かないためにあるとか無いとか言えないと言う事である
これが二元性を超えていると言うことである。
これが二元性を超えた存在であるが無である理由である。
我々は立体の世界に生きていて幸せを求めるが立体の世界では
幸せは幸せだけでは幸せとはならない。
対立する物が存在し幸せは存在している
悪的事があり善的事が存在しえるのである。
悪があり善は何かが始めて明らかになるのである。
全てが含まれる最初の一は分離が無く対象がないため知識だが無知なのである
1でも1であるがために認識作用が働かなくてもあるはずなのに
1が0になるのが立体の世界なのである。
認識作用が働かない1だから真我は幸福だが
幸福とも異なると言われ
真我は意識だが意識とも異なると言われる
立体の世界では全てを含む1を0とするのである。
これが1なる存在を無と表わす理由である。
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主体と客体とそれ以外この三者は今も一体であが
この三者が分離せず分離して心の中に世界は現われる。
心を離れて世界は存在しない。
心の外には世界は存在しない。
全ては心の産物なのである。
人はそれぞれの識の相互作用による印象に従って心の中に世界を作るのである。
個々共通の世界があると感じるのは元々我々は一者だからである。
共通の印象があるからである。
※解り安くする為この記事は修正するかもしれません。
2011/07/12
20:44:34
唯我独尊
我々は世界を外に観ているつもりだが
一体それは本当だろうか?
科学的に言えば世界は脳が観ていることになる。
感覚器官がとらえた情報は神経を通り脳に送られ
脳が物を見たり音を聞いたり感覚を感じたり臭いを感じたり
味を感じたりしていると言うわけである。
本当に世界は外側にあるのだろうか?
複数の人間が共通した世界を感じているからと言って
世界は外側にあるのだろうか?
過去の多くの聖なる存在は世界は心の中に存在し
外には何もないと言ってきた。
世界は人類共通の意識が心に表している夢のようなものだと
語っている。
仏教の唯識なども同じことを言っている。
もしあなたが今ここで無我の境地を無心を体験したら
同じことを言うだろう。
我々が心を静めて行き自分と言うものも存在できない領域に
達した場合世界と言うものは存在していないのである。
心を離れて世界は存在していないのである。
さて本題の唯我独尊とは?について語る。
脳は実に機械的ものである。
機械と人間の違いは人間には意識があることである。
感覚器官がとらえる情報を脳が分別認識しその認識に従い
意識が動くと心が表れる。これは人間的に言えばである。
真実は脳も感覚器官も意識が動いて現れた識の一部である
だから唯識では感覚器官も識と呼んでいるのである。
それはともかく心が動く前の情報は全ての人に共通のものであるが
心が働くと異なるものとなる。
一杯の水を美味しいと感じるか只の水と感じるかがここで分かれる。
好き嫌いとか快、不快、苦楽とかがここで別れるのである。
情報が同じでも感じ方は異なると言うことである。
人は同じ状態でも苦を感じたり楽を感じたりするのである。
これがわたしが語る内側の条件と外側の条件であり
同じ人でもある時は苦と感じたり又ある時は楽と感じることがある。
これは内側の条件(心)何かに影響を受け刻々と変化しているが
同じで出来事でも人はそれぞれ感じていることが異なると言うことである
我々は内側(心)でそれぞれの世界を観ていると言うことである。
受ける情報は同じでもとらえ方はそれぞれの心に従っているのである
人間はそれぞれに心に異なる世界を築いているのである。
あなたの観ている世界は全てあなたの為にだけ存在しているのである
人間は外的条件と内的条件で現れた心に従いそれぞれの異なる
世界を心に築いているのである。
あなたがわたしの語ることを聴くとき私の言葉はあなただけのために
あるのである。あなたにとってあなただけの為にわたしは存在している。
あなたの為にわたしは何度と無く生まれ変わってきたのである。
あなたに会うために。
あなたの観ている世界は世界はあなただけのものなのである。
以前わたしは一粒の雨が体に触れた時その一粒が永遠の時を経てきたことに
気づき一粒の雨に愛しさを感じたことがある
我々にとって自分の感じる世界の全てはかけがえの無いものなのである。
自分のためにだけ存在しているのだからである。
自分の世界は内側にあるのである。
この心が築き上げている世界は心の状態により作られているが故に
あなたのためだけにプログラムされている。
あなたが覚醒するいために最も最適な世界を作り上げているのである。
苦を感じやすい人間は苦を感じやすいために心は苦に満ちている
世界を築き上げる。この苦しみの世界は終には苦しみを超えさせるのである。
欲を感じやすい心は欲に満ちた世界を心に築き上げるが故に
終には無常を感じることなり覚醒の道を求めるのである。
このように心の状態により心に築き上げる世界は
その人のためにだけあるのである
真実は今何処の誰に生まれてどの様な人生を送っているかも
心の状態で決められている。
この生は因果の結果と言うが因果とは心の状態で行う行為で
作られるのであるから心の状態でこの生も決められていると言っても
良いのである。
人はそれぞれに心に従って世界を心の中に築き上げていて
心に従う故に人それぞれに自分が覚醒に向かうのに最適な
世界を作り上げていると言うことである。
全ての人はそれぞれの心に従い適切な場所に生まれている故に
個々が内側の世界に従う行為全体として一つの動きを示す。
各個人が自身のためにしていることが相手のための行為でも
あると言うこと得である。
人間が他とぶつかり合うことも自身のためにも相手のためにも
成っていると言うことである。
如何してぶつかり合うのか?
個人個人は心の状態により世界を観ている。
互いに異なる世界を観ていると言うことである。
個々に行われる行為は個にとって真実なのである。
たとえ殺人でも泥棒でもその個人にとっては真実なのである。
ここまで来ると納得できない人が多いかも知れない。
心は内と外の条件で刻々と変化しているが心の変化も
思考も思いも何かを縁として起きているだけで
わたし達が動かしているものではないのである。
我々が何かを好きになろうとしても嫌いになろうとしても
思うようには行かない好きなものは好きであり
嫌いなものは嫌いなのである。
これは我々は自分の思いを自由には出来ないことを表している。
悲しい時に楽しいと喜べる人はいない人である限り
思いは自由にはならないのである。
人は外的条件と内的条件(心)で心に世界を築き上げ
条件の下移り変わる心に従っているのである。
たとえ殺人を行ったものでも外的条件と内的条件で
現れた心に従ったまでなのである。
その時はそれが良いと感じたから行ったのである。
殺人を行ったものが殺人を行うのは心に従ったまでである。
そうするべきだとその時の心は語ったのである。
だからこそ行ったのである。
個々はそれぞれに異なった世界を築き上げその世界の
外的条件と内的条件で心は刻々と変化しており
それに従って生きているのである。
全ての人は限定された条件の下で真実を生きているのである。
誰かが何かを行ってもその行いはその人にとって真実なのである。
我々が人の行いを理解できないのは、
異なる世界の真実を見ているからである。
世界は個々の真実と真実がぶつかるて不調和の世界を築き上げていて
そのぶつかり合いが調和の世界を作り上げるのである。
どちらが正しいと言うことは無いのである。
個人の覚醒とは全てをあるがままに受け入れること
求めることと避けることを止めること
世界に誰か悪いことをする悪人がいては
個人の覚醒は成り立たないのである。
あるがままを受け入れられないからである。
この世界はこのまま神仏の世界なのである。
わたしはだからこの世界はこのままで良いと言っているのではない
個人の苦しみは覚醒のためにあり
世界の苦しみは世界の覚醒のためにあるのであるから
どちらも覚醒すれば苦しみは消えるのである。
世界の覚醒は個人の覚醒により生まれる
わたしはが言うことはわたしが考えたことなど一つもないのである
全ては古の道であることを比べなくても知っているのであるが
本日密教の理趣経を見たらわたしと同じ世界観が表されていた。
理趣経と同じでわたしが語りたいのは全ては清浄であると
わたしは語るのである。
さて主題を忘れておりましたが勘の良いあなたなら
唯我独尊の意味を理解したでしょうから改めて言うことでも
無いでしょう。
わたしは語ることが苦手ですはなしは何時も何処かに飛んでいきます。
ですがわたしはこれも個性ととらえていますので、読みづらくても
勘弁してください。
我々は常に何かの目的のために今を生きている
未来のために今を生きているのである。
過去の経験が道を間違えないために目的を持てと言うからである
例え足を上げる時でも下ろすためであり。
禅をするときでも悟りが目的であり
瞑想も同じである
我々に目的の無い行為は存在していない
たとえ意識していなくても無意識でも何かの目的がある。
悟りとは目的の無い行為である。
今のために今があり
禅のために禅をするときそれが悟りである
それがあるがままを受け入れた状態である。
目的はあるがままを受け入れられないから
現れるのである。
悟りを何処からか得ようとすることは煩悩である
全てを捨てて自然に現れるのが悟りである。
得ようとするのは煩悩
捨てることが悟りだのである。
捨てるとは何もしないことである。
目的を生む個人と言う意思を捨てるが必要で捨てるためには
何もしないこと求めることも避けることも止めることである。
身体と自我は宇宙の一部であり非我なのであり我々は無我なのである。
我々が個人で自由意志のもとに行為していると観る限り
あるがままを受け入れることは出来ないのである。
今を今のために生きるとき過去と現在と未来はこの瞬間に
存在するのである。
我々は世界を外に観ているつもりだが
一体それは本当だろうか?
科学的に言えば世界は脳が観ていることになる。
感覚器官がとらえた情報は神経を通り脳に送られ
脳が物を見たり音を聞いたり感覚を感じたり臭いを感じたり
味を感じたりしていると言うわけである。
本当に世界は外側にあるのだろうか?
複数の人間が共通した世界を感じているからと言って
世界は外側にあるのだろうか?
過去の多くの聖なる存在は世界は心の中に存在し
外には何もないと言ってきた。
世界は人類共通の意識が心に表している夢のようなものだと
語っている。
仏教の唯識なども同じことを言っている。
もしあなたが今ここで無我の境地を無心を体験したら
同じことを言うだろう。
我々が心を静めて行き自分と言うものも存在できない領域に
達した場合世界と言うものは存在していないのである。
心を離れて世界は存在していないのである。
さて本題の唯我独尊とは?について語る。
脳は実に機械的ものである。
機械と人間の違いは人間には意識があることである。
感覚器官がとらえる情報を脳が分別認識しその認識に従い
意識が動くと心が表れる。これは人間的に言えばである。
真実は脳も感覚器官も意識が動いて現れた識の一部である
だから唯識では感覚器官も識と呼んでいるのである。
それはともかく心が動く前の情報は全ての人に共通のものであるが
心が働くと異なるものとなる。
一杯の水を美味しいと感じるか只の水と感じるかがここで分かれる。
好き嫌いとか快、不快、苦楽とかがここで別れるのである。
情報が同じでも感じ方は異なると言うことである。
人は同じ状態でも苦を感じたり楽を感じたりするのである。
これがわたしが語る内側の条件と外側の条件であり
同じ人でもある時は苦と感じたり又ある時は楽と感じることがある。
これは内側の条件(心)何かに影響を受け刻々と変化しているが
同じで出来事でも人はそれぞれ感じていることが異なると言うことである
我々は内側(心)でそれぞれの世界を観ていると言うことである。
受ける情報は同じでもとらえ方はそれぞれの心に従っているのである
人間はそれぞれに心に異なる世界を築いているのである。
あなたの観ている世界は全てあなたの為にだけ存在しているのである
人間は外的条件と内的条件で現れた心に従いそれぞれの異なる
世界を心に築いているのである。
あなたがわたしの語ることを聴くとき私の言葉はあなただけのために
あるのである。あなたにとってあなただけの為にわたしは存在している。
あなたの為にわたしは何度と無く生まれ変わってきたのである。
あなたに会うために。
あなたの観ている世界は世界はあなただけのものなのである。
以前わたしは一粒の雨が体に触れた時その一粒が永遠の時を経てきたことに
気づき一粒の雨に愛しさを感じたことがある
我々にとって自分の感じる世界の全てはかけがえの無いものなのである。
自分のためにだけ存在しているのだからである。
自分の世界は内側にあるのである。
この心が築き上げている世界は心の状態により作られているが故に
あなたのためだけにプログラムされている。
あなたが覚醒するいために最も最適な世界を作り上げているのである。
苦を感じやすい人間は苦を感じやすいために心は苦に満ちている
世界を築き上げる。この苦しみの世界は終には苦しみを超えさせるのである。
欲を感じやすい心は欲に満ちた世界を心に築き上げるが故に
終には無常を感じることなり覚醒の道を求めるのである。
このように心の状態により心に築き上げる世界は
その人のためにだけあるのである
真実は今何処の誰に生まれてどの様な人生を送っているかも
心の状態で決められている。
この生は因果の結果と言うが因果とは心の状態で行う行為で
作られるのであるから心の状態でこの生も決められていると言っても
良いのである。
人はそれぞれに心に従って世界を心の中に築き上げていて
心に従う故に人それぞれに自分が覚醒に向かうのに最適な
世界を作り上げていると言うことである。
全ての人はそれぞれの心に従い適切な場所に生まれている故に
個々が内側の世界に従う行為全体として一つの動きを示す。
各個人が自身のためにしていることが相手のための行為でも
あると言うこと得である。
人間が他とぶつかり合うことも自身のためにも相手のためにも
成っていると言うことである。
如何してぶつかり合うのか?
個人個人は心の状態により世界を観ている。
互いに異なる世界を観ていると言うことである。
個々に行われる行為は個にとって真実なのである。
たとえ殺人でも泥棒でもその個人にとっては真実なのである。
ここまで来ると納得できない人が多いかも知れない。
心は内と外の条件で刻々と変化しているが心の変化も
思考も思いも何かを縁として起きているだけで
わたし達が動かしているものではないのである。
我々が何かを好きになろうとしても嫌いになろうとしても
思うようには行かない好きなものは好きであり
嫌いなものは嫌いなのである。
これは我々は自分の思いを自由には出来ないことを表している。
悲しい時に楽しいと喜べる人はいない人である限り
思いは自由にはならないのである。
人は外的条件と内的条件(心)で心に世界を築き上げ
条件の下移り変わる心に従っているのである。
たとえ殺人を行ったものでも外的条件と内的条件で
現れた心に従ったまでなのである。
その時はそれが良いと感じたから行ったのである。
殺人を行ったものが殺人を行うのは心に従ったまでである。
そうするべきだとその時の心は語ったのである。
だからこそ行ったのである。
個々はそれぞれに異なった世界を築き上げその世界の
外的条件と内的条件で心は刻々と変化しており
それに従って生きているのである。
全ての人は限定された条件の下で真実を生きているのである。
誰かが何かを行ってもその行いはその人にとって真実なのである。
我々が人の行いを理解できないのは、
異なる世界の真実を見ているからである。
世界は個々の真実と真実がぶつかるて不調和の世界を築き上げていて
そのぶつかり合いが調和の世界を作り上げるのである。
どちらが正しいと言うことは無いのである。
個人の覚醒とは全てをあるがままに受け入れること
求めることと避けることを止めること
世界に誰か悪いことをする悪人がいては
個人の覚醒は成り立たないのである。
あるがままを受け入れられないからである。
この世界はこのまま神仏の世界なのである。
わたしはだからこの世界はこのままで良いと言っているのではない
個人の苦しみは覚醒のためにあり
世界の苦しみは世界の覚醒のためにあるのであるから
どちらも覚醒すれば苦しみは消えるのである。
世界の覚醒は個人の覚醒により生まれる
わたしはが言うことはわたしが考えたことなど一つもないのである
全ては古の道であることを比べなくても知っているのであるが
本日密教の理趣経を見たらわたしと同じ世界観が表されていた。
理趣経と同じでわたしが語りたいのは全ては清浄であると
わたしは語るのである。
さて主題を忘れておりましたが勘の良いあなたなら
唯我独尊の意味を理解したでしょうから改めて言うことでも
無いでしょう。
わたしは語ることが苦手ですはなしは何時も何処かに飛んでいきます。
ですがわたしはこれも個性ととらえていますので、読みづらくても
勘弁してください。
我々は常に何かの目的のために今を生きている
未来のために今を生きているのである。
過去の経験が道を間違えないために目的を持てと言うからである
例え足を上げる時でも下ろすためであり。
禅をするときでも悟りが目的であり
瞑想も同じである
我々に目的の無い行為は存在していない
たとえ意識していなくても無意識でも何かの目的がある。
悟りとは目的の無い行為である。
今のために今があり
禅のために禅をするときそれが悟りである
それがあるがままを受け入れた状態である。
目的はあるがままを受け入れられないから
現れるのである。
悟りを何処からか得ようとすることは煩悩である
全てを捨てて自然に現れるのが悟りである。
得ようとするのは煩悩
捨てることが悟りだのである。
捨てるとは何もしないことである。
目的を生む個人と言う意思を捨てるが必要で捨てるためには
何もしないこと求めることも避けることも止めることである。
身体と自我は宇宙の一部であり非我なのであり我々は無我なのである。
我々が個人で自由意志のもとに行為していると観る限り
あるがままを受け入れることは出来ないのである。
今を今のために生きるとき過去と現在と未来はこの瞬間に
存在するのである。
2011/07/21
20:10:15
ラマナ・マハルシの教えと仏教
実質的にはマハルシの教えと仏教は同じものだが
異なると言われば方法が異なるのは事実である。
我を離れられない人間にとっては真我を認める
マハルシの教えにひかれることだろう。
我々は無常を知っているから永遠な自分にひかれるのである。
だが理解しておかなければならない、永遠なる自分を
求めるのは自我なのである。
永遠なるものは自我を捨てて始めて成立する。
我々は一度死ななければ永遠は無いのであるが
自我が永遠を求める時自我の死はありえない。
それが真我探求の難しさである。
マハルシも死の恐怖の体験の後に真我を実現している。
この死の恐怖の体験が自我の死なのである。
ラマナ・マハルシも自我が消えた時真我があると言っている。
バグワン・シュリ・ラジニーシもあなたが一度死ななければ
何も得られないと言っている。
結局何が大事なのか一度死ぬことである。
特に初期の仏教では死ぬ方法だけ説いて死後は涅槃とだけ表した。
死と言っても生きながら死ぬ自我の死である。
このように仏教を表すと怒る人もいると思うので一言付け足しておく
生きながら死ぬとは怠らず今を生きることである。
一度全てを捨てることが大事なのである。
その先に何があるかを説くことは又それに期待しすがり付くことになる
真我を期待するものは真我にすがり付く、真我にすがり付く限り
真我は実現できないのである。
現代は我が強い人間が多いから我が強い人は自我の永遠を求めるのであるが
自我の永遠はありえないのである。
また永遠の真我があるなら自我を捨てても良いと考えるが
それは捨てていないのである。
捨てたくないから真我を求めているのである。
仏教はそのことを踏まえ永遠なるものを否定しているのである。
実際、真我は実在だが実在とも異なるのである。
有ると言えるものでも無いと言える物でもないのだよ!
相対の世界を超えているため有るとか無いとか言えるものではない
仏教ではこれをすがり付くことを無くすため無いとした
実際、真我とは無なのである。
無は全てを内に秘めているのであるが、無は無である。
これを有るとした場合得る物となってしまう。
真我は得るものではない捨てた後に残るものである。
真我を求めるものは真我を得ることは出来ない
自身を捨てることが無いからである。
仏教は誰でも真我を得る方法を説いているだが自身を捨てたくないものは
仏道を進むことが出来ない。
自身を捨てることが出来ない者の為に説かれているのが密教である
密教はラマナ・マハルシの教えを含んでいて誰でも進める道として説いている。
密教の両部曼荼羅の胎蔵界曼荼羅は現象世界を表し
金剛界曼荼羅は永遠なる真理と真理に至る道を表している。
言葉は異なるが永遠なる仏を表し至る道と真理にいたる為の
世界のとらえ方まで表している。
仏教とは相対を超えた無を無いと取らなくてはわたしを捨てることが
出来ないため意味を持たない真我(無)があると言ったのでは
仏教は道にならないのである。
密教はわたしを捨てられない人のためにある
相対を超えた無を金剛界曼荼羅の大日如来で表す
だからわたしを捨てられない
これは密教だけではなく大乗仏教全てにいえることだが
だから
我々はそのまま仏であると言う方法でわたしを捨てさせようとするのである。
ラマナ・マハルシの教えは飛躍的に方法を使わずわたしを
捨てることが出来る人のためにある。
神教は神のためなら自分を捨てられる人のためにある。
仏教は理法に従えば自分を捨てることが出来る人のためにある。
大乗仏教、特に密教とわたしの語ることは他の教えでは如何してもわたしを
捨てることが出来ない残った人のために有るのである
ラマナ・マハルシの教えは直接てきであるが
飛躍的に直接進める人間は極わずかである。
仏教は今いる所から彼岸までの道を説いている。
自分に合う方法を見つけることが大事なのである
わたしを方法を使わず捨てることが出来ない人が
ラマナ・マハルシの教えに従っても永遠に真我は実現できないのである
問題はわたしを捨てることが出来ない人ほど真我にひかれることである
しがみ付く真我が説かれているからである。
何故真我にひかれるのか理由に気付くことが必要なのである。
自我にしがみ付く人ほど真我にひかれるのである。
自身の永遠を求めること自体自身を捨てる準備が出来ていないことを
表すのである。自身の永遠を求めながら自分を
捨てることが出来るのだあろうか?
そもそも自身を捨てる準備が出来ているなら永遠の真我を求めるだろうか。
永遠のものが説かれている教えにひかれるのは
自分を捨てたくないからである。
自身を捨てる準備が整うとは無になることを承知で自身を投げ出す
ことであり、自身の永遠を求めて自身を捨てることは出来ないのである。
そもそもそれでは捨てていないのである。
このことを知ると言うことは自身を捨てることが出来なくなったことを
表すのである。
たとえこれから無になる覚悟で自身を捨てようとしても
その先に永遠があると期待している限り自身を捨ててはいない
ことになるのであるから。
だから特に初期の仏教では実態を認めないのである。
実態を認めればわたしを捨てることの出来ない人ばかり
集まってしまい意味が無いからである。
我々は今立っている所から進まず飛躍的に直接
彼岸に到達できる人間は少ないだから道を必要とするのである。
この道は道なき道である彼岸に到着したときは我々は一歩として
動いていなかったことに気づくのである。
我々はどの道を進もうとわたしを捨てなければ何一つ
手に入れることは出来ないのである。
わたしが語ることは大乗仏教に近くその中でも密教と同じものである。
欲も煩悩もそのまま仏の姿だと語る世界に苦しみがあるのは苦しみが
人間に必要だからでありそのまま神仏の現れである
苦しみは無常を知り覚醒のみとを進むために有るのである。
人間は苦しむほど神仏に近づくのである。
苦しみは仏の慈悲でありまた神の試練なのである。
苦しみが少ない世界は今の人間では神仏に遠い世界だと
言うことなのである。
わたしは語る。人間が覚醒の道を求める条件が無常であり
無常を知ることが苦しみが縁である限り、
人間には世界には苦しみは無くならないのである。
わたしは今実験をしている無常を苦以外の方法で知ることが出来ないか
我々には自由がないということを知ることが出来れば無常を苦しみ以外で
知ることが出来るのでだる。
今の人は自由が無いことを苦しみに勝る苦しみと感じるからである。
これがもし出来るのであれば人間には世界には苦しみは消え去るのである。
我々が自由に行為しているのでないことは真実である。
衆縁和合とはいかなるものごとも独立して存在するのではなく、
それぞれの原因と条件が相互に依存しあって存在している
すべては絡み合って成り立っている。これが縁起である。
宇宙の一切は精神作用を含み近くのものから遠くのものへ
互いに影響を与え合いつながって全体として動いているのである。
また宇宙の一切は縁で成立している。
何かがあるから何かがあり何かが無ければ何かも無いと言うように
個として独立して存在しているものは存在していないのである。
この何処にも個人は存在せず、個人が無ければ個人性に属する
自由と言うものも存在していないのである。
この世界は感覚器官がさし締める個人があると言う錯覚で自我が作られ
自我は利己的であるから個人と個人は時として対立し苦しみを与え合う
不調和の世界を築きあげているが、実はこの苦しみは無常を知るために
有るのであり、無常は覚醒の道に進むために有るのであり
実は苦しみを与え合うこの世界はこのまま仏の世界ののでらる。
だからマハラジは世界は完全だと言ったのである。
だからラマナシは真我を実現してみなさい実現した後に
この世界になにか問題があるか観てみなさいと言ったのである。
わたしが語ることで無常を感じ覚醒の道を進む人が
人口に対してある割合を超えない場合は世界は
苦しみに満ち溢れ続けるのである。
苦しみが覚醒のみとを求める唯一の道であり続けるからである。
実質的にはマハルシの教えと仏教は同じものだが
異なると言われば方法が異なるのは事実である。
我を離れられない人間にとっては真我を認める
マハルシの教えにひかれることだろう。
我々は無常を知っているから永遠な自分にひかれるのである。
だが理解しておかなければならない、永遠なる自分を
求めるのは自我なのである。
永遠なるものは自我を捨てて始めて成立する。
我々は一度死ななければ永遠は無いのであるが
自我が永遠を求める時自我の死はありえない。
それが真我探求の難しさである。
マハルシも死の恐怖の体験の後に真我を実現している。
この死の恐怖の体験が自我の死なのである。
ラマナ・マハルシも自我が消えた時真我があると言っている。
バグワン・シュリ・ラジニーシもあなたが一度死ななければ
何も得られないと言っている。
結局何が大事なのか一度死ぬことである。
特に初期の仏教では死ぬ方法だけ説いて死後は涅槃とだけ表した。
死と言っても生きながら死ぬ自我の死である。
このように仏教を表すと怒る人もいると思うので一言付け足しておく
生きながら死ぬとは怠らず今を生きることである。
一度全てを捨てることが大事なのである。
その先に何があるかを説くことは又それに期待しすがり付くことになる
真我を期待するものは真我にすがり付く、真我にすがり付く限り
真我は実現できないのである。
現代は我が強い人間が多いから我が強い人は自我の永遠を求めるのであるが
自我の永遠はありえないのである。
また永遠の真我があるなら自我を捨てても良いと考えるが
それは捨てていないのである。
捨てたくないから真我を求めているのである。
仏教はそのことを踏まえ永遠なるものを否定しているのである。
実際、真我は実在だが実在とも異なるのである。
有ると言えるものでも無いと言える物でもないのだよ!
相対の世界を超えているため有るとか無いとか言えるものではない
仏教ではこれをすがり付くことを無くすため無いとした
実際、真我とは無なのである。
無は全てを内に秘めているのであるが、無は無である。
これを有るとした場合得る物となってしまう。
真我は得るものではない捨てた後に残るものである。
真我を求めるものは真我を得ることは出来ない
自身を捨てることが無いからである。
仏教は誰でも真我を得る方法を説いているだが自身を捨てたくないものは
仏道を進むことが出来ない。
自身を捨てることが出来ない者の為に説かれているのが密教である
密教はラマナ・マハルシの教えを含んでいて誰でも進める道として説いている。
密教の両部曼荼羅の胎蔵界曼荼羅は現象世界を表し
金剛界曼荼羅は永遠なる真理と真理に至る道を表している。
言葉は異なるが永遠なる仏を表し至る道と真理にいたる為の
世界のとらえ方まで表している。
仏教とは相対を超えた無を無いと取らなくてはわたしを捨てることが
出来ないため意味を持たない真我(無)があると言ったのでは
仏教は道にならないのである。
密教はわたしを捨てられない人のためにある
相対を超えた無を金剛界曼荼羅の大日如来で表す
だからわたしを捨てられない
これは密教だけではなく大乗仏教全てにいえることだが
だから
我々はそのまま仏であると言う方法でわたしを捨てさせようとするのである。
ラマナ・マハルシの教えは飛躍的に方法を使わずわたしを
捨てることが出来る人のためにある。
神教は神のためなら自分を捨てられる人のためにある。
仏教は理法に従えば自分を捨てることが出来る人のためにある。
大乗仏教、特に密教とわたしの語ることは他の教えでは如何してもわたしを
捨てることが出来ない残った人のために有るのである
ラマナ・マハルシの教えは直接てきであるが
飛躍的に直接進める人間は極わずかである。
仏教は今いる所から彼岸までの道を説いている。
自分に合う方法を見つけることが大事なのである
わたしを方法を使わず捨てることが出来ない人が
ラマナ・マハルシの教えに従っても永遠に真我は実現できないのである
問題はわたしを捨てることが出来ない人ほど真我にひかれることである
しがみ付く真我が説かれているからである。
何故真我にひかれるのか理由に気付くことが必要なのである。
自我にしがみ付く人ほど真我にひかれるのである。
自身の永遠を求めること自体自身を捨てる準備が出来ていないことを
表すのである。自身の永遠を求めながら自分を
捨てることが出来るのだあろうか?
そもそも自身を捨てる準備が出来ているなら永遠の真我を求めるだろうか。
永遠のものが説かれている教えにひかれるのは
自分を捨てたくないからである。
自身を捨てる準備が整うとは無になることを承知で自身を投げ出す
ことであり、自身の永遠を求めて自身を捨てることは出来ないのである。
そもそもそれでは捨てていないのである。
このことを知ると言うことは自身を捨てることが出来なくなったことを
表すのである。
たとえこれから無になる覚悟で自身を捨てようとしても
その先に永遠があると期待している限り自身を捨ててはいない
ことになるのであるから。
だから特に初期の仏教では実態を認めないのである。
実態を認めればわたしを捨てることの出来ない人ばかり
集まってしまい意味が無いからである。
我々は今立っている所から進まず飛躍的に直接
彼岸に到達できる人間は少ないだから道を必要とするのである。
この道は道なき道である彼岸に到着したときは我々は一歩として
動いていなかったことに気づくのである。
我々はどの道を進もうとわたしを捨てなければ何一つ
手に入れることは出来ないのである。
わたしが語ることは大乗仏教に近くその中でも密教と同じものである。
欲も煩悩もそのまま仏の姿だと語る世界に苦しみがあるのは苦しみが
人間に必要だからでありそのまま神仏の現れである
苦しみは無常を知り覚醒のみとを進むために有るのである。
人間は苦しむほど神仏に近づくのである。
苦しみは仏の慈悲でありまた神の試練なのである。
苦しみが少ない世界は今の人間では神仏に遠い世界だと
言うことなのである。
わたしは語る。人間が覚醒の道を求める条件が無常であり
無常を知ることが苦しみが縁である限り、
人間には世界には苦しみは無くならないのである。
わたしは今実験をしている無常を苦以外の方法で知ることが出来ないか
我々には自由がないということを知ることが出来れば無常を苦しみ以外で
知ることが出来るのでだる。
今の人は自由が無いことを苦しみに勝る苦しみと感じるからである。
これがもし出来るのであれば人間には世界には苦しみは消え去るのである。
我々が自由に行為しているのでないことは真実である。
衆縁和合とはいかなるものごとも独立して存在するのではなく、
それぞれの原因と条件が相互に依存しあって存在している
すべては絡み合って成り立っている。これが縁起である。
宇宙の一切は精神作用を含み近くのものから遠くのものへ
互いに影響を与え合いつながって全体として動いているのである。
また宇宙の一切は縁で成立している。
何かがあるから何かがあり何かが無ければ何かも無いと言うように
個として独立して存在しているものは存在していないのである。
この何処にも個人は存在せず、個人が無ければ個人性に属する
自由と言うものも存在していないのである。
この世界は感覚器官がさし締める個人があると言う錯覚で自我が作られ
自我は利己的であるから個人と個人は時として対立し苦しみを与え合う
不調和の世界を築きあげているが、実はこの苦しみは無常を知るために
有るのであり、無常は覚醒の道に進むために有るのであり
実は苦しみを与え合うこの世界はこのまま仏の世界ののでらる。
だからマハラジは世界は完全だと言ったのである。
だからラマナシは真我を実現してみなさい実現した後に
この世界になにか問題があるか観てみなさいと言ったのである。
わたしが語ることで無常を感じ覚醒の道を進む人が
人口に対してある割合を超えない場合は世界は
苦しみに満ち溢れ続けるのである。
苦しみが覚醒のみとを求める唯一の道であり続けるからである。
2011/08/09
10:24:33
無明(無知)と罪
わたしはこの世に悪もないし罪も無いと言うが
何時もと又異なるとらえ方で悪と罪に付いて語ってみる。
人が如何して人であるのか無明(無知)だからである
人間の根源は完全な知識である。
知識であるが完全な知識である故に無知(無明)なのである。
全てが一つだからである。
全てが一つの者を言葉にすら表すことができない。
全ての対極的物が一つである時一体なんて呼べばよいのだろう。
悪と善、無と有、、過去と未来、全ての対極が含まれる者なのである。
言葉は分けるものであり分けられない者を呼ぶことが出来ない。
言葉で表す以外の物なのである。
この一なる者は全てを含む完全な者である故に知ることが出来ないもの
無明(無知)であるのである。
この無明、無知が全ての初めのない始まりである。
では無明(無知)は悪だろうか罪だろうか
完全である故に知ることが出来ないものが罪であるのだろうか。
これが罪なら神仏は罪で出来ていることになる。
世界は罪で出来ていることになる。
知ることが出来ないことは、知らないことは罪ではない。
只知らないだけである。誰の責任でもない。
では無明(無知)により現れる様々な欲望が罪であろうか。
原因が無明(無知)であり、無明は清らかなものであるから
清らかな無明(無知)から現れた欲望も罪ではなく
清らかな物である。
では様々な欲望から行われる罪、悪は如何であろうか。
清らかな無明(無知)から現れた様々な欲望は原因が
清らかである故に欲望も清らかである。
清らかな欲望から現れた罪も悪も原因が清らかである故に
清らかなのである。
全ては無明(無知)から現れたものであり、無明(無知)が
清らかな以上全ては清らかなのである。
例えば弱肉強食の自然界を観てごらん残酷この上ないが
罪でも悪でも舞いようにである。
例えば目の見えない人が誰かにぶつかった場合目の見えない人の
罪でも悪でもないようにである。
例えば赤子が行うことが罪でも悪でもないようにである。
人間は賢いと言う前提で罪や悪がありえるのである。
だが真実は人間は無明(無知)おおわれているのである。
人間の行う罪や悪は何も知らないから行われるのである。
何も知らないことは誰の罪でも悪でもない。
人間が行う如何なることも無明(無知)によるものなのだから
そこに罪や悪というものは存在しないのである。
悪だ罪だと裁く人も無知(無明)により行っているのだから
何処にも罪も悪も無いのである。
動物が作る弱肉強食の世界が残酷性を含んでいるが純粋であるように
人間の作る社会も残酷性を含んでいるが純粋なのである。
だから真理の世界も純粋なのである。
純粋な真理の現れの世界が純粋で無いはずは無いのである。
もし聖なる存在が人間と同じことを行えばそれが罪であり
悪なのである。知って行われることが罪であり悪なのである。
だが聖なる存在は罪を悪を行いようが無いのである
無明(無知)から現れた罪を行う原因の自我が無いからである。
智慧があれば罪は行えないのである。
罪は全て無知(無明)により行われるのである。
無知(無明)は根源的なものであり。
誰かの責任では無いのである。
だからこの世に罪は悪は存在しないのである。
無知(無明)なる人間にだけ罪や悪は有る様に見えるのである。
人間とわたしが呼ぶものは人と言う野生の動物に過ぎないのである。
野生の動物が苦しめあうことの何処に罪や悪があると言うのだろか。
人間の根源の無明(無知)は純粋なものであり。
純粋な無明(無知)から現れる如何なることも純粋なのである。
だから全ての人は救われなくてはならないのである。
そこに罪人も善人も差別は無いのである。
罪人も善人も無明(無知)から現れる。
完全な存在は罪人でも善人でも無いのであるから。
人間が我々は賢いと思っていることが動物とは異なると思っていることが
自然とは異なると思っていることが無知である証拠なのである。
この宇宙には人間を含めて自然以外の何物も無いのである。
人間は野生の動物だから人間が作る社会も動物の世界と同じ
弱肉強食の社会なのである。
社会だけではなく人間のつながりの全てが弱肉強食の原理で
成り立っているのである
だから相手と状況で対応が変わるのである。
自身の実力と努力でえる分配方法が公平な分配であるなんて
愚かである。自分の実力と努力と言うものが一体何処に
あると言うのだろうか全ては衆縁和合している。
実力のある者も努力が出来るものも出来ないものも
公平に分配するこれが公平と言うものなのである。
悟りでさえ実力と努力では決して得られないのである。
世界は衆縁和合していて個人が無い以上実力とか努力とか自由意志とか
と言う個人に属するものは一切無いからである。
無明(無知)を光明により滅ぼした完全なる存在は、
人間以外の何かなのである。
全てを含む上に全てを明らかにする光明を発しているのである。
-------------------------------------------------------------
・一言
求めれば道に反するが、求めなくては得られない。
道を歩くとは、食べるのを止める為に食べるようなものである。
捨てて捨てて捨てきる終に対象が無くなった時始めてわたしを知る。
無常は永遠であり、永遠は無常である。
全ての初め、無明が純粋であれば全ては純粋である。
煩悩を無くそうとすることが煩悩なのである。
有るにこだわる者は執着し無いにこだわる者は知ることが出来ない。
無は有るであり有るは無であり無限は点であり点は無限である。
即人即仏、即世界即仏。
仏を生み出し続ける世界は仏の子宮である。
道を歩き続ける者の道は終点を知らず何処にも着かない。
歩くことが道を作り続けるからである。
道を歩けば道に背く歩かなければ得られない。
又の間から後ろを逆さまに見てごらん真実の世界が見えるよ。
正しい道は常に逆にある。
神仏を如何して探すのかねそのままのあなたが神仏であると言うのに。
無明(無知)により何かが足りないと言う想いが煩悩を生み出すのである。
悟りとは知ると成るの二つであり一つである。
悟りとは閉じた状態ではない三百六十度円状に心を開いた受動的状態である。
知識は分別、知恵はつなぐもの。
原因には原因があり何処まで言っても本源を知ることが出来ない縁起の
世界は初めと終わりが無い。現実と呼ぶ世界は何と非現実的なのだろうか。
怒りも苦しみも自身の無知から現れる誰かから与えられたものではない。
泣いていても笑っていても決して影響を受けない寂静な中心点がある
この壊れることの無い寂静を捉え続けていることがサマディである。
わたしはこの世に悪もないし罪も無いと言うが
何時もと又異なるとらえ方で悪と罪に付いて語ってみる。
人が如何して人であるのか無明(無知)だからである
人間の根源は完全な知識である。
知識であるが完全な知識である故に無知(無明)なのである。
全てが一つだからである。
全てが一つの者を言葉にすら表すことができない。
全ての対極的物が一つである時一体なんて呼べばよいのだろう。
悪と善、無と有、、過去と未来、全ての対極が含まれる者なのである。
言葉は分けるものであり分けられない者を呼ぶことが出来ない。
言葉で表す以外の物なのである。
この一なる者は全てを含む完全な者である故に知ることが出来ないもの
無明(無知)であるのである。
この無明、無知が全ての初めのない始まりである。
では無明(無知)は悪だろうか罪だろうか
完全である故に知ることが出来ないものが罪であるのだろうか。
これが罪なら神仏は罪で出来ていることになる。
世界は罪で出来ていることになる。
知ることが出来ないことは、知らないことは罪ではない。
只知らないだけである。誰の責任でもない。
では無明(無知)により現れる様々な欲望が罪であろうか。
原因が無明(無知)であり、無明は清らかなものであるから
清らかな無明(無知)から現れた欲望も罪ではなく
清らかな物である。
では様々な欲望から行われる罪、悪は如何であろうか。
清らかな無明(無知)から現れた様々な欲望は原因が
清らかである故に欲望も清らかである。
清らかな欲望から現れた罪も悪も原因が清らかである故に
清らかなのである。
全ては無明(無知)から現れたものであり、無明(無知)が
清らかな以上全ては清らかなのである。
例えば弱肉強食の自然界を観てごらん残酷この上ないが
罪でも悪でも舞いようにである。
例えば目の見えない人が誰かにぶつかった場合目の見えない人の
罪でも悪でもないようにである。
例えば赤子が行うことが罪でも悪でもないようにである。
人間は賢いと言う前提で罪や悪がありえるのである。
だが真実は人間は無明(無知)おおわれているのである。
人間の行う罪や悪は何も知らないから行われるのである。
何も知らないことは誰の罪でも悪でもない。
人間が行う如何なることも無明(無知)によるものなのだから
そこに罪や悪というものは存在しないのである。
悪だ罪だと裁く人も無知(無明)により行っているのだから
何処にも罪も悪も無いのである。
動物が作る弱肉強食の世界が残酷性を含んでいるが純粋であるように
人間の作る社会も残酷性を含んでいるが純粋なのである。
だから真理の世界も純粋なのである。
純粋な真理の現れの世界が純粋で無いはずは無いのである。
もし聖なる存在が人間と同じことを行えばそれが罪であり
悪なのである。知って行われることが罪であり悪なのである。
だが聖なる存在は罪を悪を行いようが無いのである
無明(無知)から現れた罪を行う原因の自我が無いからである。
智慧があれば罪は行えないのである。
罪は全て無知(無明)により行われるのである。
無知(無明)は根源的なものであり。
誰かの責任では無いのである。
だからこの世に罪は悪は存在しないのである。
無知(無明)なる人間にだけ罪や悪は有る様に見えるのである。
人間とわたしが呼ぶものは人と言う野生の動物に過ぎないのである。
野生の動物が苦しめあうことの何処に罪や悪があると言うのだろか。
人間の根源の無明(無知)は純粋なものであり。
純粋な無明(無知)から現れる如何なることも純粋なのである。
だから全ての人は救われなくてはならないのである。
そこに罪人も善人も差別は無いのである。
罪人も善人も無明(無知)から現れる。
完全な存在は罪人でも善人でも無いのであるから。
人間が我々は賢いと思っていることが動物とは異なると思っていることが
自然とは異なると思っていることが無知である証拠なのである。
この宇宙には人間を含めて自然以外の何物も無いのである。
人間は野生の動物だから人間が作る社会も動物の世界と同じ
弱肉強食の社会なのである。
社会だけではなく人間のつながりの全てが弱肉強食の原理で
成り立っているのである
だから相手と状況で対応が変わるのである。
自身の実力と努力でえる分配方法が公平な分配であるなんて
愚かである。自分の実力と努力と言うものが一体何処に
あると言うのだろうか全ては衆縁和合している。
実力のある者も努力が出来るものも出来ないものも
公平に分配するこれが公平と言うものなのである。
悟りでさえ実力と努力では決して得られないのである。
世界は衆縁和合していて個人が無い以上実力とか努力とか自由意志とか
と言う個人に属するものは一切無いからである。
無明(無知)を光明により滅ぼした完全なる存在は、
人間以外の何かなのである。
全てを含む上に全てを明らかにする光明を発しているのである。
-------------------------------------------------------------
・一言
求めれば道に反するが、求めなくては得られない。
道を歩くとは、食べるのを止める為に食べるようなものである。
捨てて捨てて捨てきる終に対象が無くなった時始めてわたしを知る。
無常は永遠であり、永遠は無常である。
全ての初め、無明が純粋であれば全ては純粋である。
煩悩を無くそうとすることが煩悩なのである。
有るにこだわる者は執着し無いにこだわる者は知ることが出来ない。
無は有るであり有るは無であり無限は点であり点は無限である。
即人即仏、即世界即仏。
仏を生み出し続ける世界は仏の子宮である。
道を歩き続ける者の道は終点を知らず何処にも着かない。
歩くことが道を作り続けるからである。
道を歩けば道に背く歩かなければ得られない。
又の間から後ろを逆さまに見てごらん真実の世界が見えるよ。
正しい道は常に逆にある。
神仏を如何して探すのかねそのままのあなたが神仏であると言うのに。
無明(無知)により何かが足りないと言う想いが煩悩を生み出すのである。
悟りとは知ると成るの二つであり一つである。
悟りとは閉じた状態ではない三百六十度円状に心を開いた受動的状態である。
知識は分別、知恵はつなぐもの。
原因には原因があり何処まで言っても本源を知ることが出来ない縁起の
世界は初めと終わりが無い。現実と呼ぶ世界は何と非現実的なのだろうか。
怒りも苦しみも自身の無知から現れる誰かから与えられたものではない。
泣いていても笑っていても決して影響を受けない寂静な中心点がある
この壊れることの無い寂静を捉え続けていることがサマディである。
2011/09/01
10:08:50
怒りを無くす・無知
不満や怒りについて何度の語っているが今回は又違った
方向から怒りの無くし方について語る。
もし我々が棒で叩かれたら、直接の原因である棒を怒らず、
棒で殴った人、棒を使った人を怒る。
直接の原因である棒を怒らずそれを操作した人を怒るのであれば、
その棒を操作した人は、怒りに操作されたのだから、
怒りを怒るべきであるが、その怒りも無知(無明)に操作されたのであり、
棒で殴ったのは根本原因の無知(無明)のせいであるから、
無知(無明)を怒るべきである。
また棒で殴られあじわった痛みは、苦しみは、自身の過去の行いの
報いであるのだから、自分の過去の行いを怒ればよいが、
自分の過去の過ちの根本原因は無知(無明)であるからであるから
自分の無知(無明)を怒ればよい。
相手に怒りをぶつける場合でも、自身に怒りをぶつける場合でも、
どちらにしても無知(無明)が対象である。
無知(無明)とは全ての根源の問題であり、誰にも責任は無くまた
不純な物ではない、純粋な物、清らかな物である。
これにどうやって怒りをぶつけられるのだろうか。
何も知らない生まれたての赤ん坊を怒るような物である。
この道理が血となり肉となったらおのずと怒りは起こらなくなる。
智慧があれば、怒りは現れず。
無知(無明)であれば怒りは現れる。
だから怒りは無知(無明)から現れているのである。
怒るとは自らの過去の行いの報いを人のせいにして、怒り行為し
次の怒りの原因を自ら作り出す。
その又報いが訪れたら、また怒りをあらわにして行為し又次の
怒りの元である因を作り続けるのである。
智慧のある者はこのような無限のループから抜け出す。
怒りをぶつけることで新たな因を作る。馬鹿げてい無いかね。
いずれにしても怒りをあらわにするとは、わたしは無知(無明)ですと
大声で叫んでいるに等しいのである。
怒りも不満も悲しみも寂しさも空しさも喜びも一切がっさいの物は誰かから
与えられるような物ではない。
全ては自らから生まれるのである。
何一つとして誰かのせいに出来る物はないのである。
全ては自らを原因としているのである。
怒りも悲しみも喜びも自らの無知(無明)より現れるのである。
例えばコップ一杯の水を飲まされた時、のどがかわいている人は喜び
水を思いっきり飲んだばかりでもう沢山な人は苦しみとなりえるのである。
自分の状態により、自分の受け取り方により全ては苦にも楽にもなるのである。
その現象を自分がどの様に理解したかで全ての現象は苦にも楽にも
成り得るのである。悟りにより、苦が消え去るのは受け取り方の
違いなのであって、無知(無明)な人は自分勝手な受け取り方しか
出来ないから苦があるのである。
苦とは怒りとはその現象を自らがどの様に理解できたかにより現れたり
現れん無かったりすると言う自分の受け取り方に依存するのであり
誰かのせいで苦を不満を空しさを感じたのではないのである。
全ては自身より現れるのである。
一段高い境地から言えば、我々は誰か他人に怒りを
ぶつけていると思っているが自我と身体と言う洋服を脱げば、
我々には自他は無いのである。
自他を超越した者、在るのか無いのかを超越し、全てを含む無でありながら
自身の存在をはっきりと意識している、何にも依存せず存在している者
この全てを含み一である存在こそが我々であり唯一個人と言える。
この者こそが我々であり、他人が無いのであるから
誰かに怒りをぶつけると言うことは、自身に怒りをぶつけているのであり
怒りなど現れるはずもないのである。
目覚めた人は、誰かを見るとき自我と身体を見てはい無いのである。
自我と身体と言う洋服を脱ぎ去った後に現れる無で在りながら
全てを見ている無依の真の人、その人を見ているのでありる。
怒りが現れた時、相手の自我と身体を脱がせ自身と一体な者を
見てごらん。見ることが出来れば、怒りどころか、苦しみの中でも
がんばって欲しいと言う気持ちが湧き上がる。
この同情する心が慈悲であり、与えるだけの愛なのである
一切の生あるもは無知(無明)を光明(智慧)で根こそぎ
生滅させなければならないのである。
依存せず存在し続ける者、生死を超えた存在、一度手に入れたら
永遠に失うことの無いもの。
喜びでできており、その姿は沈黙である者
自身から光明を発し全てをあらわに映し出す者
客体を自己と勘違いをするのをやめ
常に主体である者、この者を見出すことが必要なのである。
究極の境地からすると、この世界は何事も起きてはい無い
実体は無く空であり空である実体も無い無であり
全てに心が作り出す夢のような物であるが、
無であるからこそ空でありまた存在なのである。
この究極は一切を救済しながら執着を起こさない。
全ての執着を切捨てて、しかも積極的に行為するために必要なのである。
色即是空と知って全ての執着を捨て去り。
空即是色と知って無上の慈悲の心を起こすことを、
真理に求められるのである。
積極的行為と無執着は矛盾するが、どちらも必要なのである。
対極的な矛盾する極をどちらも生かすこと、陰と陽の共存が悟りである。
不満や怒りについて何度の語っているが今回は又違った
方向から怒りの無くし方について語る。
もし我々が棒で叩かれたら、直接の原因である棒を怒らず、
棒で殴った人、棒を使った人を怒る。
直接の原因である棒を怒らずそれを操作した人を怒るのであれば、
その棒を操作した人は、怒りに操作されたのだから、
怒りを怒るべきであるが、その怒りも無知(無明)に操作されたのであり、
棒で殴ったのは根本原因の無知(無明)のせいであるから、
無知(無明)を怒るべきである。
また棒で殴られあじわった痛みは、苦しみは、自身の過去の行いの
報いであるのだから、自分の過去の行いを怒ればよいが、
自分の過去の過ちの根本原因は無知(無明)であるからであるから
自分の無知(無明)を怒ればよい。
相手に怒りをぶつける場合でも、自身に怒りをぶつける場合でも、
どちらにしても無知(無明)が対象である。
無知(無明)とは全ての根源の問題であり、誰にも責任は無くまた
不純な物ではない、純粋な物、清らかな物である。
これにどうやって怒りをぶつけられるのだろうか。
何も知らない生まれたての赤ん坊を怒るような物である。
この道理が血となり肉となったらおのずと怒りは起こらなくなる。
智慧があれば、怒りは現れず。
無知(無明)であれば怒りは現れる。
だから怒りは無知(無明)から現れているのである。
怒るとは自らの過去の行いの報いを人のせいにして、怒り行為し
次の怒りの原因を自ら作り出す。
その又報いが訪れたら、また怒りをあらわにして行為し又次の
怒りの元である因を作り続けるのである。
智慧のある者はこのような無限のループから抜け出す。
怒りをぶつけることで新たな因を作る。馬鹿げてい無いかね。
いずれにしても怒りをあらわにするとは、わたしは無知(無明)ですと
大声で叫んでいるに等しいのである。
怒りも不満も悲しみも寂しさも空しさも喜びも一切がっさいの物は誰かから
与えられるような物ではない。
全ては自らから生まれるのである。
何一つとして誰かのせいに出来る物はないのである。
全ては自らを原因としているのである。
怒りも悲しみも喜びも自らの無知(無明)より現れるのである。
例えばコップ一杯の水を飲まされた時、のどがかわいている人は喜び
水を思いっきり飲んだばかりでもう沢山な人は苦しみとなりえるのである。
自分の状態により、自分の受け取り方により全ては苦にも楽にもなるのである。
その現象を自分がどの様に理解したかで全ての現象は苦にも楽にも
成り得るのである。悟りにより、苦が消え去るのは受け取り方の
違いなのであって、無知(無明)な人は自分勝手な受け取り方しか
出来ないから苦があるのである。
苦とは怒りとはその現象を自らがどの様に理解できたかにより現れたり
現れん無かったりすると言う自分の受け取り方に依存するのであり
誰かのせいで苦を不満を空しさを感じたのではないのである。
全ては自身より現れるのである。
一段高い境地から言えば、我々は誰か他人に怒りを
ぶつけていると思っているが自我と身体と言う洋服を脱げば、
我々には自他は無いのである。
自他を超越した者、在るのか無いのかを超越し、全てを含む無でありながら
自身の存在をはっきりと意識している、何にも依存せず存在している者
この全てを含み一である存在こそが我々であり唯一個人と言える。
この者こそが我々であり、他人が無いのであるから
誰かに怒りをぶつけると言うことは、自身に怒りをぶつけているのであり
怒りなど現れるはずもないのである。
目覚めた人は、誰かを見るとき自我と身体を見てはい無いのである。
自我と身体と言う洋服を脱ぎ去った後に現れる無で在りながら
全てを見ている無依の真の人、その人を見ているのでありる。
怒りが現れた時、相手の自我と身体を脱がせ自身と一体な者を
見てごらん。見ることが出来れば、怒りどころか、苦しみの中でも
がんばって欲しいと言う気持ちが湧き上がる。
この同情する心が慈悲であり、与えるだけの愛なのである
一切の生あるもは無知(無明)を光明(智慧)で根こそぎ
生滅させなければならないのである。
依存せず存在し続ける者、生死を超えた存在、一度手に入れたら
永遠に失うことの無いもの。
喜びでできており、その姿は沈黙である者
自身から光明を発し全てをあらわに映し出す者
客体を自己と勘違いをするのをやめ
常に主体である者、この者を見出すことが必要なのである。
究極の境地からすると、この世界は何事も起きてはい無い
実体は無く空であり空である実体も無い無であり
全てに心が作り出す夢のような物であるが、
無であるからこそ空でありまた存在なのである。
この究極は一切を救済しながら執着を起こさない。
全ての執着を切捨てて、しかも積極的に行為するために必要なのである。
色即是空と知って全ての執着を捨て去り。
空即是色と知って無上の慈悲の心を起こすことを、
真理に求められるのである。
積極的行為と無執着は矛盾するが、どちらも必要なのである。
対極的な矛盾する極をどちらも生かすこと、陰と陽の共存が悟りである。
2011/09/01
11:41:29
無依なる真の人
計り知れないほどの手練を積み、全ての経典を暗記したとしても
その人の心が外に向かっているのであれば、何一つの
功徳も得られない。
計り知れないほどの生きとし生ける者を救済したとしても
その人の心が外に向かっているのであれば、何一つ
得られるものは無い。
どんなに愛情深く、どんなに慈悲深くてもその人の心が
外に向かっているのであれば何一つ得られるようなものは無い。
宇宙を埋めつくすほどの功徳を積んでも、その人の心が
外に向いているのであれば何一つ手に入れることはできない。
どんなに罪深く罪を重ねていて、経典の経の字も知らず、
法も知らず、智慧がなくても、その人の心が外に向かうのをやめ
内側にとどまるなら。罪により地獄に落ちることも罪の償いをすることも無く、
この人は一切を得る。
それは何故かというと、この世では何一つ手に入れることはできず、
手に入れると言うことは手に入れることを、やめることだと、
説かれているからである。
また手に入れるのをやめると言うことはあるがままを受け入れ、
あるがままに感謝することである。それは何故かと言うと、
やめることも手に入れようとすることだと、
また説かれているからである。
覚醒の道とは自己を学ぶ道である。
自己を学ぶとは主体を見つけ出すということである。
上で書いたように、どんなに善をつくしても
どんなに功徳を積んでも。
どんなに慈悲深くなったとしても。
心が外に向いているなら何の意味もないのである。
ただの精神的、遊びとしか言いようが無い。
それは如何してかと言うと、全ての経典はこの世では何も
手に入れることが出来ないと語り、全てを捨て心を外に
向くのをやめさせる為にあるのである。
対象に心を向くのをやめさせ、主体を見出そうと言う物である。
この主体を見い出せないなら教えの意味はないのである。
我々は自分の思いを思考を価値観を身体を見るもしくは知る
ことが出来るが知ることが出来る物は全て自分ではないのである。
知ることが出来る物の一切は対象であり、客体である。
知る主体が我々であり主体は客体にはなれない。
主体を見ることが出来るとすれば、見る自分と見られる自分の
二つの自己があることになってしまう。
常に主体であり、見る者、知る者が我々である。
見たり知ったり出来る物は全て客体であり
対象であり、自己ではないのである。
我々は客体である見ることが出来るものの自我とか身体とかを
主体であると自己であると非我なるものを、自己と見なし
自我に力を与え続けている。
善人も悪人も聖者も主体の着る洋服である。
主体である者には名前も無く形態も無い。
善でも悪でもない。生でも死でもない。
全ての対極を離れている者である。
原因と結果の法則にも左右されない。
原因も無く、何にも依存することなく存在している。
何にも依存していないが故に壊れることが無く、
全一であるが故に動きも無く、変化も無い。
この宇宙の一切はこの主体だけで出来上がっている。
宇宙は実は主体しかないのである。
宇宙に客体は存在していない。
宇宙は全てを含む一なるものであるから、
多であって一なるものなのである。
この全一は無であって有を表し有であって無を離れていない。
心が外に向くことで対象を客体を生み出している。
無い客体を生み出し客体を主体と錯覚している間は
自己を知ることは出来ず。
自己を知らないものは何一つ手に入れることは出来ない。
何を行ってもただの精神的、遊びと言わなくてはならない。
人を救済するとは自己を見出させることである。
自分が自己を知らず一体誰を救済するのであろうか。
目覚めた存在は多くの者を救済しても、誰一人救済していないことを
知っている。救済される者と、救済する者と言う二つの者がい無いことを
知っているからであり、主体しかないから、究極的には世界が無いことを
知っているのである。
外に何かを求めることをやめ、心が内側にとどまる時。
対象が消え、認識する対象が消えるが故に主体も消える
対象も主体も消えた時本物の主が現れる。
本当の主体とは客体と主体を超える者なのである。
わたしは主体を見つけなさいといい続けているが
実は主体と客体とは二元相対の依存してなり立つ物であり、
客体が消え去れば主体も消え去るのである。
その時初めて何にも依存せず存在する主体と客体が溶け合った
一なるものである、主体が姿を現すのである。
主体と言う言葉で表すことも間違っているのだが
言葉で表せば全て嘘になるのであるから主体と言うのである。
この主体は主体と客体が溶け合った者であり、
主体でもなく客体でもない、観照者と呼ばれることがあるが
これが二元性を超え何にも依存せず存在する者であり
だから無依の真の人と呼ぶのである。
我々は初めからそれである。
後から手に入れるようなものではない。
この世では何一つとして手に入れられるようなものは無い
我々は初めから仏であるなのに何故さらに仏になろうとするのか。
仏が仏になる必要は無い。
わたしは初めから仏であると信じるだけでよいのである。
仏であると信じ求めることの一切をやめるだけで良いのである。
外を気に掛けることをやめれば内側で心は静まる。
その心の静まり平常心がサマディである。
そのまま静かに座ってみなさい。
禅をするのではなく、何もしないことが大事である。
何かをすることなく座れた時、客体と主体が消え去る。
その時、我々は自己を知ることになる。
それが出来たら自己を見失うことなく行為することを
おぼえること、すべての行為の中で自己を見失わなくなれば
完成である。それが完全なサマディである。
計り知れないほどの手練を積み、全ての経典を暗記したとしても
その人の心が外に向かっているのであれば、何一つの
功徳も得られない。
計り知れないほどの生きとし生ける者を救済したとしても
その人の心が外に向かっているのであれば、何一つ
得られるものは無い。
どんなに愛情深く、どんなに慈悲深くてもその人の心が
外に向かっているのであれば何一つ得られるようなものは無い。
宇宙を埋めつくすほどの功徳を積んでも、その人の心が
外に向いているのであれば何一つ手に入れることはできない。
どんなに罪深く罪を重ねていて、経典の経の字も知らず、
法も知らず、智慧がなくても、その人の心が外に向かうのをやめ
内側にとどまるなら。罪により地獄に落ちることも罪の償いをすることも無く、
この人は一切を得る。
それは何故かというと、この世では何一つ手に入れることはできず、
手に入れると言うことは手に入れることを、やめることだと、
説かれているからである。
また手に入れるのをやめると言うことはあるがままを受け入れ、
あるがままに感謝することである。それは何故かと言うと、
やめることも手に入れようとすることだと、
また説かれているからである。
覚醒の道とは自己を学ぶ道である。
自己を学ぶとは主体を見つけ出すということである。
上で書いたように、どんなに善をつくしても
どんなに功徳を積んでも。
どんなに慈悲深くなったとしても。
心が外に向いているなら何の意味もないのである。
ただの精神的、遊びとしか言いようが無い。
それは如何してかと言うと、全ての経典はこの世では何も
手に入れることが出来ないと語り、全てを捨て心を外に
向くのをやめさせる為にあるのである。
対象に心を向くのをやめさせ、主体を見出そうと言う物である。
この主体を見い出せないなら教えの意味はないのである。
我々は自分の思いを思考を価値観を身体を見るもしくは知る
ことが出来るが知ることが出来る物は全て自分ではないのである。
知ることが出来る物の一切は対象であり、客体である。
知る主体が我々であり主体は客体にはなれない。
主体を見ることが出来るとすれば、見る自分と見られる自分の
二つの自己があることになってしまう。
常に主体であり、見る者、知る者が我々である。
見たり知ったり出来る物は全て客体であり
対象であり、自己ではないのである。
我々は客体である見ることが出来るものの自我とか身体とかを
主体であると自己であると非我なるものを、自己と見なし
自我に力を与え続けている。
善人も悪人も聖者も主体の着る洋服である。
主体である者には名前も無く形態も無い。
善でも悪でもない。生でも死でもない。
全ての対極を離れている者である。
原因と結果の法則にも左右されない。
原因も無く、何にも依存することなく存在している。
何にも依存していないが故に壊れることが無く、
全一であるが故に動きも無く、変化も無い。
この宇宙の一切はこの主体だけで出来上がっている。
宇宙は実は主体しかないのである。
宇宙に客体は存在していない。
宇宙は全てを含む一なるものであるから、
多であって一なるものなのである。
この全一は無であって有を表し有であって無を離れていない。
心が外に向くことで対象を客体を生み出している。
無い客体を生み出し客体を主体と錯覚している間は
自己を知ることは出来ず。
自己を知らないものは何一つ手に入れることは出来ない。
何を行ってもただの精神的、遊びと言わなくてはならない。
人を救済するとは自己を見出させることである。
自分が自己を知らず一体誰を救済するのであろうか。
目覚めた存在は多くの者を救済しても、誰一人救済していないことを
知っている。救済される者と、救済する者と言う二つの者がい無いことを
知っているからであり、主体しかないから、究極的には世界が無いことを
知っているのである。
外に何かを求めることをやめ、心が内側にとどまる時。
対象が消え、認識する対象が消えるが故に主体も消える
対象も主体も消えた時本物の主が現れる。
本当の主体とは客体と主体を超える者なのである。
わたしは主体を見つけなさいといい続けているが
実は主体と客体とは二元相対の依存してなり立つ物であり、
客体が消え去れば主体も消え去るのである。
その時初めて何にも依存せず存在する主体と客体が溶け合った
一なるものである、主体が姿を現すのである。
主体と言う言葉で表すことも間違っているのだが
言葉で表せば全て嘘になるのであるから主体と言うのである。
この主体は主体と客体が溶け合った者であり、
主体でもなく客体でもない、観照者と呼ばれることがあるが
これが二元性を超え何にも依存せず存在する者であり
だから無依の真の人と呼ぶのである。
我々は初めからそれである。
後から手に入れるようなものではない。
この世では何一つとして手に入れられるようなものは無い
我々は初めから仏であるなのに何故さらに仏になろうとするのか。
仏が仏になる必要は無い。
わたしは初めから仏であると信じるだけでよいのである。
仏であると信じ求めることの一切をやめるだけで良いのである。
外を気に掛けることをやめれば内側で心は静まる。
その心の静まり平常心がサマディである。
そのまま静かに座ってみなさい。
禅をするのではなく、何もしないことが大事である。
何かをすることなく座れた時、客体と主体が消え去る。
その時、我々は自己を知ることになる。
それが出来たら自己を見失うことなく行為することを
おぼえること、すべての行為の中で自己を見失わなくなれば
完成である。それが完全なサマディである。
2011/09/05
12:44:28
全体だけがある
今回は縁起と言う境地から個と全体について語る。
わたし達はわたしの身体と言うが、わたしの身体とは
一体どの部分を言うのだろう。
頭か、脳か、手か、足か、それともどの内臓か?
身体とは単一のもので出来てい無い。
各部分も又単一な物で出来てはい無い。
多くの細胞で出来ている。
この細胞は単独では存在できないがあくまでも単独で生命である。
大この生命が依存しあって身体と言うものを構成し維持している。
単一でない物を単一として身体と呼ぶ。
なら何故に単独で生命だが宇宙と一体であり、全体で宇宙を構成し
維持している個を個として扱うのであるか。
我々個人と言うものは実は細胞と同じで個では存在できない。
個として存在できるというなら、我々は自分から生まれたのだろうか。
母親と父親に依存して生まれているその父母もまた父母にその父母も
また父母に、依存して生まれている。生まれることじたい既に
依存しているのである。身体も多くの部分にそして多くの細胞に
依存しているのである。
認識作用や感情も細胞全てで成立させている思いすら個と言える
物ではない。身体が個で無いなら身体の生み出すものも全ては
個人的物とは言うことができないのである。
又生きること自体依存なくしては成立しない。
空気が無くても食べ物が無くても地面が無くても太陽が無くても生きられない。
いま必要でないと嫌う生き物も生態系の中で我々には必要なものなのである。
これを何処までもたどって行くと、この宇宙の一切と依存しあって
成り立っていることが分かるのである。
ここまで行くと人間は理解が難しいと思うが。
今存在する砂の一粒でさえそれの存在することを前提で我々は
存在できるのである。この宇宙に必要ないものは一つとして無いのである。
全てが集まり宇宙を構成しているのである。
我々の体に不必要なものは一つとして無いようにである。
我々のこの一瞬も宇宙の全ての存在の瞬間とつながっている。
また宇宙の全ての存在の瞬間は過去の全ての瞬間とつながっている。
今の全ての存在の瞬間も未来の全ての存在の瞬間とつながっている。
今の瞬間は宇宙の全ての存在の瞬間と依存しまた今の瞬間は
過去の全ての瞬間に依存しているのである
瞬間でさえ全てが依存してなりたつのである。
存在も現象も全て依存して存続しているのである。
この何処に個人が存在しているというのか。
何処からどの様に見ても個人の存在を確認できない。
なのに人間にはつながりが見えない故に個人と思い込み自身の利益を
求め他と対立する。個人と言う意識が不調和の世界を生み出しているのだ。
獣みたいな奪い合いの世界を生み出しているのだよ。
奪い合うことが平等強いものが奪い問うことが平等と
馬鹿げたことを主張する。
強いものの力は弱いものに依存して成り立っているのである。
そもそも我々が存在していること自体全て依存しているのに
何処を探しても個人と言うものが存在してい無いのに
如何してこの様な世界を生み出し維持し続けるのか。
感覚や思いに囚われず思考を論理的思考を使いなさい。
智慧を使うのである。
感覚器官が与える印象の個人がいる感覚に囚われず
頭を使いなさい、そして目覚めなさい。
先ず内側を見て個人と言う身体と言う単独の物があるか考え
その次に外側に宇宙で単独に存在しているものがあるのか考えなさい。
智慧を使いなさい。
個人と言う意識を持つものの心の表れである目は自我が発達するほど
曇っている。不純性で一杯である。
目覚めた存在の目は透き通るように綺麗で不純なものを含んでい無い
この眼差しが善である。
自他の区別無く区別し何の差別も無く送られる眼差しこれが善だ。
鏡を見てごらん心があればそれが観えるはずである。
自分を知って宇宙を知って目覚めなさい。
目覚めたものがごく少数でも目覚めているが故に驚くほどの
力を持つ目覚めたものが少数でもつながれば世界は調和へ
変わり得るのである。
超越瞑想の創始者は世界人口の数%が瞑想体験をすれば
世界は調和的に変わりえるという信念で単身アメリカにわたり
瞑想を伝えたが、目覚めた人間なら数%もいらないのである。
ごくわずかで可能なのである。
如何して調和の世界に変えたいのか?
一切の生きとし生ける者に幸せを与えること。
それが神仏の願いだからである。
それが全体(宇宙)の願いだからである。
それが進化と言うものだからである。
我々が身体を大事にするのも身体を構成する生命を
身体と言う全体の主として幸せにするという行為なのである。
不調和の世界と言うものも必要性を感じなくたった者には
悪に見えるが、それは善でも悪でもない
ただ必要ではなくなりつつあるものと言うだけである。
例えばおたまじゃくしがカエルに変化する途中、尾が必要でなくなれば
邪魔なものとなるが、それは善でも悪でもないようにである。
競争社会やエゴ社会と言うものも同じである。
今回は縁起と言う境地から個と全体について語る。
わたし達はわたしの身体と言うが、わたしの身体とは
一体どの部分を言うのだろう。
頭か、脳か、手か、足か、それともどの内臓か?
身体とは単一のもので出来てい無い。
各部分も又単一な物で出来てはい無い。
多くの細胞で出来ている。
この細胞は単独では存在できないがあくまでも単独で生命である。
大この生命が依存しあって身体と言うものを構成し維持している。
単一でない物を単一として身体と呼ぶ。
なら何故に単独で生命だが宇宙と一体であり、全体で宇宙を構成し
維持している個を個として扱うのであるか。
我々個人と言うものは実は細胞と同じで個では存在できない。
個として存在できるというなら、我々は自分から生まれたのだろうか。
母親と父親に依存して生まれているその父母もまた父母にその父母も
また父母に、依存して生まれている。生まれることじたい既に
依存しているのである。身体も多くの部分にそして多くの細胞に
依存しているのである。
認識作用や感情も細胞全てで成立させている思いすら個と言える
物ではない。身体が個で無いなら身体の生み出すものも全ては
個人的物とは言うことができないのである。
又生きること自体依存なくしては成立しない。
空気が無くても食べ物が無くても地面が無くても太陽が無くても生きられない。
いま必要でないと嫌う生き物も生態系の中で我々には必要なものなのである。
これを何処までもたどって行くと、この宇宙の一切と依存しあって
成り立っていることが分かるのである。
ここまで行くと人間は理解が難しいと思うが。
今存在する砂の一粒でさえそれの存在することを前提で我々は
存在できるのである。この宇宙に必要ないものは一つとして無いのである。
全てが集まり宇宙を構成しているのである。
我々の体に不必要なものは一つとして無いようにである。
我々のこの一瞬も宇宙の全ての存在の瞬間とつながっている。
また宇宙の全ての存在の瞬間は過去の全ての瞬間とつながっている。
今の全ての存在の瞬間も未来の全ての存在の瞬間とつながっている。
今の瞬間は宇宙の全ての存在の瞬間と依存しまた今の瞬間は
過去の全ての瞬間に依存しているのである
瞬間でさえ全てが依存してなりたつのである。
存在も現象も全て依存して存続しているのである。
この何処に個人が存在しているというのか。
何処からどの様に見ても個人の存在を確認できない。
なのに人間にはつながりが見えない故に個人と思い込み自身の利益を
求め他と対立する。個人と言う意識が不調和の世界を生み出しているのだ。
獣みたいな奪い合いの世界を生み出しているのだよ。
奪い合うことが平等強いものが奪い問うことが平等と
馬鹿げたことを主張する。
強いものの力は弱いものに依存して成り立っているのである。
そもそも我々が存在していること自体全て依存しているのに
何処を探しても個人と言うものが存在してい無いのに
如何してこの様な世界を生み出し維持し続けるのか。
感覚や思いに囚われず思考を論理的思考を使いなさい。
智慧を使うのである。
感覚器官が与える印象の個人がいる感覚に囚われず
頭を使いなさい、そして目覚めなさい。
先ず内側を見て個人と言う身体と言う単独の物があるか考え
その次に外側に宇宙で単独に存在しているものがあるのか考えなさい。
智慧を使いなさい。
個人と言う意識を持つものの心の表れである目は自我が発達するほど
曇っている。不純性で一杯である。
目覚めた存在の目は透き通るように綺麗で不純なものを含んでい無い
この眼差しが善である。
自他の区別無く区別し何の差別も無く送られる眼差しこれが善だ。
鏡を見てごらん心があればそれが観えるはずである。
自分を知って宇宙を知って目覚めなさい。
目覚めたものがごく少数でも目覚めているが故に驚くほどの
力を持つ目覚めたものが少数でもつながれば世界は調和へ
変わり得るのである。
超越瞑想の創始者は世界人口の数%が瞑想体験をすれば
世界は調和的に変わりえるという信念で単身アメリカにわたり
瞑想を伝えたが、目覚めた人間なら数%もいらないのである。
ごくわずかで可能なのである。
如何して調和の世界に変えたいのか?
一切の生きとし生ける者に幸せを与えること。
それが神仏の願いだからである。
それが全体(宇宙)の願いだからである。
それが進化と言うものだからである。
我々が身体を大事にするのも身体を構成する生命を
身体と言う全体の主として幸せにするという行為なのである。
不調和の世界と言うものも必要性を感じなくたった者には
悪に見えるが、それは善でも悪でもない
ただ必要ではなくなりつつあるものと言うだけである。
例えばおたまじゃくしがカエルに変化する途中、尾が必要でなくなれば
邪魔なものとなるが、それは善でも悪でもないようにである。
競争社会やエゴ社会と言うものも同じである。
2011/10/30
23:50:37
善悪・対立
我々は心の状態に従い世界を心に映あします。
全ての人が見ている世界は同じ物ですが
全ての人が観ている世界は異なるのです。
感覚器官が指し示す個人であると言う印象(錯覚)を受け入れた時
心の中にはあらゆる対極の対立が生まれます。
善悪、主体と客体、好き嫌い等が現れるのです。
このような物の集まりが自我と呼ばれる物です。
しかし個(我)と言う印象は錯覚なのです。
もしこの世に個と言える者が存在するとすれば如何なる影響も
受けない者で無くては行けません。
影響を与え合い影響を受けあう者は個とは呼べないからです。
この世の一切は近くの物から遠くの物へ直接的に間接的に
影響を与え合いつながって生滅、変化する一体なものです。
何の影響も受けず独立して存在してはい無いのです。
相対的世界と言う物は対立的に観える対極があって始めて互いが
存在できるのです。
観察者が居て観察するものとされる物が成立するのです。
観る物と観られる物がいて観るという現象がおきえるのです。
客体があって主体が存在できるのです。
客体が無ければ主体も消え去るのです。
世界の全てが一つの物である時見るという現象は
起きることはないのです。
瞑想や禅のでもこのような現象は起こります。
主体と客体が溶け合っ時、主体も消え去るのです。
見られる物(客体)が消え去った時、主体も消えるのです。
わたしは一体何を言いたいのでしょうか?
この世を個(我)の集まりと観る時全ては対立的に観え
この世を一つの物と観る時如何なる対立も観えないのです。
主体と客体や善悪と言う物も二つで一つの動きをする一体の物なのです。
二つで始めて働きと成るのです。
この世に神がいるのであれば如何してこの世界は苦しみに満ちているのか
善も神の働き悪も神の働きなのです。
この世界には神以外の何者も無いからです。
苦しみは乗り越えるためにあるのです。
苦しみ苦しみ苦しんで始めて悟りもありえるのです。
過去の目覚めた存在は誰しも苦しみがあるからこそその
解決方法を求めたのです。
悪や苦しみとは神の愛であり、仏の慈悲なのです。
この世に個人も居なければ悪も悪人も居無いのです。
世界に対立が観えるのは自身の心の状態の反映なのです。
心に分離(対立)があるから対立が観えるのであり。
肯定と否定と言う対立を超えしかも分別することが必要なのです。
善悪と言う分け方自体人間の価値観なのです。
善悪とは互いに力を合わせ善と言う働きを示します。
苦しくなって始めて目覚めることが出来るからです。
苦しみが無ければ目覚め自体ありえないのです。
悪や苦しみが無ければ善も悟りも無いのです。
・本質的に善悪は無いと知り善悪と言う対立を超越し人を裁くのをやめ
善悪は互いに力を合わせ善と言う動きを示すと知り自らは善を
行うことが必要なのです。
事物を裁くことをやめ、しかも自らは善を行うのです。
悪を憎んで善を行うのは分離的人間の誤りなのです。
この世は全体しかありません個人は存在しないのです。
全体を何と呼んでもかまいませんがここでは神と呼びましよう。
この世に神以外の何が居るのでしょうか?この世界は神以外居無いのです。
悪も神の動きということです、悪を憎むことは神を憎むことと成るのです。
親鸞の悪人ほど先に救われるべきだというのはこのことをふまえて
言われたことです。わたしも全く同意いたします。
我々は心の状態に従い世界を心に映あします。
全ての人が見ている世界は同じ物ですが
全ての人が観ている世界は異なるのです。
感覚器官が指し示す個人であると言う印象(錯覚)を受け入れた時
心の中にはあらゆる対極の対立が生まれます。
善悪、主体と客体、好き嫌い等が現れるのです。
このような物の集まりが自我と呼ばれる物です。
しかし個(我)と言う印象は錯覚なのです。
もしこの世に個と言える者が存在するとすれば如何なる影響も
受けない者で無くては行けません。
影響を与え合い影響を受けあう者は個とは呼べないからです。
この世の一切は近くの物から遠くの物へ直接的に間接的に
影響を与え合いつながって生滅、変化する一体なものです。
何の影響も受けず独立して存在してはい無いのです。
相対的世界と言う物は対立的に観える対極があって始めて互いが
存在できるのです。
観察者が居て観察するものとされる物が成立するのです。
観る物と観られる物がいて観るという現象がおきえるのです。
客体があって主体が存在できるのです。
客体が無ければ主体も消え去るのです。
世界の全てが一つの物である時見るという現象は
起きることはないのです。
瞑想や禅のでもこのような現象は起こります。
主体と客体が溶け合っ時、主体も消え去るのです。
見られる物(客体)が消え去った時、主体も消えるのです。
わたしは一体何を言いたいのでしょうか?
この世を個(我)の集まりと観る時全ては対立的に観え
この世を一つの物と観る時如何なる対立も観えないのです。
主体と客体や善悪と言う物も二つで一つの動きをする一体の物なのです。
二つで始めて働きと成るのです。
この世に神がいるのであれば如何してこの世界は苦しみに満ちているのか
善も神の働き悪も神の働きなのです。
この世界には神以外の何者も無いからです。
苦しみは乗り越えるためにあるのです。
苦しみ苦しみ苦しんで始めて悟りもありえるのです。
過去の目覚めた存在は誰しも苦しみがあるからこそその
解決方法を求めたのです。
悪や苦しみとは神の愛であり、仏の慈悲なのです。
この世に個人も居なければ悪も悪人も居無いのです。
世界に対立が観えるのは自身の心の状態の反映なのです。
心に分離(対立)があるから対立が観えるのであり。
肯定と否定と言う対立を超えしかも分別することが必要なのです。
善悪と言う分け方自体人間の価値観なのです。
善悪とは互いに力を合わせ善と言う働きを示します。
苦しくなって始めて目覚めることが出来るからです。
苦しみが無ければ目覚め自体ありえないのです。
悪や苦しみが無ければ善も悟りも無いのです。
・本質的に善悪は無いと知り善悪と言う対立を超越し人を裁くのをやめ
善悪は互いに力を合わせ善と言う動きを示すと知り自らは善を
行うことが必要なのです。
事物を裁くことをやめ、しかも自らは善を行うのです。
悪を憎んで善を行うのは分離的人間の誤りなのです。
この世は全体しかありません個人は存在しないのです。
全体を何と呼んでもかまいませんがここでは神と呼びましよう。
この世に神以外の何が居るのでしょうか?この世界は神以外居無いのです。
悪も神の動きということです、悪を憎むことは神を憎むことと成るのです。
親鸞の悪人ほど先に救われるべきだというのはこのことをふまえて
言われたことです。わたしも全く同意いたします。
2011/11/06
07:41:57
善悪・悪を憎む事が最大の悪
人間は悪を憎むとは一体どのような事であるのか知らず、
様々な価値観で事物を裁き悪とみなす。
自らを善とみなし誰かを悪とみなし裁くことが戦いなのです。
自分が正しく相手が間違っていると言う想いにとらられ裁くことが
喧嘩と言う物です。
これが国と国となれば戦争となります。
例えばテロとの戦いがよい例です。
どちらも相手が悪と言う想いから何かの手段で裁きます。
互いに裁きあい終わりのない戦いです。
どちらかが例え善であったとしても戦った瞬間に悪となるのです。
善であれ悪であれ戦いは悪だからです。
正しくは相手を悪だと裁いた瞬間に善であっても悪となるのです。
悪を憎む心が戦いを生み出しているのです。
言い換えれば悪を憎む事が悪を生み出すのです。
人間は悪を憎み悪を裁けば何時かは悪が無くなると思い込んでいます。
浅はかな考えです。
悪を憎む心がある限り悪を生み出し続けるのです。
我々は馬鹿であると心のそこから知らなくてはいけないのです。
人間には理解できないでしょうが、悪がを憎む心が無くなれば
犯罪も消え去るのです。
犯罪も悪を憎む心が生み出すのです。
もし悪を憎む心が無ければ誰かを何かを裁くことをやめるのです。
そうです、戦いが消えるのです。
もし悪を憎む心が無ければ事物を裁くのをやめ人と人のつながりが深くなり
思いやりあふれる人を生み出すのです。
この思いやりが最終的に犯罪を無くすのです。
己がよければ誰かが苦しんでもかまわないと言う心が犯罪を行うからです。
悪を憎み裁くことが戦いを生み出し
悪を憎む心が犯罪を生み出すのです。
犯罪を無くそうと裁き続ける事が犯罪を生み出す
これは無限のループなのです。
だから悪を憎むことが最も最大の悪なのです。
嫌う憎む裁くが三悪です。
例え悪であっても嫌う憎む裁くを行う人は自らの価値観で
様々な人を嫌い憎み裁くでしょう。
悪をも嫌い憎み裁かない人は誰をも嫌い憎み裁かないのです。
悪を憎まないということが世間の常識になれば戦いは無くなり
悪を憎まないという心が常識になれば犯罪は消え去ります。
例えば執着を無くそうと言う思いは執着を生み出し
煩悩を無くそうと言う思いは煩悩を生み出します。
求めるのも避けるのも執着であり煩悩だからです。
煩悩や執着を避ける事がかえってそれを生み出すのです。
悪を嫌い避ける事も悪を生み出すのです。
どちらが善であれどちらが悪であれ戦いは全て悪だからです。
善である戦いなど無いのです。
自身が本当に善であったとしても裁いた瞬間に悪となるのです。
何であれ例え悪であれ憎むことは悪なのです。
想像していただきたい事物を裁かない人の集まりの世界は一体どの様な
世界となるのでしょうか。そのまま天国となるのです。
一切の対立の無い世界です。
善と悪は初めから対立しておりません。
善と悪は共に働き善と言う動きを生み出すのです。
悪が強まれば人間は善を求めるからです。
覚えておいてください、自我とは常に価値の無い物を
価値があるとみなし価値のあるものを価値が無いとみなし。
道を逆に観るのです。
悟りを得ると言う事は得る物がないと理解する事であるのに
得ようと必死になる。得ることをやめる事が得たと言う事なのです。
道を歩かなくてはと感じたときは歩く事をやめる事が正しいのです。
常に正しい道は逆にあるのです。
我々人間は浅はかで愚かであると心のそこから知らなくては行けないのです。
悪を憎んで悪を生み出すと言う愚かな事を何時まで続けるのですか?
本当の善とは裁かない心です。悪も憎まず人をも憎まず。
キリストは汝裁くな彼と言いました。偉大な言葉です。
人間は悪を憎むとは一体どのような事であるのか知らず、
様々な価値観で事物を裁き悪とみなす。
自らを善とみなし誰かを悪とみなし裁くことが戦いなのです。
自分が正しく相手が間違っていると言う想いにとらられ裁くことが
喧嘩と言う物です。
これが国と国となれば戦争となります。
例えばテロとの戦いがよい例です。
どちらも相手が悪と言う想いから何かの手段で裁きます。
互いに裁きあい終わりのない戦いです。
どちらかが例え善であったとしても戦った瞬間に悪となるのです。
善であれ悪であれ戦いは悪だからです。
正しくは相手を悪だと裁いた瞬間に善であっても悪となるのです。
悪を憎む心が戦いを生み出しているのです。
言い換えれば悪を憎む事が悪を生み出すのです。
人間は悪を憎み悪を裁けば何時かは悪が無くなると思い込んでいます。
浅はかな考えです。
悪を憎む心がある限り悪を生み出し続けるのです。
我々は馬鹿であると心のそこから知らなくてはいけないのです。
人間には理解できないでしょうが、悪がを憎む心が無くなれば
犯罪も消え去るのです。
犯罪も悪を憎む心が生み出すのです。
もし悪を憎む心が無ければ誰かを何かを裁くことをやめるのです。
そうです、戦いが消えるのです。
もし悪を憎む心が無ければ事物を裁くのをやめ人と人のつながりが深くなり
思いやりあふれる人を生み出すのです。
この思いやりが最終的に犯罪を無くすのです。
己がよければ誰かが苦しんでもかまわないと言う心が犯罪を行うからです。
悪を憎み裁くことが戦いを生み出し
悪を憎む心が犯罪を生み出すのです。
犯罪を無くそうと裁き続ける事が犯罪を生み出す
これは無限のループなのです。
だから悪を憎むことが最も最大の悪なのです。
嫌う憎む裁くが三悪です。
例え悪であっても嫌う憎む裁くを行う人は自らの価値観で
様々な人を嫌い憎み裁くでしょう。
悪をも嫌い憎み裁かない人は誰をも嫌い憎み裁かないのです。
悪を憎まないということが世間の常識になれば戦いは無くなり
悪を憎まないという心が常識になれば犯罪は消え去ります。
例えば執着を無くそうと言う思いは執着を生み出し
煩悩を無くそうと言う思いは煩悩を生み出します。
求めるのも避けるのも執着であり煩悩だからです。
煩悩や執着を避ける事がかえってそれを生み出すのです。
悪を嫌い避ける事も悪を生み出すのです。
どちらが善であれどちらが悪であれ戦いは全て悪だからです。
善である戦いなど無いのです。
自身が本当に善であったとしても裁いた瞬間に悪となるのです。
何であれ例え悪であれ憎むことは悪なのです。
想像していただきたい事物を裁かない人の集まりの世界は一体どの様な
世界となるのでしょうか。そのまま天国となるのです。
一切の対立の無い世界です。
善と悪は初めから対立しておりません。
善と悪は共に働き善と言う動きを生み出すのです。
悪が強まれば人間は善を求めるからです。
覚えておいてください、自我とは常に価値の無い物を
価値があるとみなし価値のあるものを価値が無いとみなし。
道を逆に観るのです。
悟りを得ると言う事は得る物がないと理解する事であるのに
得ようと必死になる。得ることをやめる事が得たと言う事なのです。
道を歩かなくてはと感じたときは歩く事をやめる事が正しいのです。
常に正しい道は逆にあるのです。
我々人間は浅はかで愚かであると心のそこから知らなくては行けないのです。
悪を憎んで悪を生み出すと言う愚かな事を何時まで続けるのですか?
本当の善とは裁かない心です。悪も憎まず人をも憎まず。
キリストは汝裁くな彼と言いました。偉大な言葉です。
2011/11/07
14:06:13
個人意識からの超越
わたしは善悪とか、自由意思とか色々なことを語りますが
実は個人と個人の動きは無いと言っているのです。
個人という者が無いとは個人の動きも無く
善悪も無く自由意志も無いと言うことです。
宇宙の一切は互いに影響を与え合いつながって生滅変化しているもので
そこに個(我)とか個(我)の動きとかと言う物は無いのです。
初めの一なる者は一で在るが故に一切の動きを致しません
また一で在るが故に影響を受ける事がないからです。
心と言う物も認識作用が現れる前は一切の動きを致しません。
この認識作用と言うのが影響です。
影響以外に心が動く原因は無いのです。
ですから動きは全て影響による物であり影響以外の動きは無いのです。
これがつながっていると言うことです。
・物理の法則の運動の第1法則・慣性の法則は力を加えなければ物は
決して動く事は無いと言う物です。
心もこれと同じなのです。何の影響を受けない心は決して動く事はないのです。
慣性の法則は宇宙の全てに当てはまるのです。
動きは影響と言う力が加えられたことで起こるのです。
だから宇宙の一切は互いに影響を与え合いつながって動いているのです。
そこに個人も個人の動きも善悪も存在してい無いのです。
全体の動きだけがあり全体の流れだけがあるのです。
神だけがあり神の動きだけがあるのです。
仏だけがあり仏の動きだけがあるのです。
我々が背を向けている物を悪と呼んでいるだけなのです。
悪を憎む者は神仏の一面を憎んでいるのです。
だから善悪を対立的に観れば神も仏もこの世にい無いように観えるのです。
つながりの理解を深めると最後には個人という者が存在できない事を
知ります。全体の中に個人が消え去るのです。
これが個人意識からの超越です。
・最後にサマディの仕組みのお話を少し致します。
慣性の法則、何かの力を加えなければ物は決して動くことはない
心の動きは認識作用による影響による物です。
認識作用が起きても全く影響を受けない心であれば心は停止したままです。
これを利用したのが何にも影響を受けない心を作り
心を不動にすると言う物です。
一切動かない不動の心であるサマディとは慣性の法則にそった物なのです。
宇宙の一切は近くのものから遠くのものへ直接または間接的に互いに影響を
与え合い生滅変化している。とは慣性の法則を言っているのです。
現代の科学がこのことを見極められれば個人も消え善悪を対立的に
捕らえることも無くなることでしょう。
個人意識を超えなければ科学に大きな発展は無いでしょう。
個人意識を超えた科学は我々に大きなものを与えてくれる事でしょう。
科学の慣性の法則は限定的なのもであり不完全なものです。
教えを説いたような存在は既に完全な慣性の法則を知っていたのです。
教えとは現在の不完全な科学よりも科学的なのです。
教えとは世界の一面であるである神秘と
もう一面である論理を説いた完全な科学なのです。
わたしは善悪とか、自由意思とか色々なことを語りますが
実は個人と個人の動きは無いと言っているのです。
個人という者が無いとは個人の動きも無く
善悪も無く自由意志も無いと言うことです。
宇宙の一切は互いに影響を与え合いつながって生滅変化しているもので
そこに個(我)とか個(我)の動きとかと言う物は無いのです。
初めの一なる者は一で在るが故に一切の動きを致しません
また一で在るが故に影響を受ける事がないからです。
心と言う物も認識作用が現れる前は一切の動きを致しません。
この認識作用と言うのが影響です。
影響以外に心が動く原因は無いのです。
ですから動きは全て影響による物であり影響以外の動きは無いのです。
これがつながっていると言うことです。
・物理の法則の運動の第1法則・慣性の法則は力を加えなければ物は
決して動く事は無いと言う物です。
心もこれと同じなのです。何の影響を受けない心は決して動く事はないのです。
慣性の法則は宇宙の全てに当てはまるのです。
動きは影響と言う力が加えられたことで起こるのです。
だから宇宙の一切は互いに影響を与え合いつながって動いているのです。
そこに個人も個人の動きも善悪も存在してい無いのです。
全体の動きだけがあり全体の流れだけがあるのです。
神だけがあり神の動きだけがあるのです。
仏だけがあり仏の動きだけがあるのです。
我々が背を向けている物を悪と呼んでいるだけなのです。
悪を憎む者は神仏の一面を憎んでいるのです。
だから善悪を対立的に観れば神も仏もこの世にい無いように観えるのです。
つながりの理解を深めると最後には個人という者が存在できない事を
知ります。全体の中に個人が消え去るのです。
これが個人意識からの超越です。
・最後にサマディの仕組みのお話を少し致します。
慣性の法則、何かの力を加えなければ物は決して動くことはない
心の動きは認識作用による影響による物です。
認識作用が起きても全く影響を受けない心であれば心は停止したままです。
これを利用したのが何にも影響を受けない心を作り
心を不動にすると言う物です。
一切動かない不動の心であるサマディとは慣性の法則にそった物なのです。
宇宙の一切は近くのものから遠くのものへ直接または間接的に互いに影響を
与え合い生滅変化している。とは慣性の法則を言っているのです。
現代の科学がこのことを見極められれば個人も消え善悪を対立的に
捕らえることも無くなることでしょう。
個人意識を超えなければ科学に大きな発展は無いでしょう。
個人意識を超えた科学は我々に大きなものを与えてくれる事でしょう。
科学の慣性の法則は限定的なのもであり不完全なものです。
教えを説いたような存在は既に完全な慣性の法則を知っていたのです。
教えとは現在の不完全な科学よりも科学的なのです。
教えとは世界の一面であるである神秘と
もう一面である論理を説いた完全な科学なのです。
2012/04/23
12:59:27
お金を無くす。
それではお金を無くすことで発生すると思われる
デメリットに見えるものは実はデメリットでは
ないについて、ご説明いたしますが
考えられることを思いつく限り追記して行きます。
・お金を無くすとは?
現在社会保障や国を維持するために何かの税金を少しずつ
あげて行くと言う手法が取れれております、
それなら初めから所得税を100%にして、
全てを無料にすればよいのではということです。
国を維持するお金には際限ががなく
我々が払える税金には限界があるためにこの方式には限界があるからです。
今日本の国の人口は減り続けております。
このまま行くとどのくらい税金が必要か試算すれば限界が見えます。
収入を全部払ってもたり無いと言う時が来ることでしょう。
・お金を無くすとは?
もしあなた方が無人島で家族だけになったら
とった作物または食料を自分の子供に妻に親に分け与えるのに
お金が必要ですか、
お金が必要なのは人と人のつながりが薄れたし証なのです。
世界が家族と同じなら世界は大変豊かになります。
必要な物を必要なくらい生み出しみんなで分け合えば
だれもが不自由することは無くなり犯罪は減るでしょう。
貧困対策は犯罪に大変効果があります。
お金をなくすことは、最大の貧困対策だからです。
・お金を無くすと人は働かなくなるのでは?
あなた方は既にお金の為に働いているのではないでしょう。
お金ではない物である家族の為に又は自己の為に、
お金を集めてくるのでしょう。
家族や自己がお金を必要とするからお金を集めてくるのであって
お金のためではないでしょう。
お金が無くても働けるはずです。
もっと言えばお金を無くすと働かない人はいなくなるのです。
・お金を無くすと大量消費につながるのでは?
大量消費にはつながりません。
人は無制限に何でも何時でも手に入れることが出来ると
欲望は少なくなって行くのです。
自我とは手に入らないからこそ、
何時手に出来るか分からないからこそ欲しがるのです。
自我は道端に落ちている石には目も止めません。
何時でも拾うことが出来るからです。
自我とは何でも何時でも無制限に手に入れることが
出来ると思った瞬間に必要な物があれば今は十分だというのです。
・日本の国だけでは無理なのでは?
そうです、日本の国だけであるとき
海外と日本の間にはお金が必要です。
日本はお金で資源を買い求め商品にして海外に売り
そのお金でまた資源を買う必要があります。
ですが日本が生み出す物は利益に束縛されないが故に芸術となり
人件費が必要でないために原価は資源だけであり、
何処の国にも負けるはずもなく、全ての国は日本の真似を
する以外に方法はなくなります。
お金をなくすことが世界に広がったとき本当の意味での
無料となるときです。
・今の会社は仕事はどうなりますか?
社内では出世と言うものに意味がなくなります。
上下関係も消えてなくなるでしょう。
社外では会社と会社の枠がなくなり一つの団体となって行くでしょう。
またお金にまつわる会社や会社の一部は消えスリムなものとなるでしょう。
企業は一つの団体となり何処で何がどのくらい必要であるかを管理し
必要な物が滞らないように、無駄が出ないようにすればよいのです。
・科学や世界の発展が遅れるのでは?
世界の意識レベルに従った科学しかあらわれません。
現状の意識レベルでは今の科学が精一杯です。
無制限に科学は進歩するのではないのです。
意識レベルに従った科学や技術が開発されるのです。
もし社会の意識レベルが上がれば、
一段上の科学の理論が生まれ、それに従い全てが向上するでしょう。
また今は利益につながる研究にしかお金は集まりません。
お金につながらない研究や莫大な資金が必要な研究は滞っております。
資源がただで人件費がただであるなら、全てはただあるのが道理です。
どんな研究開発にもお金はかからないのです。
みんなが利益を取るから全ては高価となり結局、
誰の利益にもつながらないのです。
みんなが利益を取るから得ることが難しくなるのです。
必要な物を必要なぐらい作り出し全ての人が得られるように
すれば自分も全てを手に入れることが出来るのです。
完全なリサイクルを行えば大量消費にはならないのです。
リサイクルを行えない様なエネルギーなどは代替エネルギーを
見つけ出せばよいのです。
研究開発費と対立がなければ出来るはずです。
今の世界が生み出す物は利益につながるもので無くてはならず
おのずと制限があります。
お金のためでないとき人間が生み出す、物であれサービスであれ
何の制限もないが故に芸術となるのです。
将来人類は太陽系を超え宇宙に羽ばたく日が来ることでしょう。
意識の改革が起こればあたらしい科学の理論が生まれ
それが可能となります。
逆に言えば宇宙に羽ばたくためには宇宙意識が
あらわれる必要が有ると言うことです。
今の意識レベルの人間が宇宙に羽ばたくことを宇宙は歓迎しないのです。
本当に世界は上手くできているのです。
全てを手に入れるためには全てを手に入れ無いと言ういう意識レベルが
必要になるのですから。
一切の生き物を害しても地獄に落ち無いと言うレベルになるためには
一切の生き物を害さ無いと言う意識レベルが必要になるのです。
本当の意味で何かを手に入れるためには、何かを所有し無いと言う意識レベルが
必要になり、全てを手に入れられるころには、
全てを所有しない自己となっているのです。
一切の生き物を害しても地獄に落ちないころには
一切の生き物を害せない自己となっているのです。
一切を所有するためには、一切を所有しないことが必要であり、
一切の生き物を害しても地獄に落ち無い為には、
一切の生き物を害さないようになる必要があるのです。
本当にこの世界は上手くできております。
神仏の計画としか言いようがないのです。
続く
メリット、デメリット追記いたします。
それではお金を無くすことで発生すると思われる
デメリットに見えるものは実はデメリットでは
ないについて、ご説明いたしますが
考えられることを思いつく限り追記して行きます。
・お金を無くすとは?
現在社会保障や国を維持するために何かの税金を少しずつ
あげて行くと言う手法が取れれております、
それなら初めから所得税を100%にして、
全てを無料にすればよいのではということです。
国を維持するお金には際限ががなく
我々が払える税金には限界があるためにこの方式には限界があるからです。
今日本の国の人口は減り続けております。
このまま行くとどのくらい税金が必要か試算すれば限界が見えます。
収入を全部払ってもたり無いと言う時が来ることでしょう。
・お金を無くすとは?
もしあなた方が無人島で家族だけになったら
とった作物または食料を自分の子供に妻に親に分け与えるのに
お金が必要ですか、
お金が必要なのは人と人のつながりが薄れたし証なのです。
世界が家族と同じなら世界は大変豊かになります。
必要な物を必要なくらい生み出しみんなで分け合えば
だれもが不自由することは無くなり犯罪は減るでしょう。
貧困対策は犯罪に大変効果があります。
お金をなくすことは、最大の貧困対策だからです。
・お金を無くすと人は働かなくなるのでは?
あなた方は既にお金の為に働いているのではないでしょう。
お金ではない物である家族の為に又は自己の為に、
お金を集めてくるのでしょう。
家族や自己がお金を必要とするからお金を集めてくるのであって
お金のためではないでしょう。
お金が無くても働けるはずです。
もっと言えばお金を無くすと働かない人はいなくなるのです。
・お金を無くすと大量消費につながるのでは?
大量消費にはつながりません。
人は無制限に何でも何時でも手に入れることが出来ると
欲望は少なくなって行くのです。
自我とは手に入らないからこそ、
何時手に出来るか分からないからこそ欲しがるのです。
自我は道端に落ちている石には目も止めません。
何時でも拾うことが出来るからです。
自我とは何でも何時でも無制限に手に入れることが
出来ると思った瞬間に必要な物があれば今は十分だというのです。
・日本の国だけでは無理なのでは?
そうです、日本の国だけであるとき
海外と日本の間にはお金が必要です。
日本はお金で資源を買い求め商品にして海外に売り
そのお金でまた資源を買う必要があります。
ですが日本が生み出す物は利益に束縛されないが故に芸術となり
人件費が必要でないために原価は資源だけであり、
何処の国にも負けるはずもなく、全ての国は日本の真似を
する以外に方法はなくなります。
お金をなくすことが世界に広がったとき本当の意味での
無料となるときです。
・今の会社は仕事はどうなりますか?
社内では出世と言うものに意味がなくなります。
上下関係も消えてなくなるでしょう。
社外では会社と会社の枠がなくなり一つの団体となって行くでしょう。
またお金にまつわる会社や会社の一部は消えスリムなものとなるでしょう。
企業は一つの団体となり何処で何がどのくらい必要であるかを管理し
必要な物が滞らないように、無駄が出ないようにすればよいのです。
・科学や世界の発展が遅れるのでは?
世界の意識レベルに従った科学しかあらわれません。
現状の意識レベルでは今の科学が精一杯です。
無制限に科学は進歩するのではないのです。
意識レベルに従った科学や技術が開発されるのです。
もし社会の意識レベルが上がれば、
一段上の科学の理論が生まれ、それに従い全てが向上するでしょう。
また今は利益につながる研究にしかお金は集まりません。
お金につながらない研究や莫大な資金が必要な研究は滞っております。
資源がただで人件費がただであるなら、全てはただあるのが道理です。
どんな研究開発にもお金はかからないのです。
みんなが利益を取るから全ては高価となり結局、
誰の利益にもつながらないのです。
みんなが利益を取るから得ることが難しくなるのです。
必要な物を必要なぐらい作り出し全ての人が得られるように
すれば自分も全てを手に入れることが出来るのです。
完全なリサイクルを行えば大量消費にはならないのです。
リサイクルを行えない様なエネルギーなどは代替エネルギーを
見つけ出せばよいのです。
研究開発費と対立がなければ出来るはずです。
今の世界が生み出す物は利益につながるもので無くてはならず
おのずと制限があります。
お金のためでないとき人間が生み出す、物であれサービスであれ
何の制限もないが故に芸術となるのです。
将来人類は太陽系を超え宇宙に羽ばたく日が来ることでしょう。
意識の改革が起こればあたらしい科学の理論が生まれ
それが可能となります。
逆に言えば宇宙に羽ばたくためには宇宙意識が
あらわれる必要が有ると言うことです。
今の意識レベルの人間が宇宙に羽ばたくことを宇宙は歓迎しないのです。
本当に世界は上手くできているのです。
全てを手に入れるためには全てを手に入れ無いと言ういう意識レベルが
必要になるのですから。
一切の生き物を害しても地獄に落ち無いと言うレベルになるためには
一切の生き物を害さ無いと言う意識レベルが必要になるのです。
本当の意味で何かを手に入れるためには、何かを所有し無いと言う意識レベルが
必要になり、全てを手に入れられるころには、
全てを所有しない自己となっているのです。
一切の生き物を害しても地獄に落ちないころには
一切の生き物を害せない自己となっているのです。
一切を所有するためには、一切を所有しないことが必要であり、
一切の生き物を害しても地獄に落ち無い為には、
一切の生き物を害さないようになる必要があるのです。
本当にこの世界は上手くできております。
神仏の計画としか言いようがないのです。
続く
メリット、デメリット追記いたします。
2012/04/29
13:07:33
犯罪対策
お金を無くせで、貧困対策は犯罪対策になると
お話したしましたが少し掘り下げて取り上げてみます。
この貧困対策と不平等対策が完全であるときと言う
条件付ですが、
貧困対策と不平等対策が犯罪を無くします。
完全である時とはどの様なことか、お話して見ましょう。
何時もは真理から語りますが、今回は出来るだけ
心理から語ります。
貧困対策と不平等対策が犯罪を無くすと言うと
常識だあたりまえだと、お思いになる方もいるとおも思いますが
わたしの語る貧困と平等は人間の常識を超えているので
最後までお読みください。
貧困と平等と語りましたが困っている人を
物理的に精神的に助けてあげるという
言葉を置き換えたのですのでここからは困っている人を
助けるという言葉を使います。
困るということが無ければ人は走りません。
現在でも貧困対策が犯罪抑止に一定の効果を上げているのは
このためです。
まず困っている人は二つに分けられます。
自己責任とは言えない理由で現状困っている人と
自己責任で困っている人です。
自己責任などないのですがここでは、
ここでは人間の視点に立って有ると言う立場でお話いたします。
・自己責任とは言えない理由で困っている人とは。
持って生まれた貧困によるもの
事故や災害によるもの等が考えられます。
・自己責任による困っている人とは。
浪費癖がありその為による多重債務とか
株取引の失敗とか
誰かにお金を貸し困っているとか
事業の失敗とか
犯罪を犯し困っている人などいくらでも考えられると思いまが
要するに自己原因により困っている人です。
この様に大きく分けて二通りの困っている人がいますが
問題は困っている人を原因で分け自己責任とは言えなく
困っている人には同情的であり。
自己責任で困っている人には制裁的に対応していることです。
例えば犯罪を犯して困っている人を誰が同情的に対応していますか。
被害者には同情的であり
加害者には制裁的で有りませんか?
犯罪を犯す者も犯罪を犯してはいけない事位は
誰でも分かっているのです。
それでも犯してしまうのです。
ここが今の心理学の貧弱なところです。
だれも犯罪を犯したくはないのです。
犯してしまうというのが本当なのです。
自己が選んで犯罪を行うのではないのです。
それが一番よい道だと感じてしまうのです。
ここでこの犯罪を行うことが一番の道だと感じるのです。
感じてしまうことに誰の責任が有ると言うのでしょう。
それがよいと思ってしまうから行っているだけです。
その原因は色々な原因が考えられますが
結果的にそれがよいと思ってしまうのです。
今の犯罪対策は犯罪を行うことはリスクが伴うと
感じさせることで犯罪を減らそうというものです。
このリスクをいくら高めても限界があります。
このリスクをリスクと感じない精神状態に成ったとき
犯罪は行われることでしょう。
また裁くと言うことでより困難な状態に成り
犯罪を犯しやすくもなることでしょう。
裁くことは困った人をまた生み出すからです。
そもそも思いが我々の自由になるのでしょうか?
何かで苦しんでいる人に苦しむなといい
苦しみから逃れられますか?
愛している人を即座に嫌いになったり
嫌いな人を即座に愛したり出来ますか?
思いは自由にならないのです。
我々は怒らないと思っても必ず怒ってしまいます。
思いからの束縛を簡単には無くせないのです。
誰もがそうであるようにその時の思いに従って行為する
ことはしかたが無いことなのです。
例え犯罪であったとしてもです。
愛する人を即座に嫌いになれないのと
犯罪を犯してしまうのは同じなのです。
分かっていても止められないのです。
このことを理解して始めて犯罪対策が出来るのです。
思いが自由にならない以上この視点から見ても
自己責任は無いと言う事です。
困っている人は自己責任によるものも
自己責任ではないように見えるものも
どちらも自己責任では無いと言うことなのです。
もし自分ならどんなことがあっても、
犯罪は犯しませんと言うかもしれません。
そうです状態が異なるから貴方なら犯罪を犯さないかもしれません
ですが貴方が犯罪を行った者の状態に成れば犯すのです。
もしわたしならと考えるのは過ちなのです。
わたしならと言う時、相手の立場に立っていないからです。
あくまでわたしの立場なのです。
自己の価値観で相手を判断しているのです。
わたしは犯罪を犯した人の立場に立てば犯罪を行うでしょう。
それはその人が犯罪を犯したからです。
わたしはその人であり、その人はわたしであるのだから、
わたしがその人の価値判断で判断すれば同じ判断をするのです。
その人がわたしであるのだからわたしは行うはずなのです。
相手の立場に立って物を見、物を考えるとはそう言うことです。
わたしならと考えるのはその人の立場には立っていないこと
の証です。誰であってもその人になれば同じことを行うのです。
わたしを持ち込まず相手になって考えることが出来れば、
同情的になれるのです。これが慈悲です。
そもそも困っている人を原因によって分別すること事態が
おかしいのです。
自己責任に見えたとしても、そうでないように見えたとしても
困っていることにかわりはないのです。
我々が自己責任と思えてしまう人にも同情的に
なることが出来るのなら犯罪は徐々に減って行くことでしょう。
その最大の対策はお金をなくすことです。
詳しくはお金を無くせを見てください。
犯罪の被害者も加害者も同じように
同情されるべき人たちなのです。
被害者に同情して加害者を裁き続ける限り
犯罪はなくならないのです。
犯罪と言うものも個人がわるいのではないのです。
世界が一体となり互いに影響を与えあい
自我とか価値判断は世界が作るのだから
それに基づき行われる行為が個人の責任では
ないのです。
みずからの自我とか価値判断を誰か自分が好んで
作ったという方はおられますか?
もし自分が作った物なら自分の自由になるはずです。
愛する者を即座に嫌いに出来たり
苦しみを即座に消し去ったり
即座に他の人になることも自由自在に出来るはずです。
自我や価値判断をみずからでは変えることが出来ないから
人は苦しむのです。
自我や価値判断とは世界から個に見える者に与えられた物なのです。
自我や価値判断で何が選ばれようとも個の責任ではないのです。
世界の責任であり、わたしたち全ての者の責任なのです。
世界の我々全員が反省をする必要があるのです。
この世界は我々が困っている人を助けないために
このような世界になっているのです。
この様に自己責任と言う差別で人を区別していること
困っている人を助けられないことが今の様な世界を生み続け
結果的に苦しみは自分に帰ってくるのです。
困っている人を助け無いと言う行為が因となり
苦しみを受けているのです。
人を差別することなく救うことが自己を救うことなのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わたしは何かの宗教を信じている人こそまずこのことを
理解し実践する必要があると考えます。
教えは全てわたしが語るように語っているからです。
このように実践できないで世界にそれを実現しようと努力しないなら
宗教の人とはいわないし、神仏は貴方のそばにはいないから
宗教などやめるべきです。
自分の悟りとか解脱とか自分の幸せとかしか求められないなら
神仏は貴方のそばにはいないのです。
自分の悟りも解脱も自分のためでありまた人のためであるのですが
人のために生きることがそのまま解脱なのです。
それは、わたしを失うことが解脱だからです。
特に宗教を生業としている方は人のために生きることの意味を
知らなくてはなりません。
この世界の最も高い視点から見ればどれもこれも
神仏の動きなのですがそれでは世界は変わらないから
人間の視点から語らせていただきました。
これが無分別の分別です。
見つつ見ずです。
わたしは誰も裁かず語っているのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この人間の視点から世界を観たとしても、
裁かれるべき人は誰もいないのです。
本性に罪は無く。
どの視点から見たとしても本性と同じ性質を持っているのです。
今回書いた内容は切が無いのであまり細かなところまで
踏み込まずあっさり書きました細かなことは
ご自分で御考え下さるようにお願いいたします。
お金を無くせで、貧困対策は犯罪対策になると
お話したしましたが少し掘り下げて取り上げてみます。
この貧困対策と不平等対策が完全であるときと言う
条件付ですが、
貧困対策と不平等対策が犯罪を無くします。
完全である時とはどの様なことか、お話して見ましょう。
何時もは真理から語りますが、今回は出来るだけ
心理から語ります。
貧困対策と不平等対策が犯罪を無くすと言うと
常識だあたりまえだと、お思いになる方もいるとおも思いますが
わたしの語る貧困と平等は人間の常識を超えているので
最後までお読みください。
貧困と平等と語りましたが困っている人を
物理的に精神的に助けてあげるという
言葉を置き換えたのですのでここからは困っている人を
助けるという言葉を使います。
困るということが無ければ人は走りません。
現在でも貧困対策が犯罪抑止に一定の効果を上げているのは
このためです。
まず困っている人は二つに分けられます。
自己責任とは言えない理由で現状困っている人と
自己責任で困っている人です。
自己責任などないのですがここでは、
ここでは人間の視点に立って有ると言う立場でお話いたします。
・自己責任とは言えない理由で困っている人とは。
持って生まれた貧困によるもの
事故や災害によるもの等が考えられます。
・自己責任による困っている人とは。
浪費癖がありその為による多重債務とか
株取引の失敗とか
誰かにお金を貸し困っているとか
事業の失敗とか
犯罪を犯し困っている人などいくらでも考えられると思いまが
要するに自己原因により困っている人です。
この様に大きく分けて二通りの困っている人がいますが
問題は困っている人を原因で分け自己責任とは言えなく
困っている人には同情的であり。
自己責任で困っている人には制裁的に対応していることです。
例えば犯罪を犯して困っている人を誰が同情的に対応していますか。
被害者には同情的であり
加害者には制裁的で有りませんか?
犯罪を犯す者も犯罪を犯してはいけない事位は
誰でも分かっているのです。
それでも犯してしまうのです。
ここが今の心理学の貧弱なところです。
だれも犯罪を犯したくはないのです。
犯してしまうというのが本当なのです。
自己が選んで犯罪を行うのではないのです。
それが一番よい道だと感じてしまうのです。
ここでこの犯罪を行うことが一番の道だと感じるのです。
感じてしまうことに誰の責任が有ると言うのでしょう。
それがよいと思ってしまうから行っているだけです。
その原因は色々な原因が考えられますが
結果的にそれがよいと思ってしまうのです。
今の犯罪対策は犯罪を行うことはリスクが伴うと
感じさせることで犯罪を減らそうというものです。
このリスクをいくら高めても限界があります。
このリスクをリスクと感じない精神状態に成ったとき
犯罪は行われることでしょう。
また裁くと言うことでより困難な状態に成り
犯罪を犯しやすくもなることでしょう。
裁くことは困った人をまた生み出すからです。
そもそも思いが我々の自由になるのでしょうか?
何かで苦しんでいる人に苦しむなといい
苦しみから逃れられますか?
愛している人を即座に嫌いになったり
嫌いな人を即座に愛したり出来ますか?
思いは自由にならないのです。
我々は怒らないと思っても必ず怒ってしまいます。
思いからの束縛を簡単には無くせないのです。
誰もがそうであるようにその時の思いに従って行為する
ことはしかたが無いことなのです。
例え犯罪であったとしてもです。
愛する人を即座に嫌いになれないのと
犯罪を犯してしまうのは同じなのです。
分かっていても止められないのです。
このことを理解して始めて犯罪対策が出来るのです。
思いが自由にならない以上この視点から見ても
自己責任は無いと言う事です。
困っている人は自己責任によるものも
自己責任ではないように見えるものも
どちらも自己責任では無いと言うことなのです。
もし自分ならどんなことがあっても、
犯罪は犯しませんと言うかもしれません。
そうです状態が異なるから貴方なら犯罪を犯さないかもしれません
ですが貴方が犯罪を行った者の状態に成れば犯すのです。
もしわたしならと考えるのは過ちなのです。
わたしならと言う時、相手の立場に立っていないからです。
あくまでわたしの立場なのです。
自己の価値観で相手を判断しているのです。
わたしは犯罪を犯した人の立場に立てば犯罪を行うでしょう。
それはその人が犯罪を犯したからです。
わたしはその人であり、その人はわたしであるのだから、
わたしがその人の価値判断で判断すれば同じ判断をするのです。
その人がわたしであるのだからわたしは行うはずなのです。
相手の立場に立って物を見、物を考えるとはそう言うことです。
わたしならと考えるのはその人の立場には立っていないこと
の証です。誰であってもその人になれば同じことを行うのです。
わたしを持ち込まず相手になって考えることが出来れば、
同情的になれるのです。これが慈悲です。
そもそも困っている人を原因によって分別すること事態が
おかしいのです。
自己責任に見えたとしても、そうでないように見えたとしても
困っていることにかわりはないのです。
我々が自己責任と思えてしまう人にも同情的に
なることが出来るのなら犯罪は徐々に減って行くことでしょう。
その最大の対策はお金をなくすことです。
詳しくはお金を無くせを見てください。
犯罪の被害者も加害者も同じように
同情されるべき人たちなのです。
被害者に同情して加害者を裁き続ける限り
犯罪はなくならないのです。
犯罪と言うものも個人がわるいのではないのです。
世界が一体となり互いに影響を与えあい
自我とか価値判断は世界が作るのだから
それに基づき行われる行為が個人の責任では
ないのです。
みずからの自我とか価値判断を誰か自分が好んで
作ったという方はおられますか?
もし自分が作った物なら自分の自由になるはずです。
愛する者を即座に嫌いに出来たり
苦しみを即座に消し去ったり
即座に他の人になることも自由自在に出来るはずです。
自我や価値判断をみずからでは変えることが出来ないから
人は苦しむのです。
自我や価値判断とは世界から個に見える者に与えられた物なのです。
自我や価値判断で何が選ばれようとも個の責任ではないのです。
世界の責任であり、わたしたち全ての者の責任なのです。
世界の我々全員が反省をする必要があるのです。
この世界は我々が困っている人を助けないために
このような世界になっているのです。
この様に自己責任と言う差別で人を区別していること
困っている人を助けられないことが今の様な世界を生み続け
結果的に苦しみは自分に帰ってくるのです。
困っている人を助け無いと言う行為が因となり
苦しみを受けているのです。
人を差別することなく救うことが自己を救うことなのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わたしは何かの宗教を信じている人こそまずこのことを
理解し実践する必要があると考えます。
教えは全てわたしが語るように語っているからです。
このように実践できないで世界にそれを実現しようと努力しないなら
宗教の人とはいわないし、神仏は貴方のそばにはいないから
宗教などやめるべきです。
自分の悟りとか解脱とか自分の幸せとかしか求められないなら
神仏は貴方のそばにはいないのです。
自分の悟りも解脱も自分のためでありまた人のためであるのですが
人のために生きることがそのまま解脱なのです。
それは、わたしを失うことが解脱だからです。
特に宗教を生業としている方は人のために生きることの意味を
知らなくてはなりません。
この世界の最も高い視点から見ればどれもこれも
神仏の動きなのですがそれでは世界は変わらないから
人間の視点から語らせていただきました。
これが無分別の分別です。
見つつ見ずです。
わたしは誰も裁かず語っているのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この人間の視点から世界を観たとしても、
裁かれるべき人は誰もいないのです。
本性に罪は無く。
どの視点から見たとしても本性と同じ性質を持っているのです。
今回書いた内容は切が無いのであまり細かなところまで
踏み込まずあっさり書きました細かなことは
ご自分で御考え下さるようにお願いいたします。
2012/05/12
11:43:05
物の値段は0円
元々資源と言うのは、誰の物でもなくただであります。
資源に価値は在りません。
我々の働きが奉仕ならそこにお金は発生しません。
如何なる物も0円であるのです。
これが本来の物の価値です。
資源を自分の物と思いなしそれに価格を付け
自分の働きにも価格を付けると物には価格が付いてきます。
本来如何して資源に価格を付け自分の働きに価格を付けたのでしょうか?
必要な物を、欲しい物を手に入れる為に、お金が必要だからです。
本来0円である物に価格を付け、欲しい物を手に入れようとする為に
物に価格が付き、ほしい物を全て手に入れる事が困難に成ったのです。
本来欲しい物を手に入れる為に資源に働きに価格を付けたのに
その価格を付けた事がほしい物を手に入れさせないという
馬鹿げた事が起きているのです。
ほしい物を欲しいだけ手に入れたいから貪り、
無理をするのです。
欲しい物を欲しいだけ手に入れたいから敵を作り戦うのです。
欲しい物を、欲しいだけ手に入れたいから、犯罪に手を染めるのです。
欲しい物を、欲しいだけ手に入れたいから競争をするのです。
如何して人間は気づかないのでしょう。
資源に値段をつけるのを止め
自らの働きに値段を付けるのを止めればこの世の一切は0円になり。
何でも、いくらでも、欲しいだけ、手にする事ができるのです。
満足するほど手に入れる事ができるのです。
人は何時でも何でも手に入れる事ができると思うと必要な物以外を
欲しがる事はなくなります。
道端の石を限りなく拾い集める人はいないのです。
お金を如何にして手に入れるかを人は捜し求め競うあいます。
その結果本来誰の為にも成らない必要でない仕事が生まれます。
この世の80%以上の仕事または仕事の一部は必要ないものです。
欲しい物を欲しいだけ手に入れたいから、その結果無駄な仕事が
膨大に膨れ上がり、我々の働きは無駄な物だらけと成っているのです。
本当に欲しい物を手に入れたいなら考え方を変えなければなりません。
それで無ければ全ての人が欲しい物を手にする事は不可能です。
我々は本来お金が必要だったのではありません。
欲しい物が欲しかっただけなのです。
それなら欲しい物が手に入ればよいのですから
物の価値を本来の0円に戻せば全ては解決するのです。
本来必要でない仕事をしている人が必要な仕事をし
必要な物が不足しないようにし
リサイクル率を限りなく100%近づけ
手に入らないから、欲しがるという欲望がおさまれば
何も問題は起きる事はありません。
リサイクル率もお金の制限で進まないのです。
本来、我々はお金が必要なのではないのです。
欲しい物が手に入ればそれでよいのです。
お金の制限がなくなれば商品は限りなくもっと
よい物となることでしょう。
利益を得るために商品にはお金の制限がかかっているからです。
交通事故という物も限りなく0に近づいていくことでしょう。
今は開発と商品化には利益を上げるという制限があるからです。
人間は本来の意味を見失い馬鹿げた事を誰も気づかず
行い続けております。
本当に馬鹿な生き物です。
今世界を見てみるとこの馬鹿げた人間の行いで
多くの人が生活するのも困難だとい状態を生み出し
また生みさし続けております。
この多くの人の困難な状態を終わらせるために早くお気づきなさい。
必要でない犠牲はいらないのです。
わたしは、今皆さんが利益を取るのを止めなさいと
言っているのではないのです。
今の世界を本来の目的に沿った世界に
変えればよいと言っているのです。
世界を本来の目的に立ち帰させればよいのです。
我々はお金が必要なのではないのです。
欲しい物を手に入れるために全てに価格を付ける事が
欲しい手に入れる事を困難にする。
これでは目的を達成するための物が目的を阻むと言うことになります。
悟りや解脱とその教えや方法と同じです。
悟りや解脱もその教えや方法がまた邪魔になるものです。
今回は、我々はお金が必要なのでは無いと言うお話をいたしました。
必要な物が物の値段は0円
元々資源と言うのは、誰の物でもなくただであります。
資源に価値は在りません。
我々の働きが奉仕ならそこにお金は発生しません。
如何なる物も0円であるのです。
これが本来の物の価値です。
資源を自分の物と思いなしそれに価格を付け
自分の働きにも価格を付けると物には価格が付いてきます。
本来如何して資源に価格を付け自分の働きに価格を付けたのでしょうか?
必要な物を、欲しい物を手に入れる為に、お金が必要だからです。
本来0円である物に価格を付け、欲しい物を手に入れようとする為に
物に価格が付き、ほしい物を全て手に入れる事が困難に成ったのです。
本来欲しい物を手に入れる為に資源に働きに価格を付けたのに
その価格を付けた事がほしい物を手に入れさせないという
馬鹿げた事が起きているのです。
ほしい物を欲しいだけ手に入れたいから貪り、
無理をするのです。
欲しい物を欲しいだけ手に入れたいから敵を作り戦うのです。
欲しい物を、欲しいだけ手に入れたいから、犯罪に手を染めるのです。
欲しい物を、欲しいだけ手に入れたいから競争をするのです。
如何して人間は気づかないのでしょう。
資源に値段をつけるのを止め
自らの働きに値段を付けるのを止めればこの世の一切は0円になり。
何でも、いくらでも、欲しいだけ、手にする事ができるのです。
満足するほど手に入れる事ができるのです。
人は何時でも何でも手に入れる事ができると思うと必要な物以外を
欲しがる事はなくなります。
道端の石を限りなく拾い集める人はいないのです。
お金を如何にして手に入れるかを人は捜し求め競うあいます。
その結果本来誰の為にも成らない必要でない仕事が生まれます。
この世の80%以上の仕事または仕事の一部は必要ないものです。
欲しい物を欲しいだけ手に入れたいから、その結果無駄な仕事が
膨大に膨れ上がり、我々の働きは無駄な物だらけと成っているのです。
本当に欲しい物を手に入れたいなら考え方を変えなければなりません。
それで無ければ全ての人が欲しい物を手にする事は不可能です。
我々は本来お金が必要だったのではありません。
欲しい物が欲しかっただけなのです。
それなら欲しい物が手に入ればよいのですから
物の価値を本来の0円に戻せば全ては解決するのです。
本来必要でない仕事をしている人が必要な仕事をし
必要な物が不足しないようにし
リサイクル率を限りなく100%近づけ
手に入らないから、欲しがるという欲望がおさまれば
何も問題は起きる事はありません。
リサイクル率もお金の制限で進まないのです。
本来、我々はお金が必要なのではないのです。
欲しい物が手に入ればそれでよいのです。
お金の制限がなくなれば商品は限りなくもっと
よい物となることでしょう。
利益を得るために商品にはお金の制限がかかっているからです。
交通事故という物も限りなく0に近づいていくことでしょう。
今は開発と商品化には利益を上げるという制限があるからです。
人間は本来の意味を見失い馬鹿げた事を誰も気づかず
行い続けております。
本当に馬鹿な生き物です。
今世界を見てみるとこの馬鹿げた人間の行いで
多くの人が生活するのも困難だとい状態を生み出し
また生みさし続けております。
この多くの人の困難な状態を終わらせるために早くお気づきなさい。
必要でない犠牲はいらないのです。
わたしは、今皆さんが利益を取るのを止めなさいと
言っているのではないのです。
今の世界を本来の目的に沿った世界に
変えればよいと言っているのです。
世界を本来の目的に立ち帰させればよいのです。
我々はお金が必要なのではないのです。
欲しい物を手に入れるために全てに価格を付ける事が
欲しい手に入れる事を困難にする。
これでは目的を達成するための物が目的を阻むと言うことになります。
悟りや解脱とその教えや方法と同じです。
悟りや解脱もその教えや方法がまた邪魔になるものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今回は、我々はお金が必要なのでは無いと言うお話をいたしました。
必要な物が、欲しい物が手に入ればそれでいいのであって。
欲しい物を手に入れる為に価格を付けて来た事が
手に入れる事を困難にしているというお話です。
誰でも何でも手に入れる事ができるのなら
失う恐怖と、手に入れる事ができない恐怖は
消え去り。見得も成立しないから
必要以上のものを求める欲望も静まるのです。
そうすれば気にかかることが減り
解脱も身近な物と成る事でしょう。
元々資源と言うのは、誰の物でもなくただであります。
資源に価値は在りません。
我々の働きが奉仕ならそこにお金は発生しません。
如何なる物も0円であるのです。
これが本来の物の価値です。
資源を自分の物と思いなしそれに価格を付け
自分の働きにも価格を付けると物には価格が付いてきます。
本来如何して資源に価格を付け自分の働きに価格を付けたのでしょうか?
必要な物を、欲しい物を手に入れる為に、お金が必要だからです。
本来0円である物に価格を付け、欲しい物を手に入れようとする為に
物に価格が付き、ほしい物を全て手に入れる事が困難に成ったのです。
本来欲しい物を手に入れる為に資源に働きに価格を付けたのに
その価格を付けた事がほしい物を手に入れさせないという
馬鹿げた事が起きているのです。
ほしい物を欲しいだけ手に入れたいから貪り、
無理をするのです。
欲しい物を欲しいだけ手に入れたいから敵を作り戦うのです。
欲しい物を、欲しいだけ手に入れたいから、犯罪に手を染めるのです。
欲しい物を、欲しいだけ手に入れたいから競争をするのです。
如何して人間は気づかないのでしょう。
資源に値段をつけるのを止め
自らの働きに値段を付けるのを止めればこの世の一切は0円になり。
何でも、いくらでも、欲しいだけ、手にする事ができるのです。
満足するほど手に入れる事ができるのです。
人は何時でも何でも手に入れる事ができると思うと必要な物以外を
欲しがる事はなくなります。
道端の石を限りなく拾い集める人はいないのです。
お金を如何にして手に入れるかを人は捜し求め競うあいます。
その結果本来誰の為にも成らない必要でない仕事が生まれます。
この世の80%以上の仕事または仕事の一部は必要ないものです。
欲しい物を欲しいだけ手に入れたいから、その結果無駄な仕事が
膨大に膨れ上がり、我々の働きは無駄な物だらけと成っているのです。
本当に欲しい物を手に入れたいなら考え方を変えなければなりません。
それで無ければ全ての人が欲しい物を手にする事は不可能です。
我々は本来お金が必要だったのではありません。
欲しい物が欲しかっただけなのです。
それなら欲しい物が手に入ればよいのですから
物の価値を本来の0円に戻せば全ては解決するのです。
本来必要でない仕事をしている人が必要な仕事をし
必要な物が不足しないようにし
リサイクル率を限りなく100%近づけ
手に入らないから、欲しがるという欲望がおさまれば
何も問題は起きる事はありません。
リサイクル率もお金の制限で進まないのです。
本来、我々はお金が必要なのではないのです。
欲しい物が手に入ればそれでよいのです。
お金の制限がなくなれば商品は限りなくもっと
よい物となることでしょう。
利益を得るために商品にはお金の制限がかかっているからです。
交通事故という物も限りなく0に近づいていくことでしょう。
今は開発と商品化には利益を上げるという制限があるからです。
人間は本来の意味を見失い馬鹿げた事を誰も気づかず
行い続けております。
本当に馬鹿な生き物です。
今世界を見てみるとこの馬鹿げた人間の行いで
多くの人が生活するのも困難だとい状態を生み出し
また生みさし続けております。
この多くの人の困難な状態を終わらせるために早くお気づきなさい。
必要でない犠牲はいらないのです。
わたしは、今皆さんが利益を取るのを止めなさいと
言っているのではないのです。
今の世界を本来の目的に沿った世界に
変えればよいと言っているのです。
世界を本来の目的に立ち帰させればよいのです。
我々はお金が必要なのではないのです。
欲しい物を手に入れるために全てに価格を付ける事が
欲しい手に入れる事を困難にする。
これでは目的を達成するための物が目的を阻むと言うことになります。
悟りや解脱とその教えや方法と同じです。
悟りや解脱もその教えや方法がまた邪魔になるものです。
今回は、我々はお金が必要なのでは無いと言うお話をいたしました。
必要な物が物の値段は0円
元々資源と言うのは、誰の物でもなくただであります。
資源に価値は在りません。
我々の働きが奉仕ならそこにお金は発生しません。
如何なる物も0円であるのです。
これが本来の物の価値です。
資源を自分の物と思いなしそれに価格を付け
自分の働きにも価格を付けると物には価格が付いてきます。
本来如何して資源に価格を付け自分の働きに価格を付けたのでしょうか?
必要な物を、欲しい物を手に入れる為に、お金が必要だからです。
本来0円である物に価格を付け、欲しい物を手に入れようとする為に
物に価格が付き、ほしい物を全て手に入れる事が困難に成ったのです。
本来欲しい物を手に入れる為に資源に働きに価格を付けたのに
その価格を付けた事がほしい物を手に入れさせないという
馬鹿げた事が起きているのです。
ほしい物を欲しいだけ手に入れたいから貪り、
無理をするのです。
欲しい物を欲しいだけ手に入れたいから敵を作り戦うのです。
欲しい物を、欲しいだけ手に入れたいから、犯罪に手を染めるのです。
欲しい物を、欲しいだけ手に入れたいから競争をするのです。
如何して人間は気づかないのでしょう。
資源に値段をつけるのを止め
自らの働きに値段を付けるのを止めればこの世の一切は0円になり。
何でも、いくらでも、欲しいだけ、手にする事ができるのです。
満足するほど手に入れる事ができるのです。
人は何時でも何でも手に入れる事ができると思うと必要な物以外を
欲しがる事はなくなります。
道端の石を限りなく拾い集める人はいないのです。
お金を如何にして手に入れるかを人は捜し求め競うあいます。
その結果本来誰の為にも成らない必要でない仕事が生まれます。
この世の80%以上の仕事または仕事の一部は必要ないものです。
欲しい物を欲しいだけ手に入れたいから、その結果無駄な仕事が
膨大に膨れ上がり、我々の働きは無駄な物だらけと成っているのです。
本当に欲しい物を手に入れたいなら考え方を変えなければなりません。
それで無ければ全ての人が欲しい物を手にする事は不可能です。
我々は本来お金が必要だったのではありません。
欲しい物が欲しかっただけなのです。
それなら欲しい物が手に入ればよいのですから
物の価値を本来の0円に戻せば全ては解決するのです。
本来必要でない仕事をしている人が必要な仕事をし
必要な物が不足しないようにし
リサイクル率を限りなく100%近づけ
手に入らないから、欲しがるという欲望がおさまれば
何も問題は起きる事はありません。
リサイクル率もお金の制限で進まないのです。
本来、我々はお金が必要なのではないのです。
欲しい物が手に入ればそれでよいのです。
お金の制限がなくなれば商品は限りなくもっと
よい物となることでしょう。
利益を得るために商品にはお金の制限がかかっているからです。
交通事故という物も限りなく0に近づいていくことでしょう。
今は開発と商品化には利益を上げるという制限があるからです。
人間は本来の意味を見失い馬鹿げた事を誰も気づかず
行い続けております。
本当に馬鹿な生き物です。
今世界を見てみるとこの馬鹿げた人間の行いで
多くの人が生活するのも困難だとい状態を生み出し
また生みさし続けております。
この多くの人の困難な状態を終わらせるために早くお気づきなさい。
必要でない犠牲はいらないのです。
わたしは、今皆さんが利益を取るのを止めなさいと
言っているのではないのです。
今の世界を本来の目的に沿った世界に
変えればよいと言っているのです。
世界を本来の目的に立ち帰させればよいのです。
我々はお金が必要なのではないのです。
欲しい物を手に入れるために全てに価格を付ける事が
欲しい手に入れる事を困難にする。
これでは目的を達成するための物が目的を阻むと言うことになります。
悟りや解脱とその教えや方法と同じです。
悟りや解脱もその教えや方法がまた邪魔になるものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今回は、我々はお金が必要なのでは無いと言うお話をいたしました。
必要な物が、欲しい物が手に入ればそれでいいのであって。
欲しい物を手に入れる為に価格を付けて来た事が
手に入れる事を困難にしているというお話です。
誰でも何でも手に入れる事ができるのなら
失う恐怖と、手に入れる事ができない恐怖は
消え去り。見得も成立しないから
必要以上のものを求める欲望も静まるのです。
そうすれば気にかかることが減り
解脱も身近な物と成る事でしょう。
2012/05/26
07:29:41
わたしは誰か。
わたしは誰かと言えばラマナを思い出します。
今日はわたしを探してみましょう。
人は自我を自己と思いなしております。
では自我とは何でしょう。
自我とは記憶です。
記憶から作られたこだわりの固まりが自我です。
自我をどんなに探してみてもそこに人はいないのです。
ただの記憶でありデーターです。
記憶というデーターに様々なこだわりが生まれている為に
プログラムとして機能しているのです。
もしこの自我という記憶がわたし達なら記憶が無くなったら
わたしは無くなるのでしょうか?
記憶が失われてもわたしは残るのです。
では意識が失われたらわたしは残るでしょうか?
意識が失われたらわたしも消え去ります。
自我という記憶を残したのは意識なのです。
意識が見たり聞いたりしたから自我という記憶が残ったのです。
我々は記憶ではないのです。
見たり聞いたりしている意識が生でありわたし達です。
もし誰かの記憶を貴方に移し変えることができるなら、
貴方は誰にでもなれるのです。
自我とは自己に限定を与えるのもです。
自我を取り去れば貴方は何にでも成る事が出来るのです。
自我とは意思の上に着ている服のようなものです。
服がわたし達ではないのです。
服を脱いで残るものが我々です。
わたしを身体と見るのも間違いです。
身体も意識が無ければただの肉の塊です。
自我からみても身体からみても意識が無ければわたしは
存在しないのです。
意識は個人に属する物ではありません。
宇宙の一切に共通する物です。
我々が個人である時わたしである時、個人性に属しない意識を
自覚することが出来ません。
個人でない時、わたしが無い時、無我であるとき、意識なのです。
わたしの意識を探しているうちは決して見つけ出す事はできないのです。
イエスはよいことを言いました。
人は一度生まれ変われなければ神の家を見ることはできない。
生まれ変わる為には一度死ぬ必要があるのです。
わたしを捨てて残るものが意識です。
だから仏教は無我を強調します。
わたしの意識を探すうちは見つからず
無我である時、意識なのです。
わたしをどの様にして消し去るかその方法が教えであり方法です。
わたしを消し去るのに様々な方法が説かれているのです。
自我を残したまま瞑想などの方法で
そこに向かえば死の恐怖を乗り越えなくては
なりません、自我にとって個人性に属さないこの領域は
死を意味するからです。
仏教の道を進めば智慧による道を進めば自我を智慧により
打ち壊しいくから死の恐怖をあじわう事はありません。
自我とはこだわりの集まりだからこだわりが消えれば
自我も消えるのです。ただの記憶というデーターになるのです。
ここでは説明する為に意識と言う言葉を使いましたが
本当は何かと呼べないものです。
言葉は分別する物だから言葉では表せないのです。
存在の自覚が継続するから意識ともいわれるのです。
仏教ではこれを無と言いいます。
臨在禅師はこれを名前も知らないもの真の人と言いました。
無我の境地の時表れる存在自覚これがそれです。
何もかにも全てがそこに備わっているから
無い物がないから密教では宝の山と呼びます。
空海さんは、秘蔵宝鑰の中で心の奥深く喜びが湧き出ずるところに
宝の蔵の戸があると言っております。
またこの戸の向こうはこの世と良く似ているが価値が違う
この世は価値の無い物であると語っております。
この心の奥深く喜びが湧き出るところには閉ざされた
戸が存在するのです。
この戸を開ける鍵が教えや技法なのです。
この戸の先はこの世ととても良く似ている無限の宝が存在するのです。
この戸を開けて見たくはありませんか?
わたしは誰かと言えばラマナを思い出します。
今日はわたしを探してみましょう。
人は自我を自己と思いなしております。
では自我とは何でしょう。
自我とは記憶です。
記憶から作られたこだわりの固まりが自我です。
自我をどんなに探してみてもそこに人はいないのです。
ただの記憶でありデーターです。
記憶というデーターに様々なこだわりが生まれている為に
プログラムとして機能しているのです。
もしこの自我という記憶がわたし達なら記憶が無くなったら
わたしは無くなるのでしょうか?
記憶が失われてもわたしは残るのです。
では意識が失われたらわたしは残るでしょうか?
意識が失われたらわたしも消え去ります。
自我という記憶を残したのは意識なのです。
意識が見たり聞いたりしたから自我という記憶が残ったのです。
我々は記憶ではないのです。
見たり聞いたりしている意識が生でありわたし達です。
もし誰かの記憶を貴方に移し変えることができるなら、
貴方は誰にでもなれるのです。
自我とは自己に限定を与えるのもです。
自我を取り去れば貴方は何にでも成る事が出来るのです。
自我とは意思の上に着ている服のようなものです。
服がわたし達ではないのです。
服を脱いで残るものが我々です。
わたしを身体と見るのも間違いです。
身体も意識が無ければただの肉の塊です。
自我からみても身体からみても意識が無ければわたしは
存在しないのです。
意識は個人に属する物ではありません。
宇宙の一切に共通する物です。
我々が個人である時わたしである時、個人性に属しない意識を
自覚することが出来ません。
個人でない時、わたしが無い時、無我であるとき、意識なのです。
わたしの意識を探しているうちは決して見つけ出す事はできないのです。
イエスはよいことを言いました。
人は一度生まれ変われなければ神の家を見ることはできない。
生まれ変わる為には一度死ぬ必要があるのです。
わたしを捨てて残るものが意識です。
だから仏教は無我を強調します。
わたしの意識を探すうちは見つからず
無我である時、意識なのです。
わたしをどの様にして消し去るかその方法が教えであり方法です。
わたしを消し去るのに様々な方法が説かれているのです。
自我を残したまま瞑想などの方法で
そこに向かえば死の恐怖を乗り越えなくては
なりません、自我にとって個人性に属さないこの領域は
死を意味するからです。
仏教の道を進めば智慧による道を進めば自我を智慧により
打ち壊しいくから死の恐怖をあじわう事はありません。
自我とはこだわりの集まりだからこだわりが消えれば
自我も消えるのです。ただの記憶というデーターになるのです。
ここでは説明する為に意識と言う言葉を使いましたが
本当は何かと呼べないものです。
言葉は分別する物だから言葉では表せないのです。
存在の自覚が継続するから意識ともいわれるのです。
仏教ではこれを無と言いいます。
臨在禅師はこれを名前も知らないもの真の人と言いました。
無我の境地の時表れる存在自覚これがそれです。
何もかにも全てがそこに備わっているから
無い物がないから密教では宝の山と呼びます。
空海さんは、秘蔵宝鑰の中で心の奥深く喜びが湧き出ずるところに
宝の蔵の戸があると言っております。
またこの戸の向こうはこの世と良く似ているが価値が違う
この世は価値の無い物であると語っております。
この心の奥深く喜びが湧き出るところには閉ざされた
戸が存在するのです。
この戸を開ける鍵が教えや技法なのです。
この戸の先はこの世ととても良く似ている無限の宝が存在するのです。
この戸を開けて見たくはありませんか?
2012/06/10
08:32:16
混乱と悟りと解脱
悟りとは世界というパズルを完成させるような物です。
混乱が在るときパズルのピースはめちゃくちゃに
はまっています。
ですから完成したら何が表れるのか予想も付かないのです。
めちゃくちゃにはまっている、ピースを少しずつ
正しい位置にはめて行けば徐々に全体像が見えてくるものです。
この全体像が見えてきた状態が悟りです。
パズルの全体像が見えてくるとピースのはまる位置が
見えて来る物です。
これが智慧です。
全体像が見いて来るほど知恵が生まれます。
そうやってどんどん。パズルのピースを正し位置に置いて行く
ことで悟りが深まるのです。
・混乱
様々な解脱えの道は手法により異なります。
ある教えは、無我を説き
ある教えは、真我を説き
ある教えは、仏を説き
ある教えは、神を説きます。
ある方法は、考える事を捨てろと言い
ある方法は、考えよという。
仏教の中でもその方法は様々です。
悟りを重視せず考える事を捨てる禅も在れば
悟りを重視する禅も在ります。
この様な異なりは方法の異なりから生まれます。
悟りを得なくても解脱は出来ます。
悟りを得ず解脱する場合、解脱する知るとなります。
悟りから智慧から進む場合は先ず知る続いて解脱するとなります。
この二つの道は、知ると解脱が逆さまに成るのです。
この様な世界のピースがごちゃごちゃに入り乱れて混乱を
生み出しているのです。
真我と無我は同じです。
真我とはわたしが無い時表れる者であり
真我とは、何か出ない者であり、
真我とは、何でもない者です。
何か出ない者は無であります。
また無で在る時、無であると気づいている者が真我です。
全ての教えはわたしを無くす為の物です。
方法が異なるために全く逆の性質が生まれるのです。
わたし達は無我だと言ってもどんなにわたしを捨てても
無我だと気づいているものは消し去る事ができないのです。
どんな境地であっても気づきだけは消えないのです。
気づき消えたら眠りと一緒であり価値はないのです。
涅槃と言っても静けさに気づいている者がいなければ
静けさに意味はないのです。
涅槃に無意識であるなら涅槃に何の
価値が有ると言うのでしょう
静けさを静けさだと気づいている者が在って意味があるのです。
無我が無だなどという理解が混乱なのです。
また真我をわたしなどと考える事が混乱なのです。
真我は誰でも何でもない者であり、
わたしが無い時現れるのです。
このような事を正しく理解して行くこと悟りなのです。
異なって見えてしまう混乱を消し去ることが悟りなのです。
わたしは悟りから智慧から進んできました。
だから説明できるのです。
わたしの知恵は、わたしの混乱を消し去ったから混乱を消し去る
説明が出来るのです。
不立文字をかかげて、只管禅をする事をわたしは、間違っていると
言うことはありません。
公安を説いて悟りを得ようとする禅をわたしは間違いだと言いません。
只管経典を学び悟ろうとする事をわたしは、間違いだと言いません。
神にわたしの全てを投げ出しわたしを無くす方法を
わたしは、間違いだと言いません。
この諸々な方法で解脱が成功していないのは何かが
足りないからでしょう。方法が間違っているのでは、
ないのです。
わたしが、唯一つ間違っていると言うのは、
自分の方法だけが自分の教えだけが正しと思っている人です。
この様な方はまだ混乱の中にいることを表しております。
どちらが正しとか語るのは、何も知らない証なのです。
無知である、証なのです。
あらゆる物の中に混乱が含まれております。
無我であるといいながら無我である生き方をしている人は
見受けられません、
無我と語りながら我の生活をしているのです。
個人がないと語りながら個人の成果と責任に基づき生きておられる。
これも混乱です。
無知(無明)から現れた物は智慧により解脱すると言う
宿命を持っています。
だから宇宙の全ては仏の説法なのであり、
宇宙の一切は物であれ、事であれ、生命であれ
智慧により成仏するのです。
智慧による成仏の中に智慧をつかわない成仏も在るのです。
因が無知(無明)だから、果は智慧になるのです。
生まれた者は解脱により終焉する
生が因で果が解脱です。
解脱の道は苦により始まり、
楽により終わる。
ですから、苦が因で楽が果なのです。
始まった原因が終焉するのが果なのです。
ですからこの世は無知(無明)を消し去る智慧を得るための世界であり
苦であれ悪であれ仏の説法なのです。
原因と結果の総則は原因となる問題を解決するために
それが原因となり問題を解決するという果が得られるのです。
この世界の如何なる問題も解決するために問題が起きて
いるという事です。
因果とは、対極の二つの物が結び付くという動きなのです。
無明は智慧を得る。
苦は楽を得る。
不幸は幸福を得る。
不満は満足を得る。
生は解脱を得る。
地獄は天国を得る。
因果とは全ての物には原因があることを表し、
また根源の原因が無い事を表します。
初めもなく、終わりもない事をです。
原因の原因にはまた原因がありそのまた原因がある
何処までたどっても原因があり初めが無いからです。
ですが因が解決される果という終わりはあるのです。
世界の根源的問題の解決が出来たとき世界は成仏するのです。
問題が因、解決が果なのです。
我々が過程を捉えてああだ、こうだと語るがそれはまだ過程なのです。
個々にとっては智慧を使わない成仏という方法もあるが
全体として宇宙としては智慧により成仏するのです。
智慧により全ての教えや方法を正しくパズルを
世界が完成させるとき世界は調和し世界が成仏するのです。
悟りとは世界というパズルを完成させるような物です。
混乱が在るときパズルのピースはめちゃくちゃに
はまっています。
ですから完成したら何が表れるのか予想も付かないのです。
めちゃくちゃにはまっている、ピースを少しずつ
正しい位置にはめて行けば徐々に全体像が見えてくるものです。
この全体像が見えてきた状態が悟りです。
パズルの全体像が見えてくるとピースのはまる位置が
見えて来る物です。
これが智慧です。
全体像が見いて来るほど知恵が生まれます。
そうやってどんどん。パズルのピースを正し位置に置いて行く
ことで悟りが深まるのです。
・混乱
様々な解脱えの道は手法により異なります。
ある教えは、無我を説き
ある教えは、真我を説き
ある教えは、仏を説き
ある教えは、神を説きます。
ある方法は、考える事を捨てろと言い
ある方法は、考えよという。
仏教の中でもその方法は様々です。
悟りを重視せず考える事を捨てる禅も在れば
悟りを重視する禅も在ります。
この様な異なりは方法の異なりから生まれます。
悟りを得なくても解脱は出来ます。
悟りを得ず解脱する場合、解脱する知るとなります。
悟りから智慧から進む場合は先ず知る続いて解脱するとなります。
この二つの道は、知ると解脱が逆さまに成るのです。
この様な世界のピースがごちゃごちゃに入り乱れて混乱を
生み出しているのです。
真我と無我は同じです。
真我とはわたしが無い時表れる者であり
真我とは、何か出ない者であり、
真我とは、何でもない者です。
何か出ない者は無であります。
また無で在る時、無であると気づいている者が真我です。
全ての教えはわたしを無くす為の物です。
方法が異なるために全く逆の性質が生まれるのです。
わたし達は無我だと言ってもどんなにわたしを捨てても
無我だと気づいているものは消し去る事ができないのです。
どんな境地であっても気づきだけは消えないのです。
気づき消えたら眠りと一緒であり価値はないのです。
涅槃と言っても静けさに気づいている者がいなければ
静けさに意味はないのです。
涅槃に無意識であるなら涅槃に何の
価値が有ると言うのでしょう
静けさを静けさだと気づいている者が在って意味があるのです。
無我が無だなどという理解が混乱なのです。
また真我をわたしなどと考える事が混乱なのです。
真我は誰でも何でもない者であり、
わたしが無い時現れるのです。
このような事を正しく理解して行くこと悟りなのです。
異なって見えてしまう混乱を消し去ることが悟りなのです。
わたしは悟りから智慧から進んできました。
だから説明できるのです。
わたしの知恵は、わたしの混乱を消し去ったから混乱を消し去る
説明が出来るのです。
不立文字をかかげて、只管禅をする事をわたしは、間違っていると
言うことはありません。
公安を説いて悟りを得ようとする禅をわたしは間違いだと言いません。
只管経典を学び悟ろうとする事をわたしは、間違いだと言いません。
神にわたしの全てを投げ出しわたしを無くす方法を
わたしは、間違いだと言いません。
この諸々な方法で解脱が成功していないのは何かが
足りないからでしょう。方法が間違っているのでは、
ないのです。
わたしが、唯一つ間違っていると言うのは、
自分の方法だけが自分の教えだけが正しと思っている人です。
この様な方はまだ混乱の中にいることを表しております。
どちらが正しとか語るのは、何も知らない証なのです。
無知である、証なのです。
あらゆる物の中に混乱が含まれております。
無我であるといいながら無我である生き方をしている人は
見受けられません、
無我と語りながら我の生活をしているのです。
個人がないと語りながら個人の成果と責任に基づき生きておられる。
これも混乱です。
無知(無明)から現れた物は智慧により解脱すると言う
宿命を持っています。
だから宇宙の全ては仏の説法なのであり、
宇宙の一切は物であれ、事であれ、生命であれ
智慧により成仏するのです。
智慧による成仏の中に智慧をつかわない成仏も在るのです。
因が無知(無明)だから、果は智慧になるのです。
生まれた者は解脱により終焉する
生が因で果が解脱です。
解脱の道は苦により始まり、
楽により終わる。
ですから、苦が因で楽が果なのです。
始まった原因が終焉するのが果なのです。
ですからこの世は無知(無明)を消し去る智慧を得るための世界であり
苦であれ悪であれ仏の説法なのです。
原因と結果の総則は原因となる問題を解決するために
それが原因となり問題を解決するという果が得られるのです。
この世界の如何なる問題も解決するために問題が起きて
いるという事です。
因果とは、対極の二つの物が結び付くという動きなのです。
無明は智慧を得る。
苦は楽を得る。
不幸は幸福を得る。
不満は満足を得る。
生は解脱を得る。
地獄は天国を得る。
因果とは全ての物には原因があることを表し、
また根源の原因が無い事を表します。
初めもなく、終わりもない事をです。
原因の原因にはまた原因がありそのまた原因がある
何処までたどっても原因があり初めが無いからです。
ですが因が解決される果という終わりはあるのです。
世界の根源的問題の解決が出来たとき世界は成仏するのです。
問題が因、解決が果なのです。
我々が過程を捉えてああだ、こうだと語るがそれはまだ過程なのです。
個々にとっては智慧を使わない成仏という方法もあるが
全体として宇宙としては智慧により成仏するのです。
智慧により全ての教えや方法を正しくパズルを
世界が完成させるとき世界は調和し世界が成仏するのです。
2012/06/10
18:29:47
全てが無駄
わたしは以前、何回も同じ日を
繰り返すという映画を見ました。
同じ日を繰り返す原因は忘れましたが
何回も何回も同じ日に戻るのです。
もし何年何月何日を繰り返したら
我々は毎回異なる日をおくるでしょうか?
もし繰り返す毎に異なることを選び異なる日を
おくるなら、
我々は自由です。
我々は個人であり自由意志に基づき生きている事でしょう。
もし同じ行動を毎回繰り返すなら
我々は自由ではなく
我々は個人ではなく自由意志に基づき生きてはいないでしょう。
意思に基づき行為しているがその意思は自由ではないのです。
想いに従い行為するから自由だという感覚があるだけということです。
我々の行為は記憶による価値判断から導き出されますが
この記憶はこの瞬間にも書き換えられ続けるから
考えるという行為でも判断が書き換えられ続け
それが迷いとか判断があいまいに感じるのです。
この迷いとかという物は答えを出す判断を下す
過程にすぎないのです。
今日はこの事を語るのではないのでこの辺にしておきます。
もし同じ日を何回も繰り返し、同じ事を繰り返すなら、
過去は決まっていると言う事です。
この日だけではなく、
生まれた日に戻っても同じ人生を送って来ることになります。
もし過去が決まっているなら、未来においても
我々が選ぶ事は決まっているはずです。
この様に考えると全てが無駄な事に思えてくる物です。
無駄な事だと思っているのは貴方の自我です。
自我はわたしが自由でないなら存在出来ないから
抵抗を見せるのです。
自我は決して自由ではない事を認めたくはないのです。
わたしが、消え去るからです。
ですから、自由ではないと考えると、全てが無駄に思えて
気持ちが憂鬱になるのです。
この憂鬱が自我の抵抗です。
悟りとは、光明とは真実の仕組みを知ることです。
真実の仕組みを知ることとは、全てを無駄だと知ることです。
我々の心は常に独り言を語っています。
これが無心になれない原因です。
瞑想をしていても、禅をしていても
何かしら考えています。
過去が固定されていて
未来が固定されているなら
考え事も無駄です。
自我がこの無駄に気づくと勝手に何時でも何処でも
独り言、考え事を行う事を止め始めるのです。
自我が考える事は無駄であると気がつくと
無心に至るのです。
我々は如何して何時も独り言お言い考え事を
しているのでしょうか?
瞑想をしている時も、禅をしているときも
それは止まらないのです。
その理由は考える事で何かが得られると自我が思っているからです。
ですから自我が無駄だと気が付けば止まるのです。
この先にこそ本当の自由自在があるのです。
自我の独り言、自我の考え事はそれは無駄な事だと
気づくまで続くのですが、
勝手に考えささせて置けば、勝手に無駄だという結論に至るから
捨てておけばよいのです。
これが智慧による解脱の仕組みです。
真実はわたしは自由ではないと認めたら自由自在となるのです。
それでは無駄だと気づくという事か
その先の自由自在とは何かをこれからお話いたします。
全てが無駄だと気づくという事は、身体と心の動きを
止める事も無駄だと知ることです。
求める事を止めようとしてる間は身体と心を自己と見なしていて
心の格闘の中で自由には動けないのです。
我が無くなれば求めは個人の物ではなくなり
宇宙の物であり、神仏の物なのです。
我の制限が外れると自由自在に動けるようになるのです。
この世に固定された因はありません
自由自在に動き因はその後を追いかけてくるのです。
ですから、解脱後も因果の法則に従っているが
自由自在なのです。
因が後を追いかけてくるのですがね!
過去と現在と未来、異なるところに在るのではないのです。
今全てが在るのです。
意識が様々な外の物に向けられているから
気づきが散乱しているから
今の気づきが貧弱な物と成るから
時間は経過するのです。
生においては因が先である必要はないのです。
この様な存在は流れを自由自在に生み出しそれが流れとなるのです。
全てが流れである事を知っているから、
流れ以外に何もない事を知っているから、
行う事が全て流れと成るのです。
だから因果の法に従いしかも自由自在なのです。
わたしは以前、何回も同じ日を
繰り返すという映画を見ました。
同じ日を繰り返す原因は忘れましたが
何回も何回も同じ日に戻るのです。
もし何年何月何日を繰り返したら
我々は毎回異なる日をおくるでしょうか?
もし繰り返す毎に異なることを選び異なる日を
おくるなら、
我々は自由です。
我々は個人であり自由意志に基づき生きている事でしょう。
もし同じ行動を毎回繰り返すなら
我々は自由ではなく
我々は個人ではなく自由意志に基づき生きてはいないでしょう。
意思に基づき行為しているがその意思は自由ではないのです。
想いに従い行為するから自由だという感覚があるだけということです。
我々の行為は記憶による価値判断から導き出されますが
この記憶はこの瞬間にも書き換えられ続けるから
考えるという行為でも判断が書き換えられ続け
それが迷いとか判断があいまいに感じるのです。
この迷いとかという物は答えを出す判断を下す
過程にすぎないのです。
今日はこの事を語るのではないのでこの辺にしておきます。
もし同じ日を何回も繰り返し、同じ事を繰り返すなら、
過去は決まっていると言う事です。
この日だけではなく、
生まれた日に戻っても同じ人生を送って来ることになります。
もし過去が決まっているなら、未来においても
我々が選ぶ事は決まっているはずです。
この様に考えると全てが無駄な事に思えてくる物です。
無駄な事だと思っているのは貴方の自我です。
自我はわたしが自由でないなら存在出来ないから
抵抗を見せるのです。
自我は決して自由ではない事を認めたくはないのです。
わたしが、消え去るからです。
ですから、自由ではないと考えると、全てが無駄に思えて
気持ちが憂鬱になるのです。
この憂鬱が自我の抵抗です。
悟りとは、光明とは真実の仕組みを知ることです。
真実の仕組みを知ることとは、全てを無駄だと知ることです。
我々の心は常に独り言を語っています。
これが無心になれない原因です。
瞑想をしていても、禅をしていても
何かしら考えています。
過去が固定されていて
未来が固定されているなら
考え事も無駄です。
自我がこの無駄に気づくと勝手に何時でも何処でも
独り言、考え事を行う事を止め始めるのです。
自我が考える事は無駄であると気がつくと
無心に至るのです。
我々は如何して何時も独り言お言い考え事を
しているのでしょうか?
瞑想をしている時も、禅をしているときも
それは止まらないのです。
その理由は考える事で何かが得られると自我が思っているからです。
ですから自我が無駄だと気が付けば止まるのです。
この先にこそ本当の自由自在があるのです。
自我の独り言、自我の考え事はそれは無駄な事だと
気づくまで続くのですが、
勝手に考えささせて置けば、勝手に無駄だという結論に至るから
捨てておけばよいのです。
これが智慧による解脱の仕組みです。
真実はわたしは自由ではないと認めたら自由自在となるのです。
それでは無駄だと気づくという事か
その先の自由自在とは何かをこれからお話いたします。
全てが無駄だと気づくという事は、身体と心の動きを
止める事も無駄だと知ることです。
求める事を止めようとしてる間は身体と心を自己と見なしていて
心の格闘の中で自由には動けないのです。
我が無くなれば求めは個人の物ではなくなり
宇宙の物であり、神仏の物なのです。
我の制限が外れると自由自在に動けるようになるのです。
この世に固定された因はありません
自由自在に動き因はその後を追いかけてくるのです。
ですから、解脱後も因果の法則に従っているが
自由自在なのです。
因が後を追いかけてくるのですがね!
過去と現在と未来、異なるところに在るのではないのです。
今全てが在るのです。
意識が様々な外の物に向けられているから
気づきが散乱しているから
今の気づきが貧弱な物と成るから
時間は経過するのです。
生においては因が先である必要はないのです。
この様な存在は流れを自由自在に生み出しそれが流れとなるのです。
全てが流れである事を知っているから、
流れ以外に何もない事を知っているから、
行う事が全て流れと成るのです。
だから因果の法に従いしかも自由自在なのです。
2012/07/09
05:25:24
・忍耐
瞑想や禅や智慧は計り知れないほど忍耐つよい
人を生み出します。
如何なることがあっても心が折れることはありません。
一見これは計り知れない我慢強さに見えますが
本当は一切の我慢をしていないのです。
我慢とは思いがあり思いが思い道理に
行かないとき存在します。
瞑想や禅や智慧は何からも影響を受けない
不動の心を生み出します。
この不動の心は何かに影響を受け思いを
表わす事がないのです。
不動の心を持つものは
影響を受けて現れた思いに従い行為するのではなく、
思考して行為するのです。
思いとはエネルギーであり思い道理に行かないと
我慢が必要でそれがストレスです。
不動の心を持つものは影響を受け現れる思いが無いから
我慢はしていないのです。
不動の心を持つものは如何なることがあっても
決して折れる事が無い心を持つていますが
完全にリラックスしており、一切の我慢はしていないのです。
我慢つよいのは皆さんのほうなのです。
一切の影響を受ける事のない心は影響を受けないが故に
縁起の世界から離れているのです。
何処にいるかと言うと彼岸にいるのです。涅槃にいるのです。
我慢を超えた領域に住しているのです。
瞑想や禅や智慧は計り知れないほど忍耐つよい
人を生み出します。
如何なることがあっても心が折れることはありません。
一見これは計り知れない我慢強さに見えますが
本当は一切の我慢をしていないのです。
我慢とは思いがあり思いが思い道理に
行かないとき存在します。
瞑想や禅や智慧は何からも影響を受けない
不動の心を生み出します。
この不動の心は何かに影響を受け思いを
表わす事がないのです。
不動の心を持つものは
影響を受けて現れた思いに従い行為するのではなく、
思考して行為するのです。
思いとはエネルギーであり思い道理に行かないと
我慢が必要でそれがストレスです。
不動の心を持つものは影響を受け現れる思いが無いから
我慢はしていないのです。
不動の心を持つものは如何なることがあっても
決して折れる事が無い心を持つていますが
完全にリラックスしており、一切の我慢はしていないのです。
我慢つよいのは皆さんのほうなのです。
一切の影響を受ける事のない心は影響を受けないが故に
縁起の世界から離れているのです。
何処にいるかと言うと彼岸にいるのです。涅槃にいるのです。
我慢を超えた領域に住しているのです。
2013/02/12
15:16:10
みなさん今日は。
今日は何度か質問版で書いた色即是空、空即是色を語ります。
わたしが物事の本質を見極めていたとき、
変化する物はその性質上実体がないことに気づいた、
これが色即是空である。
実体が無いとは何かが変化するその変化するもの
事態が何も無いと言うことを表わしている。
例えばこの世界とは夢や幻想と同じ性質のものだと言うことです。
一人の夢の様なものだから全ての人が同じ夢を見ていて
一人の夢なのになぜ多数が表れかと言うとこの夢を認識する意識は
認識すると言う働きを示すと六種の感覚器官を表わし世界を外側に見るから
世界には無数の個が居る様に見えるのです。
例えば夢の中でも我々は外側に世界を見るが夢の中ではもちろん
外側に世界は無かったのである。
常に意識が相対的認識をするときは外側に世界を見るのである。
相対認識であるが為に世界の個は全て固有の個性を持ち、
固有の個性を持つが故に距離が表れ
認識作用は時系列に行われる故に時間が生まれ、
全ての法則がそこに表れるのである。
この世界と言う形態を持つものはその性質上何も無い(色即是空)
という本質を持つのであると見極めたとき。
わたしは何も無いと言うことが実は実態だと気づいた。
これが空即是色である。
変化する物は変化するが故えに実体が無く夢の様なものであり、
それは相対的認識で捕らえられるものである。
だとすれば、相対的認識で捕らえられない物が実態であるのである。
実態とは一つの物で形成されていなければならない。
多で形成されていれば、形態を表わし変化することを表わすからである。
であるならば、実態とは決して相対的認識方法で認識出来ない事を表わす。
二つの物が無いからである。見る者と見られる者が無ければ
認識作用は働かないからである。
実態と言える物は我々の認識作用で科学的認識で
認識できないものが実態なのである
だから我々が何も無いと何も認識できない無が実態なのである。
無が実態だと言えると気づいたとき、
わたしはまた世界が実態であると気付いた。
相対的認識で認識できる形態のある物は実は実体が無く何も無いと言う性質を現し
何も無いと言うことは無であり、無は実は実態なのである。
形態のある物は変化するものであり何も無いと言う性質を持ち
何も無いと言う性質を持つが故えに実態だと言うことを表わすのである。
わたしはこの様に色即是空・空即是色を見極めたとき。
わたしはまたこの様に気づいた。
実態とは原因も無くその存在理由も無くただ在る無であり、
それが在ると言う理由だけでこの世界はあるがままに存在している。
それは以下に、実態とは二つの物に分かれていないが故に
認識する手段が無く故に欲求が生まれる。
この欲求が最初の求めであり、この求めが六識と言う認識器官を生み出し
外側に世界を生み出すのである。
以下に意識の相対的認識作用が六種の認識作用を持つからである。
これが十二縁起である。
世界は無であり無は実態である。
無とは実態であり相対的世界を現すのである。
それが故に何も無いと、在るは同じ意味を表わすのである。
故に無である実態があると言うただそれだけの為に世界が
生まれ維持されているのである。この時またわたしはこの様に気づいた。
無が世界を現すのは認識できないためであり相対的認識で世界を生きることで、
実態である無を認識する為に世界は存在すると気づいたこれが悟りであり
世界は悟るためにあるのだから、世界そのものが悟るという性質を示すのである。
だから世界そのものが説法なのであり、
だからそれに気づいた物たちは身口意を持って世界の悟りの為に
生きなければならないのである。
またその時わたしはこの様に気づいた。
あるがままに在るだけで世界を現すのが神の働きであり、
世界が持っている悟と言う性質が仏の働きであり
本質的にこの両者は同じものだあるのである。
この様にしてわたしは世界の全てを見極めたのである。
我々の六識による認識方法である相対的認識では実態を認識することは
決して出来ない。
だから我々が認識できる物は見ることが出来るものは対象であり主体ではなく
わたしとは異なるのである。
実態を認識するには主体的認識方法の在るを捕らえる必要があるのである。
貴方方が外に内にとわたしを探す限り決して見つかることは無い。
相対的認識では主体は決して見つからずそれを探すことが
主体的認識を邪魔するからである。
貴方方は有るでは無く、在るであるのである。
今日は何度か質問版で書いた色即是空、空即是色を語ります。
わたしが物事の本質を見極めていたとき、
変化する物はその性質上実体がないことに気づいた、
これが色即是空である。
実体が無いとは何かが変化するその変化するもの
事態が何も無いと言うことを表わしている。
例えばこの世界とは夢や幻想と同じ性質のものだと言うことです。
一人の夢の様なものだから全ての人が同じ夢を見ていて
一人の夢なのになぜ多数が表れかと言うとこの夢を認識する意識は
認識すると言う働きを示すと六種の感覚器官を表わし世界を外側に見るから
世界には無数の個が居る様に見えるのです。
例えば夢の中でも我々は外側に世界を見るが夢の中ではもちろん
外側に世界は無かったのである。
常に意識が相対的認識をするときは外側に世界を見るのである。
相対認識であるが為に世界の個は全て固有の個性を持ち、
固有の個性を持つが故に距離が表れ
認識作用は時系列に行われる故に時間が生まれ、
全ての法則がそこに表れるのである。
この世界と言う形態を持つものはその性質上何も無い(色即是空)
という本質を持つのであると見極めたとき。
わたしは何も無いと言うことが実は実態だと気づいた。
これが空即是色である。
変化する物は変化するが故えに実体が無く夢の様なものであり、
それは相対的認識で捕らえられるものである。
だとすれば、相対的認識で捕らえられない物が実態であるのである。
実態とは一つの物で形成されていなければならない。
多で形成されていれば、形態を表わし変化することを表わすからである。
であるならば、実態とは決して相対的認識方法で認識出来ない事を表わす。
二つの物が無いからである。見る者と見られる者が無ければ
認識作用は働かないからである。
実態と言える物は我々の認識作用で科学的認識で
認識できないものが実態なのである
だから我々が何も無いと何も認識できない無が実態なのである。
無が実態だと言えると気づいたとき、
わたしはまた世界が実態であると気付いた。
相対的認識で認識できる形態のある物は実は実体が無く何も無いと言う性質を現し
何も無いと言うことは無であり、無は実は実態なのである。
形態のある物は変化するものであり何も無いと言う性質を持ち
何も無いと言う性質を持つが故えに実態だと言うことを表わすのである。
わたしはこの様に色即是空・空即是色を見極めたとき。
わたしはまたこの様に気づいた。
実態とは原因も無くその存在理由も無くただ在る無であり、
それが在ると言う理由だけでこの世界はあるがままに存在している。
それは以下に、実態とは二つの物に分かれていないが故に
認識する手段が無く故に欲求が生まれる。
この欲求が最初の求めであり、この求めが六識と言う認識器官を生み出し
外側に世界を生み出すのである。
以下に意識の相対的認識作用が六種の認識作用を持つからである。
これが十二縁起である。
世界は無であり無は実態である。
無とは実態であり相対的世界を現すのである。
それが故に何も無いと、在るは同じ意味を表わすのである。
故に無である実態があると言うただそれだけの為に世界が
生まれ維持されているのである。この時またわたしはこの様に気づいた。
無が世界を現すのは認識できないためであり相対的認識で世界を生きることで、
実態である無を認識する為に世界は存在すると気づいたこれが悟りであり
世界は悟るためにあるのだから、世界そのものが悟るという性質を示すのである。
だから世界そのものが説法なのであり、
だからそれに気づいた物たちは身口意を持って世界の悟りの為に
生きなければならないのである。
またその時わたしはこの様に気づいた。
あるがままに在るだけで世界を現すのが神の働きであり、
世界が持っている悟と言う性質が仏の働きであり
本質的にこの両者は同じものだあるのである。
この様にしてわたしは世界の全てを見極めたのである。
我々の六識による認識方法である相対的認識では実態を認識することは
決して出来ない。
だから我々が認識できる物は見ることが出来るものは対象であり主体ではなく
わたしとは異なるのである。
実態を認識するには主体的認識方法の在るを捕らえる必要があるのである。
貴方方が外に内にとわたしを探す限り決して見つかることは無い。
相対的認識では主体は決して見つからずそれを探すことが
主体的認識を邪魔するからである。
貴方方は有るでは無く、在るであるのである。
2013/03/25
06:05:06
みなさん今日は。
自由と開放
人の拘りとは、人が持つ記憶の分別の全てである。
例えば、何もこだわりが無いと言う人にわたしがこの様に語る。
科学と宗教とは同じです。
善と悪とは同じです。
貴方とわたしは同じです。
仏教とキリスト教は同じです。
陰と陽は同じです。
有ると無いは同じです。
この時一体誰がその通りですと答えますか。
人はそれは異なります、と言うでしょう。
記憶の全ての分別とは拘りなのです。
ですからわたしはひっくり返すです。
ひっくり返す、の呼び名を変えると、法輪と言う。
わたしは、相手の周りで法をぐるぐる回し、
記憶の分別の全てが統一され、分別から超越したとき、
人は全面的と成り、分別から自由になる。
弥勒菩薩は三度法を説くと言われております。
ひとのこのみなさん、みなさんも、弥勒の様に三度法を説きなさい。
例えば。
悪を説き善を説き、その超越の善を説くのです。
智慧を説き、情をとき、その超越を説くのです。
仏教を説き、キリスト教を説きその超越を説くのです。
陰を説き、陽を説き、その超越を説くのです。
対極の両方を説き、その超越を説くのです。
こだわりから、三度の説法で超越できるのです。
あらゆる異なりを超越するのです。
そこに開放と自由が在る。
ひとのこの教えは超越です。
名前と形態の彼方に超越すること、超越それが教えです。
ひとのこの教えとは、真理に至る道では無い
真理自体が方法と成っているのです。
でえすから真理を悟り覚醒したり、開放されるのではないのです。
直接対極からの超越により、に開放する。
あらゆる物から自由に成るそれがひとのこの教えです。
自由とは楽だ、
もし自らが楽に成れば、人のことを一番に考えるようになる。
自分のことを考えなくては成らないことが何も無いからです。
人の苦しみで苦しむときその人は満ち足りているのです。
対極からの超越で少しでも楽に成ってきたら人のことを考えなさい。
自らが楽に成るほど人の為に動けるようになってくる。
だから超越しなさい。
そして裏、表、超越と。三度法を説きなさい。
わたしは、世界の一部として世界を変えたいと思います。
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