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大乗それは偉大な乗り物、万人を乗せる救済の船
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文字サイズ文字サイズ:大文字サイズ:中文字サイズ:小
2011/05/21
23:13:40
あなたは幼い時から、あなたであった、
今もあなたであるはずだ。
でも幼い時から、好みは変わり、価値観は変化し
自我も変化しているはずである。
身体ももちろん変化している。
それでも(わたし)と言う感覚は変わっていないはずだ。
今までわたしという感覚が入れ替わったことはないのである。
わたしが消え、新しいわたしという感覚が生まれ
などなり得ないのである。
幼い時から、死に至るまで、わたしという感覚は同じなのだ
もっと言えば生まれ変わっても自我と身体は変われどわたしという感覚は
変わらず同じわたしが在るのである。


言葉にすることをせず、考えずわたしを感じてごらん
わたしを感じたかな!
考えると、自我や身体と思ってしまう。
考えず感じるのである。
自我と身体という変化する実態を持たないものと異なる変化しない
わたしを捉えるのである。
このわたしを捉えることが出来たらそれが真実のわたしだと知りなさい。
永遠に変化することなくあり続けるわたしである。
在る、なにがわたしがのわたしである。

自我とはわたしという感覚が感覚器官を通して世界を認識すると
個人という感覚が立ち現われる、この個人という感覚が自我を作り上げている
感覚器官が在るように見せる錯覚により自我が作られるのである。
全体(神)だけがあり個人は存在していない。
個人と見えるものは全て同じわたしであり、宇宙の一切も
このわたしなのである。

わたしはわたしで在る。
あなた方の真実の名前である。

表面的何が変わろうがわたしであるという感覚は
変化していない。
変わらず在るわたしと言う感覚は在るという感覚から
立ち現れまる。
在ると言うい感覚が(わたし)と言う感覚の元である。

この自我でも身体でもない(わたし)と言う感覚は
全ての生命に共通の感覚である。
在るという感覚は宇宙の一切に共通のものなのだ。

わたしが自我の死、わたしが死にわたしが生まれるというのは
このためである。わたしと言う感覚は自我と身体とは元々
異なるのだ。どこまで言ってもわたしはわたしなのである。
このわたしは生死にも影響を受けることはない
永遠に続くわたしなのである。

このわたしと言う感覚は誰のわたしと言う感覚も共通の
わたしなのである。人が異なっているのは身体と自我だけなのである。

即ち、他の者は異なる自我と身体という洋服を着た私なのである。

自我と身体を離れたわたしと言う感覚は誰のわたしでも
同じわたしなのである。


自我や価値観がわたしと受け入れた場合のみ異なる
個人が存在しているのである。

あなたが感じているわたしと、他のものが感じるわたしは
同じわたしなのだ。
このことを深く感じることが慈悲と愛をうむ。

宇宙と道に転がる小石とも自分は異なるものではないことを
知っているからだ。

この在ると言う感覚を見出そうというものが真我の探求と
言われるもので。わたしわたしの立ち現れる元を
見出そうと言うものである。

自我でないわたし、身体でないわたしが永遠にあり続ける
わたしは在ると言う感覚でだ。
このわたしは自我の死、身体の死に影響をうけないのだ。

自我が死んだとき始めてその全体像が姿を現すのです。
他のものとわたしのわたしは同じわたしであると言う
事を深く感じれば感じるほどに自分勝手は薄れていく。


この世界は同じわたしが苦しみを与え合っていると言うことですが
責められるべき個人も褒められるべき個人も存在して
いないのだ。自分が自分に行っていることだから。

こんな事は馬鹿馬鹿しいと思わないかね!

そもそも現在の社会は、他人がいることで成り立っている。
自分の行いでもしかすると苦しむ人がいるかもしれないが
それは他人であり自分の満足が優先であるという前提により
成り立っている。

そうでなければ資本主義自体が成り立たないのではないかね!
世界が複数の自分だけであるとき如何してし資本主義が成り立つのであろう。
そもそもお金自体が必要かね!

わたしが語ることの姿を想像してみるがよい
その姿がその社会が調和の世界である。
人間の認識が変わればこの世界の如何なる問題も全て解決されるのである。


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19:04:06
現在の日本のを見て見ると政治は益々混迷を深めている。
我々は政治家に何かを期待しているがそれを叶えられる
政治家はいない。

先ず無理な願いを求めていることを理解しなくてはいけない
政治家は自分達の事しか考えてはいないと言うが、
自分達のこと意外を考える人がいるのであろうか?

人と言うのはどんなに良く見える人でも自己中心的な者である。
自我から現われる目的は必ず自己中心的ものだからである。


我々が良いことをする時の動機を自分で探ってみるとその陰に隠れた
自己中心性が見えるはずである。
言葉の陰に隠れた動機を見てみるといい。
我々は常に言葉を置き換えている。
誰かにそのようにしてほしいことを、あなたの為だとか。
ほしいものを、ほしいとは言わず、綺麗な言葉に置き換える。
複数の自己中心的理由でほしいものを、愛だとか呼ぶが
言葉の奥に隠れているものを見てみなさい。
人間の愛とは複数のほしい理由の総体が愛なのである
人間とは誰でも同じだ、相手も同じ理由であるから
何の問題も無い。


だが人間は誰かにそれを求めるできもしないことを求めて
だれかに自己中心性が見えると批判する。
だれでも表面を装っているだけで誰でも自己中心的なのだ。
一見自己中心的に見えないのは自己中心性は一見違う行動に
一見違う言葉に置き換えられるからである。
自我とは何かを得るためにしか行動はしないのである。
善行を行うためであっても、功徳を得るためであったり
満足を得るためであり、何かを得るために行動をするのが
人間である。

先ず人と言うものはそう言う者なのだと言う事を理解しなくてはいけない
それは誰の責任でもないのである、そういうものなのだから。


世界の動きも真実は誰のせいでもない。
今の日本が世界がどのような物であろうと
誰かの責任ではないのだ。
如何して誰の責任でもないと言うのか。


何かを誰かの責任にしそれを追求することこそが自己中心性の表れなのだ
我々の総意が日本を動かしてきたのである。
如何して誰か個人の責任なのだろう。
ましてや全ては互いに影響を与え合い繋がって動いていると言うのに
個人に責任があるはずも無い。


何かの問題を追及し誰かに責任を負わせること自体がこの今の不調和の世界を
作り上げているのである。


問題を解決するために責任の所在をはっきりさせることが
問題を解決できなくしているのである。


政治家が誰から誰に変われば問題が解決すると言うものではない。
我々自身が変われなくては何も変わらないのである。

全ては全体の問題であって問題を個人的にしない事が繋がると言うことである。

一つになろう日本と言うが責任のなすり合いを続けていて
如何して一つになれるのか?
繋がるためには全てを全体の問題として考えること以外に
方法は無いのである。責任の有無を誰にも押し付けず誰かの
問題は自分の問題と思うことこそ繋がると言うことである
全体意識が必要なのである。
誰かの問題は我々全てのものの問題なのである。


責任の追及は対立しか生まないのである。
正義よりも真実よりも対立しないことのほうが大事なのだ
本当の真実とは対立を超えているものなのだから。
繋がるという事をもう一度考えていただきたい。



ある存在は裁く無かれと言った、人は誰かを自分を裁くことを
止めただけでも、各人はそれぞれの道をとおり悟りへ向かうのである。

21:02:20
個人と世界の覚醒

・個人の覚醒
感覚器官が指し示す、宇宙から切り離された個人がいると言う
感覚により、自我が作られる。

この自我に囚われると自分が世界の中心だと錯覚し愚かな行為
を繰り返す。この自我が作り出す世界は自我の性質上自己中心的
個人が作る世界であるが故に不調和の世界となる。

その愚行が苦しくなると、知恵が働き、自分の存在は周りのもの
のおかげであり、自分は生かされている存在なのだと覚醒していく

この覚醒の究極が生かされているだけではなく、
世界は互いに影響を与え合って繋がって生滅、
変化している一つのものであり、個人(我)など存在しないと
縁起の悟に繋がっていく。

この悟りの後に自身を操作しないこと、自身の運転を止めること
悟りになることを学ぶことになる。自身を運転することは、
我々のもっとも古い癖であるが故に運転を止めることには時間がかかるが、
終には、大空をかける鯉のぼりの様になる。

大空をかける鯉のぼりは、どのような思いも無く意思も無く大空をかける。
究極に達した存在は何の思いも無く、
何の意思も持たずに世間で行為する。これが悟りになると言うことである。
我々が自身の運転を止めたからと言って行為は止まらないのである。
世界は繋がっているからである。

正しくは、そのような存在は、行為を宇宙の、
全体の行為と見ているのである。

このように個人の悟りは達成されるが、
これは自然な動きなのである。
確かに悟りに達するためには、
個人の努力のように見える努力が必要である
だが初めから個人の努力などと呼べるものではなく、
全体の自然な動きなのである。


悟りは過去の全ての成果であり、
過去の全ての出来事は如何なるものであっても必要であったこと
を知ることになる。過去の全てを認めるようになるのである。
過去がそうであったように、今起きていることも、避けられないものだ
と言う認識が肝を座らせ、不満を消し去る。
最後には不動の心を生むのである。



・世界の覚醒
世界の覚醒も個人の覚醒と全く同じ道を通る。
自我に囚われた個人が作り上げる世界は不調和の世界である。
自我はその性質上自己中心的だからである。
この個人が作る世界は愚行を繰り返すが終いには苦しくなり
覚醒しやすい状態の存在を大量に作り始める。
個人が作る社会が広がっていくにつれ、
個人の利益はあい反し始めるが社会の繋がりも深くなっていき、
個人の利益だけを追求することでは
個人の利益とはならなくなってくる。
社会のつながりが深くなっていくにつれ、他の人、他の家、他の団体、
他の企業、他の国の状態が自分にも影響を与え始めるからである。
やがて、個人の利益を追求すること自体が難しくなるのである。
社会のつながりと、個人の利益にはさまれ身動き取れなくなるのである。

こうして全体を理解する準備が整う状態の個人を大量に生み始め、
覚醒した存在がある一定数を超えると調和の世界が訪れるのである。
これも自然な全体の動きなのである。


--------------------------------------------------


現状の世界で個人の利益を捨てることは難しいだろう。
只の損と感じるからである。
全体は何処に向かっているのか、それが自分の利益につながるのかを
理解することが必要であり、初めは六割全体のため、自分のため四割
徐々に全体のため七割、個人のため三割と減らしていけばよいのである。
今何が大事か覚醒したもの、覚醒しそうなものがつながることが大事なのだ。

現在、個人は対立し家は対立し、企業は対立し、宗教は対立し
国は対立している。どの問題も簡単に解決できないように見えるが、
全体の流れであればこそ、そんなに難しくも無い。


悟りとは全ての対立の彼方にあり、
悟りを得れば、過去・現在・未来のの如何なる対立も調和するのである。

自然に訪れる調和の世界とは地上に天国を作ること
地上を神の国となすことこれが神(全体)の意思なき意思である。
全体の流れなのである。
流れには決まった向きがあるこの向きが思いなき神の思いであり
意思なき神の意思なのである。

21:11:57
わたしは普段全ての事は必要だから起きる
決して避けることは出来ないことだと語っている。
これはどんな災害も、どんな悲惨な事件も、どんな
犠牲も、必要だったのだから、避けられないのだからと
何も感じるなと言っているのでは無いのである。


確かに起きてしまったことは避けられなかったからこそ
おきたのであり結果的に必要であった事は間違いないが
この考え方に冷たさを多くの人は感じるかもしれない。


わたしはわたしが出来る精一杯のことを遣るべきことを
遣っているのである。
これだけしか問題を解決する方法が無いからである。
わたしが語っているおきることは決して避けられない
それは必要だからおこるのであり必要だからおこるのだと
言うことは、決して無条件に犠牲を受け入れているのではないだ。


個人の覚醒のために社会の覚醒のために起きたということは必要であった
と言っているのである。
逆から言えば、個人の覚醒が社会の覚醒が早おこれば犠牲は
少なくてすむと言うことである。


これからも個人の覚醒が社会の覚醒がおきない限り大きな犠牲は
続きつすけることだろう。


世界と言うものは人間が動かし続けていけば滅びるのである。
だが必要な時に必要なところに聖なる存在が現われ軌道をわずかに
変えていくことにより存続するのである。


教えがわずかに人間の進む道の軌道を変えているのである。
-----------------------------------------------------
・釈迦の悟りを得た物語から。
真理が難解であり、教えを説くことに迷いが生じた時。
天から神々の声が響いた。
〔あ世界は破滅する。ああ・・・・・〕
-----------------------------------------------------
過去の聖なる存在の教えがわずかに人の選ぶ道を修整しているのである。


どの様な事がおきても無駄ではないと言うのはそれを生かすことが
前提なのだ。



今回の大震災で大変沢山の人が犠牲になりました。
犠牲者の方とその親族と友人に心からお悔やみ申し上げたい。


またこの大震災の外側にいる方にお聞きしたい我々は
一体何時まで、どのくらい犠牲が増えるまで
夢の中で生きているのですか?
本当にそれで良いのですか?
一体何時目覚めるのですか?


今回の震災だけではありません。
一年間に何人の人が自分で命を捨て
何人の人が適切な医療を受けられず命を失っているか
一体何人の人が事件事故争いで命を落としているか
飢餓で命を落としている人も世界には沢山いるのです。
全てをあわせると一体どの位の人が今の社会のシステムにより
命を失っているかお分かりですか?


この全てが生きている我々の犠牲なのです。
犠牲はそれを生かしてこそ意味をもっのです。
わたしがおきたことは、おきることは必要だから
おきると言うのは、それを生かしてこそ真実になるのです。
このような事を無駄にしないために我々は目覚めなくては
ならないのです。


犠牲を無駄にした時死は死となり。
犠牲を生かしたとき死は生となるのです。


わたしは、わたしたちに、も一度お聞きしたい
我々はほんとにこれで良いのですか?
何時まで幻想の中で生きているのですか?


我々が目覚めれば世界は変わるのです。
それをやるのは政治家ではないのです。
我々一人一人が目覚めて始めて社会の覚醒は
成立するのです。


何を遣っても無駄だと感じるのは人まかせに、
政治家任せに、自分以外の誰かにそれを求めている
からなのです。


友愛を掲げる総理が何も出来ませんでした。
これは我々に取り一人が目覚めていないから
友愛すら機能しないのです。


-------------------------------------------------
ベトナムの禅師ティク・ナット・ハン氏の言葉。

もしこのまま地球を痛め続けたら、人類の文明もやがて
滅びることは、必至です。
この様な方向転換を行うには、悟りと目覚めが必要です。

ブッタは個人の目覚めに到達しました。今わたしたちは
破壊の道をくい止めるために、集団的悟りを必要としています。

今必要なのは何かの悟りを持つ人間が手を上げてつながっていく事
我必要です。
この困難な社会の状況を変えていけるのは集団的目覚めこそが
唯一の方法なのです。
-------------------------------------------------
TM瞑想の創始者である、マハリシ・マヘーシュは
全人口の数%の人が瞑想体験をすれば世界は調和的に
変わっていくと言う信念のもと単身アメリカにわたり
欲を利用することでTM瞑想を世界に広げました


この様に聖なる存在は何かの方法で人間の進む方向を
わずかに変えているのです。


個人が目覚め、社会が目覚めるための時間を作り出しているのです。


真理とは悟りとは自分を変え人を変え社会を変えるもので無くては
意味は無いのです。
何も変わらない只ピノキオのように鼻が高くなるだけの
悟りが真理がなんになるのでしょうか?


わたしはもう一度我々にお聞きしたい
私たちは何時まで沢山の犠牲を必要としなくては
いけないのでしょうか?
何時まで犠牲を無駄にしておかなくてはいけないのでしょうか?
貴方は何時まで眠り続けているのですか?


最後に確か宮沢賢治から
世界の全体が幸せでないなら個人の幸せはありえない。


我々は個人の幸せの追求の先に全体の幸せがあるような幻想を
抱いているが個人の幸せの追求の先には全体の幸せは無いのである。
だけでなく、個人の幸せ自体も個人の幸せの追求の先には無いのである。
個人の幸せと地上天国は全体の幸せを前提として成り立つのである。
全体が幸せであるならだれでも幸せなのだ。
それを邪魔するものは無いのである。
それなのに如何して個人の幸せを追求するのか?



何かの目覚めを悟りを得ている人は是非手を上げていただきたい。
人はだれでもその悟りの段階に従い行えることがあるのです。
いや貴方でなければ行えないことがあるのです。
だからこそ貴方は今ここにいるのです。
必要の無いものはないからです。


このメッセージは定期的に最新記事として記載し続けます。
目覚めかけている人へのメッセージだからです。

14:10:49
世界を単純化する。




世界の利権が複雑に絡み合い何をすることも
誰かの反対にあり右に行くことも左に行くことも
前に進むことも後ろに戻ることも出来ない時。




何かを行うと誰かの損となり
又異なることを行うとまた誰かの損となる
複雑に絡み合った利権が一切の動きを封じる時。





その時はお金を無くして見なされ
お金を無くせば複雑な世界は単純になるのです。
企業同士の壁は消え去り一つとなって行き
一切の競争は消えてなくなり、
人間の欲望はおさまり
人と人はつながっていくのです。




どんなに利権が複雑になって何も行えない状態に成ろうと
お金を無くし全てを無料とすることは誰の利益も損なわないのです。
どの様な宗教も根本的に人々の平等を説くものだから
どんなに対立的宗教であっても宗教的にも反対は出来ないのです。
如何なる人から見てもメリットだけでありデメリットは
無いからどんなに複雑に利権が絡み合っていてもこれだけは
可能なのです。
いや利権が複雑に絡み合って動くことが出来ないほど
意味を持つのです。
これしか方法がなくなるからです。






このお金を無くすと言う方法は如何考えても進む道が見つからない時のみ
実現される悟りから見た在るべき世界です。
道理通りの真理通りの世界の本性通りの究極の理想の世界です。
今の人間の世界は奪い合いであり野獣の世界です。
本質的に野獣の原理が働く世界です。
お金を無くせば野獣の原理その物が崩壊するのです。
野獣の世界の終末です。





そんなことをしたら大変だと思う方もいると思いますが
それが逆さまに見せるエゴのメガネの仕業です。
この方法はメリットしかないのです如何なる角度から
どんなに深く探ってもデメリットはないのです。
誰から見ても何処から見てもデメリットは無いから
複雑に利権が絡み動きが取れないときほど意味を持つのです。
これが実現されると世界にの一切の問題が自然に消えてなくなるのです。




確か日月神示で神がお金を無くせと言っていましたね!
その意味を神に代わってわたしがお話いたしましょう。
神示などと言うと嫌う人がいるかと思いますが、
わたしにはこだわりが無いからどんな立場に立っても
お話が出来るのです。誰にでも対応できるのです。
神示を信じる方には神になって、仏を信じる方には
仏となって、現実的な人には理論となって語るのです。
皆さんも心が空心であるなら、それが出来るはずです。
嫌う人もこだわらず先ずわたしの話をお聞きなされ。




個人の幸せの追求が個の幸せにはつながらないことを、
あなた方は既に知っているでしょう。
ですから家族の幸せの為にあなた方は何かを行っているのです。
家族の幸せはあなた方の幸せにつながり、
家族の苦しみはあなた方の苦しみにつながることをすでに
知っているでしょう。




実は家族だけではないのです。
宇宙の一切は間接的にまた直接的に影響を与え合うのです。
誰かの不幸はあなた方へも何かの影響をあたえるのです。
ですから個人の幸せの追求は個の幸せにはつながらないのです。
みんなの幸せを追求すればおのずと、
みずからも幸せになるものなのです。



例えば水溜りに落ちる一滴の雨水が水面にいくつもの輪を描いて
広がる波の模様である波紋のように影響は広がって行くのです。
この波紋は縁起をあらわしておりますね!
この波紋から縁起が見えますか?
世界とはつながっているのです。




何かの因は又何かの縁であり又何かの果であるのです。
宇宙には固定された因も縁も果もないのです。
全ての因も縁も果もつながって依存しあっているのです。
全ては独立してはいないのです。
宇宙の一切は依存しあって成立していて、
単独で存在できないものであり、
全ては依存して成立するから宇宙の一切が
宇宙の一切の因となるのです。
別な言葉であらわせば全ては溶け合っているのです。
始まりのない宇宙は只一つの因によるものですが
宇宙には固定された只一つの因と言うのはないのです。
ですから一つの事物は計り知れないほどの意味を持つのです。
ですから影響は広がりえるのです。




因果の法は時系列を説明するために説かれたものであり
実際には個別の因と言うもは無く全ては一つなのです。




このような理論的に縁起を語りますが
わたしに取って縁起とは理論ではないのです。
現実がそのまま縁起なのです。
現実の世界に縁起を見ているのです。
現実がそのまま縁起であるならおのずと行為は変わるものです。
行為からエゴが消え去る物なのです。
わたしとか、わたしが行っているという思いが消え去るのです。





実はお金を無くすとはわたしが考えたことでもないのです。
無明により生まれた生は感覚器官が指し示す印象に従い
個人と言う意識を持つことも自然におきることですので、
この個人の幸せの追求は世界には個人がないために行き詰るのです。
世界は初めから行き詰ることになっているのです。
自然に起きることだから
自然の成り行きといいましょうか。
自然の流れには流れる方向がありそこに意思が見えるから
神仏の計画といいましょうか。
世界は始まってもいないから、
どちらでもないといいましょうか。
個の利益の対立から生まれる、この行き詰まりが終末というものです。
世界の終末の先が新たな世界です。
世界は初めから終末を迎え新たな世界が築かれるように出来ているのです。
野獣の世界が滅び野獣を超えた新たな人間の世界が生まれるように
初めから出来ているのです。
それが見る視点の異なりから様々に語られているのです。




自然に起こると行っても生き詰まりを感じた人間による
何かの努力で世界は変わるのですよ!
自然と言うと何も行わなくてもと、あさはかな考えで
努力を放棄する人がいます。
その努力は誰のものですか?
どんなに努力していてもその努力は我々のものではないのです。
人間の努力も一段高い視点から見ると自然な物だと
わたしは語っているのです。
誰かが何かを行わなくては世界は何も変わりません。
必ず行う人があらわれるようになっているから自然だというのです。




わたしが考えたり何かを行うのではないのです。
これは自然の成り行きであり
ですから神仏の意思なのです。




さてここまで読んで苦しみは心の問題であり
世界を変えても意味はないと言う考えもあるでしょう。
それは異なるのです。
世界と心は相互に依存して成り立っております。
心が静まれば世界も静まり。
世界が静まれば心も静まるのです。
ですから本来の出家と言うものは意味があったのです。
出家しながら世界を気にいていては意味がありませんが。
世界から完全におんりすれば心は静まります。
悟りとは世界にいて世界からおんりするための物です。
努力できる人も努力できない人も共に救われる世界になるのです。
誰もが救われる世界になるのです。




メリットはお金を無くすに、続きます。

07:36:46

汝、裁くなかれ。これはご存知のようにイエスの言葉で
イエスのもっとも偉大な言葉だと思う。
この世から裁きがなくなったら誰もが目覚める世界が来る。
裁きは世界と内側の問題の全てです。


人を裁いたらその裁きは自分自身にも向けられる。
人を裁き自分を裁かないことはできないのです。
裁きは両刃の剣なのです。
後悔とは必ず後から来ます。


先に後悔が来た人はいますか?
いないだろうね、
後悔とは振り返って思うものだからね。先には来ない。
常に判断が先、後悔が後です。


なら悔やんでもしかたがないね、戻れないのだから。
この悔やむも裁きです。
過去を振り返って今に生かすのはいいが悔やむは意味がない。
悔やむは後だからね。


さて、判断を見てみよう。
判断とは今最も良いのもを選らぶですね。
要するに、その時はそれが良いと考えたと言うことだね。
もし判断が一番良いと思うことを選ぶだとすると


その時はそれが一番良いと思えたのです。
例え後から考えて間違ったと思ったとしてもです。
これはどんな犯罪者でも同じなのです。
何故犯罪者はそんなことをするのだろうと思うのは


犯罪者の判断は貴方の判断ではなかったからです。
犯罪を犯した者にとってはその時はそれが一番良いと思えたのです。
良いと思うことを当然誰でも選ぶのです。
人は良いと思うこと以外は選べないのです。


例え嫌々ながらでも嫌々ながらでもそれを選ぶのが
良いと思ったのです。
だから過ちを犯した人に何だやったのだと聞かないで。
だってその答えは良いと思ってやったしかないのです。
もし時間を巻き戻しても何度でも同じことをするのです。


常に後悔は後でその時にはそれが一番だと思えたからです。
人は良いと思うことを選ぶと言うことでは
自分の意思だから自由と言え。
良いと思うことしか選べないから不自由と言えるのです。


その時その時選ぶ基準は体験から生まれる。
もし犯罪を犯した者の体験の全てを自分が体験したら
誰でも同じことを選び犯罪を犯します。
人は生まれたときは無心であり体験以外に基準に
なり得るものはないからです。


またその体験は私たちの生み出している世界が与えたのです。
個人の責任などないのです。
理解により何故犯罪者は犯罪を犯すのだろうと思う
気持ちを捨て去ったらよい。


犯罪を無くすのは簡単です、心の仕組みを理解し
犯罪を良いと思い選ぶ体験を人に与えない世界にすればよい
裁きが犯罪を良いと選ぶ体験を与えているのです。
誰でも良いと思うこと以外選べないのです。


よりよい世界にするためには、
犯罪者も理解し愛する以外にありません。
心には普賢的仕組み法則があります。
科学は法則にしたがい何かを生み出す。


飛行機にしても車にしても物理の法則を使って作られている。
法則を無視して科学が何かを作ることはないだろう。
ところが世界は心の法則を完全に無視して作られている
だから犯罪は取り締まってもなくならない。
愚かなのです。


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2014/05/26
17:58:03
兄弟の皆さん今日は。


人は全体として一つで
人が全体の一部だと理解すればこの世は
一つの家族となります。


今でも内面的には家族で外面的には奪い合ってます。
内面的と外面的、本質的と形が一致した世界が
地上の楽園もしくは仏国土です。


今でも神しかおらず、
仏しか居ないと言うのに何時まで
内面と外面を異なるものとしておくのですか。
もう目覚める時です。
個人など始めから存在しないのです。


一緒に神やほとけの一部として働きませんか。
人は大安心にて心は安心しうろつくのをやめて
悟りに至るのです。
暴れ牛の心は大安心にて素直に成るのです。
心配が暴れ牛だからです。


そろそろ目覚めて起きて一緒に働きませんか。
友として働く人、大募集です。


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2014/08/18
17:21:12
兄弟の皆さん今日は。


人は自分に対してバカバカしいと腹のそこから思えた時
一切の個人的問題は解決に向かいます。
この腹のそこから立ち現れるバカバカしいは愛とセットの怒りです。
だからこの怒りは無くせません。


自分に対してバカバカしいと思えた彼は次に世界に対して
バカバカしいと思うでしよう。


彼はそのエネルギーを爆発まで充電中する。
このエネルギーは自然に爆発するまで貯めるほど強く爆発します。
彼はこのエネルギーが自然に爆発するまで貯めることに耐えられるのです。


なんで人は不満を一度持って不満を捨てようとするのです。


なんでも人はわざわざ苦しい世界を作り
幸せに成ろうとするのです。
なんで人はわざわざ悟れない世界を作り
悟ろうとするのです。


人々の意思次第で望む世界を生み出せると言うのに。
人々がバカバカしいと思えばこの世界はすぐに変わるのです。


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