2011/04/14
19:00:28
宗教や信仰と言うものを嫌う人がいると思う
悟りや覚醒を求めている人の中にも、
悟りへ至る道を宗教や信仰と切り離そうとする人が見受けられる。
この様に語っている私自身も以前は論理的技法は宗教や信仰とは
別物であると思っていた。
覚醒や悟りとはある一面において全体(神仏)を見ることである。
全体を何と呼んでもかまわないが呼び名が異なっても同じものだ
と言うことを覚えておかなくてはいけない。
自我を持った人間は全体を受け入れられない正しいものと
間違ったものを作りたがるから異なる呼び名だけで異なるものと
分けたがるもので時には呼び名の違いだけで対立するのである。
伝統的宗教は全体の流れの中で時と場所により異なる言葉で
現れてきたもので、どれも間違いではない。
どれも洞察と明け渡し二つの道に至る方法であるが、自我を持った人間が
伝えてきたものであるがゆえに、解釈が真髄を見逃しつまらない事に
こだわり続けているのである。
どの宗教が優れていると言うものは無いのであって、まず至る方法に
囚われるな方法は必要な時に使い必要が無くなれば捨てるものである
悟りとは覚醒とはある一面において
自身と思っていたものを何かに全てをゆだねることである。
身体の行為は続くが自身と言う感覚は無い。
これが覚醒した存在の感覚である。
行為するものから見るものへの移行である。
全体を神を知らずして悟りはありえないのである。
行為するものは自身ではなく全体である。この全体(一者)を何と呼ぶか?
神か仏と言う以外に呼び名は見つからないのである。
宗教とは時と場所に合わせ色々な方法と言葉を使って語られた人間の
進化の方法である。悟りとは人間の進化なのである。
人間に異なる宗教があるように見えるのは人間に限定を与える
自我が在るからなのである。
必要なことは行為する者と見るものを切り離すことで、心の動きを
停止させること、如何なる時も不動の心(無心)を実現することそのために
行為するものを全体に明け渡すことが大事なのである。
その方法ではない。
人間はその方法の違いにこだわり本質を見逃している。
事実人間はどのような方法を選んでも結果的に誰でも何時かは悟りへ
到達するのである。悟りとは誰でも必ず到達する人間の進化だからなのである。
悟りや覚醒を求めている人の中にも、
悟りへ至る道を宗教や信仰と切り離そうとする人が見受けられる。
この様に語っている私自身も以前は論理的技法は宗教や信仰とは
別物であると思っていた。
覚醒や悟りとはある一面において全体(神仏)を見ることである。
全体を何と呼んでもかまわないが呼び名が異なっても同じものだ
と言うことを覚えておかなくてはいけない。
自我を持った人間は全体を受け入れられない正しいものと
間違ったものを作りたがるから異なる呼び名だけで異なるものと
分けたがるもので時には呼び名の違いだけで対立するのである。
伝統的宗教は全体の流れの中で時と場所により異なる言葉で
現れてきたもので、どれも間違いではない。
どれも洞察と明け渡し二つの道に至る方法であるが、自我を持った人間が
伝えてきたものであるがゆえに、解釈が真髄を見逃しつまらない事に
こだわり続けているのである。
どの宗教が優れていると言うものは無いのであって、まず至る方法に
囚われるな方法は必要な時に使い必要が無くなれば捨てるものである
悟りとは覚醒とはある一面において
自身と思っていたものを何かに全てをゆだねることである。
身体の行為は続くが自身と言う感覚は無い。
これが覚醒した存在の感覚である。
行為するものから見るものへの移行である。
全体を神を知らずして悟りはありえないのである。
行為するものは自身ではなく全体である。この全体(一者)を何と呼ぶか?
神か仏と言う以外に呼び名は見つからないのである。
宗教とは時と場所に合わせ色々な方法と言葉を使って語られた人間の
進化の方法である。悟りとは人間の進化なのである。
人間に異なる宗教があるように見えるのは人間に限定を与える
自我が在るからなのである。
必要なことは行為する者と見るものを切り離すことで、心の動きを
停止させること、如何なる時も不動の心(無心)を実現することそのために
行為するものを全体に明け渡すことが大事なのである。
その方法ではない。
人間はその方法の違いにこだわり本質を見逃している。
事実人間はどのような方法を選んでも結果的に誰でも何時かは悟りへ
到達するのである。悟りとは誰でも必ず到達する人間の進化だからなのである。
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2011/05/06
18:53:04
カルマと輪廻を語る意味は、真実の姿を理解し、カルマとか輪廻
と言う物に気を使う事を止め心を静めることだけに意味がある。
本来はカルマも輪廻も存在しない物である。
宇宙の全ては近い物から遠くの物へ影響を与え合いつながって生滅
変化している。そこに宇宙から切り離されて存在する個人(我)は
存在していない。
個人(我)は無い、カルマや輪廻の主体の個人(我)が無いのである。
だが人間にはカルマと輪廻は存在している。
カルマを受けるまた輪廻する主体である個人(我)が本来存在しないのに
如何して人間にカルマや輪廻があるのか。
感覚器官が指し示す印象は宇宙から切り離された個人(我)が存在するという
感覚である。この感覚が自我を作り上げ私の行為を作り上げる。
私が何かを行っていると言う思いの伴った行為は行為者がその責任を
持たなければならない、何故なのかはここでは宇宙の法則だと言っておく。
行為者は本人にその認識があるか無いかにかかわらず、
その記憶があるのか無いのかにかかわらず。行為者の
如何なる責任をも記録しているのである。
この記録は個人を超えたつながりの中に存在している。
私がいてその行為が私が行うものだと言う思いがカルマを作り上げるのである。
個人(我)と言う錯覚を消し去る事が解脱と言うものである。
これがカルマである。
輪廻とはこのカルマによりもたらされるのである。
個人と言う思いがある限り逃れる事は出来ない。
良い事であれ悪いことであれ私が行っているとの思いの元に
行われる行為はその報いを受ける事になるのである。
だが忘れてはいけない、カルマも輪廻も、全ての物は
つながって生滅変化するの縦糸である縦糸だけを抜き取る事は
出来ないのだ、カルマと言うもの自体つながっているのである。
苦しみは心の動きである。
心の動きは執着によりおきる。
執着の原因は我執である。
我執は感覚器官が指し示す個人(我)と言う感覚(錯覚)より現れる、
自我が我執である。
この様に全ての原因は個人(我)が存在するという錯覚なのである。
個人(我)と言う錯覚が自我を作る。
自我が作る世界は不調和の世界である故にこの世界の如何なる問題も
個人(我)と言う感覚が原因なのである。
原因も分からず世界の問題を解決出来るのであろうか、
だから人間は如何なる問題も根本的な解決はできていないのである。
感覚器官が指し示す、個人(我)は存在せず無い様に見える全体(神仏)だけが
存在しているのである。
山も川も石ころさへ生きている、宇宙は全体で命なのである。
だからどんな事を行うときでも私が行っていると一瞬たりとも
思ってはいけないと言うのである。
全体(神仏)だけがありほかには何も存在していないのである。
我々はこの瞬間も無我なのである。
と言う物に気を使う事を止め心を静めることだけに意味がある。
本来はカルマも輪廻も存在しない物である。
宇宙の全ては近い物から遠くの物へ影響を与え合いつながって生滅
変化している。そこに宇宙から切り離されて存在する個人(我)は
存在していない。
個人(我)は無い、カルマや輪廻の主体の個人(我)が無いのである。
だが人間にはカルマと輪廻は存在している。
カルマを受けるまた輪廻する主体である個人(我)が本来存在しないのに
如何して人間にカルマや輪廻があるのか。
感覚器官が指し示す印象は宇宙から切り離された個人(我)が存在するという
感覚である。この感覚が自我を作り上げ私の行為を作り上げる。
私が何かを行っていると言う思いの伴った行為は行為者がその責任を
持たなければならない、何故なのかはここでは宇宙の法則だと言っておく。
行為者は本人にその認識があるか無いかにかかわらず、
その記憶があるのか無いのかにかかわらず。行為者の
如何なる責任をも記録しているのである。
この記録は個人を超えたつながりの中に存在している。
私がいてその行為が私が行うものだと言う思いがカルマを作り上げるのである。
個人(我)と言う錯覚を消し去る事が解脱と言うものである。
これがカルマである。
輪廻とはこのカルマによりもたらされるのである。
個人と言う思いがある限り逃れる事は出来ない。
良い事であれ悪いことであれ私が行っているとの思いの元に
行われる行為はその報いを受ける事になるのである。
だが忘れてはいけない、カルマも輪廻も、全ての物は
つながって生滅変化するの縦糸である縦糸だけを抜き取る事は
出来ないのだ、カルマと言うもの自体つながっているのである。
苦しみは心の動きである。
心の動きは執着によりおきる。
執着の原因は我執である。
我執は感覚器官が指し示す個人(我)と言う感覚(錯覚)より現れる、
自我が我執である。
この様に全ての原因は個人(我)が存在するという錯覚なのである。
個人(我)と言う錯覚が自我を作る。
自我が作る世界は不調和の世界である故にこの世界の如何なる問題も
個人(我)と言う感覚が原因なのである。
原因も分からず世界の問題を解決出来るのであろうか、
だから人間は如何なる問題も根本的な解決はできていないのである。
感覚器官が指し示す、個人(我)は存在せず無い様に見える全体(神仏)だけが
存在しているのである。
山も川も石ころさへ生きている、宇宙は全体で命なのである。
だからどんな事を行うときでも私が行っていると一瞬たりとも
思ってはいけないと言うのである。
全体(神仏)だけがありほかには何も存在していないのである。
我々はこの瞬間も無我なのである。
2011/05/12
15:30:34
人間の知恵とは物事を分けて分けて考える事である。
悟りとは物事のつながりを悟る事である。
禅や一部の瞑想の中で心を静めてゆくと、あまりにも静かな心故に
溶け去るとはその領域は如何なる分離も無いから溶け去ると言っているのである。
その領域に意識を持って溶け去ることが悟りになるという事である。
この領域は全てが含まれているが故に在るのか無いのかを超えている。
在るのか無いのかと言うことは見る者と見られるものと言う分離があって
成立するものである。
認識作用も見るものと見られる物との分離があって初めて成り立つのである。
見るものしか他に何も無い時、何を見るというのだろうか。
無我とは分離が無い事をあらわし認識作用が働かない事を表し、
全てのものが含まれており、一つだと言う事を意味している。
そう無我とは在るとか無いとかを超えていると言うことなのである。
無我と言うのも自身が無我であると気づいている者は何なのであろうか?
無我であるなら、無我であると気づいているものさえい無いのではないのか。
無我であると、気づいているのは意識である。無我とは分離されてい無い
意識そのものになる事である。
在るという感覚だけが継続する意識になるのである。
アートマンとは、真我と語られる事もあるが、
何でもないもの(無我)の呼び名である。
また心の動きを停止させた後に残る意識である。
この真我とも呼ばれるアートマンとは意識であり、呼び名を
変えれば無我なのである。
無我もアートマンも実は呼び名が違うだけである。
どちらも、無我であり無我とは、全ての分離が無いということを
あらわし見るものと見られるものがいないことを表している。
在るのか無いのかを超えているということである。
在るのか無いのかを超えた全てが含まれている意識を、
方や無我と語り方やアートマン(ブラフマン)と呼んでいる。
実はこの二つの言葉は意味も全く逆になっている。
教えのこの様な異なりは人間が多用だからなのです。
・無我
無我とは分離を超えているものは、そもそも認識作用が働かない故
在るとはいえない、と言うことである。
・アートマン
在るのか無いのかを超え認識作用が働かないとはいえ、実在である。
分離が無いため如何なる動きも変化も無く永遠に存在するものとし
アートマン(真我)我々の真実の姿であるとしたのである。
アートマンは我がない!無我だなんて知りたくも無いと言う人に
向いているが、無我ないだなんて知りたくも無い人は真我(アートマン)
を実現した時は私は消えている事を知らないのである。
無我を強調する者は。
無我は完全に執着を認めない言葉である。
無我になれば自然に自身の本来の姿はあらわになるのであり、
在るのか無いのかを超えた無を在るとした場合は無ではなく
あるものとなり執着の原因になる。
自我への執着がアートマンへの執着に変わると言う危険を帯びている
自我をそのままアートマンと言う名前に変えてしまう場合もある。
自我がしがみ付く物を排除しているのである。
私がここで語りたい事は正にこの事なのである。
全ての悟りへ導く教えは私が消える事を前提にしている。
正に私を消すためにだけ教えはあるのである。
アートマンも誰かがアートマン(真我)に成るのではない
誰かが消え去り、アートマン(真我)が表れるのである。
私が語っている、貴方は全体であると言う事も貴方は存在してい無い
と言っているのである。
私が消えなければ貴方は何一つ手にする事は出来ない。
私が消え去れば貴方は宇宙の一切になるのである。
貴方が消え去り貴方が残るこれが本来の貴方なのである。
宇宙の一切である貴方が。
多くの人と出会いたいから私の語ることが何かのお役に立てましたら
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悟りとは物事のつながりを悟る事である。
禅や一部の瞑想の中で心を静めてゆくと、あまりにも静かな心故に
溶け去るとはその領域は如何なる分離も無いから溶け去ると言っているのである。
その領域に意識を持って溶け去ることが悟りになるという事である。
この領域は全てが含まれているが故に在るのか無いのかを超えている。
在るのか無いのかと言うことは見る者と見られるものと言う分離があって
成立するものである。
認識作用も見るものと見られる物との分離があって初めて成り立つのである。
見るものしか他に何も無い時、何を見るというのだろうか。
無我とは分離が無い事をあらわし認識作用が働かない事を表し、
全てのものが含まれており、一つだと言う事を意味している。
そう無我とは在るとか無いとかを超えていると言うことなのである。
無我と言うのも自身が無我であると気づいている者は何なのであろうか?
無我であるなら、無我であると気づいているものさえい無いのではないのか。
無我であると、気づいているのは意識である。無我とは分離されてい無い
意識そのものになる事である。
在るという感覚だけが継続する意識になるのである。
アートマンとは、真我と語られる事もあるが、
何でもないもの(無我)の呼び名である。
また心の動きを停止させた後に残る意識である。
この真我とも呼ばれるアートマンとは意識であり、呼び名を
変えれば無我なのである。
無我もアートマンも実は呼び名が違うだけである。
どちらも、無我であり無我とは、全ての分離が無いということを
あらわし見るものと見られるものがいないことを表している。
在るのか無いのかを超えているということである。
在るのか無いのかを超えた全てが含まれている意識を、
方や無我と語り方やアートマン(ブラフマン)と呼んでいる。
実はこの二つの言葉は意味も全く逆になっている。
教えのこの様な異なりは人間が多用だからなのです。
・無我
無我とは分離を超えているものは、そもそも認識作用が働かない故
在るとはいえない、と言うことである。
・アートマン
在るのか無いのかを超え認識作用が働かないとはいえ、実在である。
分離が無いため如何なる動きも変化も無く永遠に存在するものとし
アートマン(真我)我々の真実の姿であるとしたのである。
アートマンは我がない!無我だなんて知りたくも無いと言う人に
向いているが、無我ないだなんて知りたくも無い人は真我(アートマン)
を実現した時は私は消えている事を知らないのである。
無我を強調する者は。
無我は完全に執着を認めない言葉である。
無我になれば自然に自身の本来の姿はあらわになるのであり、
在るのか無いのかを超えた無を在るとした場合は無ではなく
あるものとなり執着の原因になる。
自我への執着がアートマンへの執着に変わると言う危険を帯びている
自我をそのままアートマンと言う名前に変えてしまう場合もある。
自我がしがみ付く物を排除しているのである。
私がここで語りたい事は正にこの事なのである。
全ての悟りへ導く教えは私が消える事を前提にしている。
正に私を消すためにだけ教えはあるのである。
アートマンも誰かがアートマン(真我)に成るのではない
誰かが消え去り、アートマン(真我)が表れるのである。
私が語っている、貴方は全体であると言う事も貴方は存在してい無い
と言っているのである。
私が消えなければ貴方は何一つ手にする事は出来ない。
私が消え去れば貴方は宇宙の一切になるのである。
貴方が消え去り貴方が残るこれが本来の貴方なのである。
宇宙の一切である貴方が。
多くの人と出会いたいから私の語ることが何かのお役に立てましたら
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