2011/08/02
19:32:01
始めも終わりも無い世界
世界観を理解することは空と無の理解を深め
執着を弱めるので今回は密教の三部の書より吽字儀
の一部を紹介し現象界をどのようにとらえるか
探っていきます。
--------------------------------------------------
・漢字書き下し
一切の法は衆縁より生ぜざることなきをもって、
縁から生ずる者は、ことごとく始まりあり本あり。
今この能生の縁を感ずるにまたまた衆因縁より生ず
展転して縁に従わば誰をかその本となさん。
かくの如く観察する時にすなわち本不生際を知る。
これ万法の本なり。・・・・・・
もしこの本不生際を見る者は、これ実の如く自心をし知るなり
実こ如く自心を知るは、すなわちこれ一切智智なり。
・現代語釈
全てのものは、多くの条件により生じないものは無く、
したがって条件から生じているものは、
全て初めがあり本源がある。今このものを生じさせる条件に
付いて観察すると、その条件もまた多くの原因と条件に本づいて
生じている事が分かる。原因と条件が次から次えと諸条件に
したがって生じているのだから何をもってその本源と見ることが出来ようか。
このように観察すると本不生際を知るのである。これがあらゆるものの本源
なのである。・・・・・・・・・・・
本不生際を見る者は、あるがままに自らの心を知る。
あるがままに自らの心を知るとはすなわち悟りを得るに
他ならない。
本不生際は(あるがままに現れている真理の世界)
--------------------------------------------------
我々は現実と呼ぶ世界は原因は始まりがあると感じているが
縁起する(うつり変わる)世界は原因がありその原因にも
原因がありまたその原因にも原因がありどこまで行っても
その本源を見出すことが出来ない。
そう縁起する世界は初めも無く終わりも無いのである。
もし始まりがあるとすれば、それは原因の無い原因が無くては
ならないそれを本不生際と呼ぶ。
初めも無く終わりも無くただあるがままに現れている世界が
我々が現実の世界と呼ぶものなのである。
原因が無い原因とは二元性を超えていることを表す。
二元性の世界では必ず原因には原因が無くてはならないからでる。
だが二元性を超えた世界とは生死を超えていて時間も空間も超越
していることをまた表すのでありこれも初めがあるとは言えないのである。
この我々が現実と呼ぶ世界とは、
過去に世界が現れたとも言えないのである。
現在に現れているとも言えないのである。
未来に現れるとも言えないのである。
現れているとさえ言えないのである。
原因の無い原因により現れているものだからである。
原因の無い原因とは原因が無いと言うことだからであり
現象世界では原因が無いなら世界も無いと見るのである。
原因が無いものは無いのだから。
縁起、うつり変わる世界とは真理を説くために有ると説くものであり
世界をあると観て説かれたのが縁起である
世界はと聞かれたら縁起と答える縁起とは如何してあるのかと
聞かれたらあるとも無いともいえないと答える
究極的には縁起すらあると言える物では無いのであが
無いとも言える物ではない。
各教えが異なるように見えるのはことなる前提の上で
説かれている。見ている視点が異なるだけであるが
人間は何にでもこだわるから全てが異なるように見えるのである。
このこだわりが対立を生み出すのである。
対立を生み出すのは自分の理解が足りないだけであり
相手が間違っているのではないのである。
自分の内側が対立を超越しているのであれば
全てを飲み込めるはずなのである。
誰かが間違っていると感じるのであればそれを理解できないと言うことを
表すのである。自分が不完全であるだけなのである。
現実と呼ぶものはうつり変わるものであり
うつり変わるものは原因も実体も初めも終わりもない。
原因も実態も初めも終わりもない世界とは
一体どのような世界なのか考えてみては如何だろうか。
これが我々が現実と呼ぶ世界の真実である。
本不生際(あるがままに現れている真理の世界)が真実なのである。
だからこの世界は夢のようなものであると言われるのである。
このような世界の観かたは密教だけの特殊なものではない
唯識はこれと同じ見方をしている
根本経典の釈迦の言葉にも見出すことが出来るものであり
インドの他の宗教でも同じとらえ方をしているのである。
神の創造により世界が作られたと言うのも同じ見方である。
無常が永遠であり永遠が無常である
無常の集まりが永遠を作り実体が無い集まりが実態を作る
個は無常だが全体は永遠である永遠であるものは実態である
個は無常だが個は永遠である全体が永遠であるからであり
全体の中に個の形跡は残り続けるからである。
世界は実体が無いから空であり空は永遠であるから実態である
有の一面は無であるり無の一面は有である
有は変化するものであるから無であり
無はまた有でもあるのである。
本不生際と知り全てのこだわりを捨て去ることが必要なのである。
世界観を理解することは空と無の理解を深め
執着を弱めるので今回は密教の三部の書より吽字儀
の一部を紹介し現象界をどのようにとらえるか
探っていきます。
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・漢字書き下し
一切の法は衆縁より生ぜざることなきをもって、
縁から生ずる者は、ことごとく始まりあり本あり。
今この能生の縁を感ずるにまたまた衆因縁より生ず
展転して縁に従わば誰をかその本となさん。
かくの如く観察する時にすなわち本不生際を知る。
これ万法の本なり。・・・・・・
もしこの本不生際を見る者は、これ実の如く自心をし知るなり
実こ如く自心を知るは、すなわちこれ一切智智なり。
・現代語釈
全てのものは、多くの条件により生じないものは無く、
したがって条件から生じているものは、
全て初めがあり本源がある。今このものを生じさせる条件に
付いて観察すると、その条件もまた多くの原因と条件に本づいて
生じている事が分かる。原因と条件が次から次えと諸条件に
したがって生じているのだから何をもってその本源と見ることが出来ようか。
このように観察すると本不生際を知るのである。これがあらゆるものの本源
なのである。・・・・・・・・・・・
本不生際を見る者は、あるがままに自らの心を知る。
あるがままに自らの心を知るとはすなわち悟りを得るに
他ならない。
本不生際は(あるがままに現れている真理の世界)
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我々は現実と呼ぶ世界は原因は始まりがあると感じているが
縁起する(うつり変わる)世界は原因がありその原因にも
原因がありまたその原因にも原因がありどこまで行っても
その本源を見出すことが出来ない。
そう縁起する世界は初めも無く終わりも無いのである。
もし始まりがあるとすれば、それは原因の無い原因が無くては
ならないそれを本不生際と呼ぶ。
初めも無く終わりも無くただあるがままに現れている世界が
我々が現実の世界と呼ぶものなのである。
原因が無い原因とは二元性を超えていることを表す。
二元性の世界では必ず原因には原因が無くてはならないからでる。
だが二元性を超えた世界とは生死を超えていて時間も空間も超越
していることをまた表すのでありこれも初めがあるとは言えないのである。
この我々が現実と呼ぶ世界とは、
過去に世界が現れたとも言えないのである。
現在に現れているとも言えないのである。
未来に現れるとも言えないのである。
現れているとさえ言えないのである。
原因の無い原因により現れているものだからである。
原因の無い原因とは原因が無いと言うことだからであり
現象世界では原因が無いなら世界も無いと見るのである。
原因が無いものは無いのだから。
縁起、うつり変わる世界とは真理を説くために有ると説くものであり
世界をあると観て説かれたのが縁起である
世界はと聞かれたら縁起と答える縁起とは如何してあるのかと
聞かれたらあるとも無いともいえないと答える
究極的には縁起すらあると言える物では無いのであが
無いとも言える物ではない。
各教えが異なるように見えるのはことなる前提の上で
説かれている。見ている視点が異なるだけであるが
人間は何にでもこだわるから全てが異なるように見えるのである。
このこだわりが対立を生み出すのである。
対立を生み出すのは自分の理解が足りないだけであり
相手が間違っているのではないのである。
自分の内側が対立を超越しているのであれば
全てを飲み込めるはずなのである。
誰かが間違っていると感じるのであればそれを理解できないと言うことを
表すのである。自分が不完全であるだけなのである。
現実と呼ぶものはうつり変わるものであり
うつり変わるものは原因も実体も初めも終わりもない。
原因も実態も初めも終わりもない世界とは
一体どのような世界なのか考えてみては如何だろうか。
これが我々が現実と呼ぶ世界の真実である。
本不生際(あるがままに現れている真理の世界)が真実なのである。
だからこの世界は夢のようなものであると言われるのである。
このような世界の観かたは密教だけの特殊なものではない
唯識はこれと同じ見方をしている
根本経典の釈迦の言葉にも見出すことが出来るものであり
インドの他の宗教でも同じとらえ方をしているのである。
神の創造により世界が作られたと言うのも同じ見方である。
無常が永遠であり永遠が無常である
無常の集まりが永遠を作り実体が無い集まりが実態を作る
個は無常だが全体は永遠である永遠であるものは実態である
個は無常だが個は永遠である全体が永遠であるからであり
全体の中に個の形跡は残り続けるからである。
世界は実体が無いから空であり空は永遠であるから実態である
有の一面は無であるり無の一面は有である
有は変化するものであるから無であり
無はまた有でもあるのである。
本不生際と知り全てのこだわりを捨て去ることが必要なのである。
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2011/09/03
15:03:24
悪とは、宇宙を分別して主体と対象と言う対立的に見る分別意識である。
宇宙を対立的に分別し個人であると言う幻想を元に行われる行為は
どんなに善的行為に見えても、悪が不純な物が含まれてしまう。
自他を区別するという事自体が不純性を含んでいるからである。
この悪と言われる物も元は無知(無明)から現れた錯覚であり、
罪ではないが、悪なのである。
一段高い境地から見ればこの悪が世界に苦しみを作り
この苦しみで無常を知り悟りに至るのだから
苦しみで無常をしり悟りに至ると言う
過程が変わらない限り悪も苦しみも感謝すべきものであり
無くなることはない。
悟りに至る過程が変わらなければ悪が無くなっても基本的苦しみは
無くならないが悟りに至るのは今以上に困難な物となるのである。
菩薩行経から
---------------------------------------------------------
この世の苦しみは、それほどのものでなくても、
大いなる利益をわたしは為すであろう。
この世では世の中の苦しみを除く苦しみを喜ぶべきである。
6・75
---------------------------------------------------------
だから悪も苦しみも神仏の慈悲だと言うのである。
さて功徳について少し語る。
功徳、功徳と言うが何のために功徳が必要なのであるか?
功徳なんて集めて何をしたいのか。
功徳を積み上げて積み木でもするのか?
わたしが功徳を持っていれば全てくれたやるよ。
自身の未来の幸せの為に我々は善を行うと言うのかね!
だからそんなのは善ではないと言うのである。
そんなことで功徳など一つも手に入らない。
幸せな未来を来世を生み出して一体何をしたいのか。
何かを求めると言うことは輪廻を求めると言うことであるのだよ。
白い因も、黒い因も我々には必要ではない。
どちらの因も持たないことが解脱である。
その為には個人と言う意識を捨てることこそが
我々が行うべきことなのである。
個人が消えれば個人に属する全てが消え去るのである。
その功徳は個人に属さないが功徳を得ようとしないことこそが
功徳を生み出すのである。
功徳を得ようとする者には塵一つ手に入ることは無い。
この世の幸せが一体何だと言うのか。
在るがままで良いのだ。
苦しみも幸せも楽しみである。
例え今が苦しみでもこの今が在ることを神仏に感謝することである。
幸せを求める者には幸せは決して手に入らない。
幸せを求めることをやめる事が出来た時全ての瞬間が
幸せなのである。
今のこの瞬間は完全な物である。他に求めるべきことは一つとした無い。
幸せは後から何処から手に入れるものではない。
あとから手に入れるものは又失う意味の無い物である。
今のこの瞬間に完全な幸せを見出すとことが成すべきことなのである。
そとに向かう心が何かを求める心が邪魔をしている
外に向かうという心の潜在的指向をおさめることが出来た時
主体と客体が溶け合った完全な主体である無依の真の人が
現れ、瞬間の中に在る永遠を我々は知ることになる。
その時、人生においてなすべき事がなされたのである。
------------------------------------------------------
瞬間の中には時間が無く変化が無い、変化が無い瞬間が
集まり変化の世界を作り出し、また瞬間の前には
原因である瞬間がありその瞬間にもまた原因である
瞬間があり。何処までたどっても根源の原因である
瞬間を捉えることは出来ない。何処までたどっても
その瞬間には又原因である瞬間があり続けるからである。
過去か未来の瞬間と比べなくては変化は無い
どの瞬間の中にも変化を見ることが出来ない
だから世界は変化しておらず。変化を表している
根源の原因を見つけられないから。
初めがない、初めがないから終わりも無い
初めと終わりが無いから今もないのである。
今が無いからこそ世界は今ここにあるのである。
有る物の本質は無であり、無は有るを現す。
有ることが無いことであり、
無いことが有ることなのである。
世界を無と悟って全ての執着を断ち切り
無が世界であると悟って無上の慈悲を起こせ。
色即是空、空即是色
この究極の智慧(悟り)が一切のこだわりと執着を持たなず、
しかも無上の慈悲を備えた存在を生み出すのである。
陰と陽を対立せず内に共存させる存在を生み出すのである。
透き通るような清らかな眼差しを持つ存在を生み出すのである。
宇宙を対立的に分別し個人であると言う幻想を元に行われる行為は
どんなに善的行為に見えても、悪が不純な物が含まれてしまう。
自他を区別するという事自体が不純性を含んでいるからである。
この悪と言われる物も元は無知(無明)から現れた錯覚であり、
罪ではないが、悪なのである。
一段高い境地から見ればこの悪が世界に苦しみを作り
この苦しみで無常を知り悟りに至るのだから
苦しみで無常をしり悟りに至ると言う
過程が変わらない限り悪も苦しみも感謝すべきものであり
無くなることはない。
悟りに至る過程が変わらなければ悪が無くなっても基本的苦しみは
無くならないが悟りに至るのは今以上に困難な物となるのである。
菩薩行経から
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この世の苦しみは、それほどのものでなくても、
大いなる利益をわたしは為すであろう。
この世では世の中の苦しみを除く苦しみを喜ぶべきである。
6・75
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だから悪も苦しみも神仏の慈悲だと言うのである。
さて功徳について少し語る。
功徳、功徳と言うが何のために功徳が必要なのであるか?
功徳なんて集めて何をしたいのか。
功徳を積み上げて積み木でもするのか?
わたしが功徳を持っていれば全てくれたやるよ。
自身の未来の幸せの為に我々は善を行うと言うのかね!
だからそんなのは善ではないと言うのである。
そんなことで功徳など一つも手に入らない。
幸せな未来を来世を生み出して一体何をしたいのか。
何かを求めると言うことは輪廻を求めると言うことであるのだよ。
白い因も、黒い因も我々には必要ではない。
どちらの因も持たないことが解脱である。
その為には個人と言う意識を捨てることこそが
我々が行うべきことなのである。
個人が消えれば個人に属する全てが消え去るのである。
その功徳は個人に属さないが功徳を得ようとしないことこそが
功徳を生み出すのである。
功徳を得ようとする者には塵一つ手に入ることは無い。
この世の幸せが一体何だと言うのか。
在るがままで良いのだ。
苦しみも幸せも楽しみである。
例え今が苦しみでもこの今が在ることを神仏に感謝することである。
幸せを求める者には幸せは決して手に入らない。
幸せを求めることをやめる事が出来た時全ての瞬間が
幸せなのである。
今のこの瞬間は完全な物である。他に求めるべきことは一つとした無い。
幸せは後から何処から手に入れるものではない。
あとから手に入れるものは又失う意味の無い物である。
今のこの瞬間に完全な幸せを見出すとことが成すべきことなのである。
そとに向かう心が何かを求める心が邪魔をしている
外に向かうという心の潜在的指向をおさめることが出来た時
主体と客体が溶け合った完全な主体である無依の真の人が
現れ、瞬間の中に在る永遠を我々は知ることになる。
その時、人生においてなすべき事がなされたのである。
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瞬間の中には時間が無く変化が無い、変化が無い瞬間が
集まり変化の世界を作り出し、また瞬間の前には
原因である瞬間がありその瞬間にもまた原因である
瞬間があり。何処までたどっても根源の原因である
瞬間を捉えることは出来ない。何処までたどっても
その瞬間には又原因である瞬間があり続けるからである。
過去か未来の瞬間と比べなくては変化は無い
どの瞬間の中にも変化を見ることが出来ない
だから世界は変化しておらず。変化を表している
根源の原因を見つけられないから。
初めがない、初めがないから終わりも無い
初めと終わりが無いから今もないのである。
今が無いからこそ世界は今ここにあるのである。
有る物の本質は無であり、無は有るを現す。
有ることが無いことであり、
無いことが有ることなのである。
世界を無と悟って全ての執着を断ち切り
無が世界であると悟って無上の慈悲を起こせ。
色即是空、空即是色
この究極の智慧(悟り)が一切のこだわりと執着を持たなず、
しかも無上の慈悲を備えた存在を生み出すのである。
陰と陽を対立せず内に共存させる存在を生み出すのである。
透き通るような清らかな眼差しを持つ存在を生み出すのである。
2011/11/08
13:57:58
・悟りと解脱
わたしの語ることは本当はとてもシンプルなのです。
宇宙の一切は近くのものから遠くのものへ直接的に間接的に
互いに影響を与え合いつながって生滅変化しており我は存在していません。
宇宙の中に個人は存在せずわたしは存在していない。
わたしは無いと知ることが悟り光明です。
わたしは存在していないという理解を深め全ての行為の中に
わたしが含まれて無くなれば解脱です。
わたしが無いと知ることが悟りであり
わたしが滅することが解脱です。
わたしはブログの中で細々色々なことを語っています。
その全てはわたしは無いのだと言う理解を深めるためのものです。
この理解を深めるほど行為の中からわたしが消えていきます。
わたしが滅したとき解脱なのです。
因果を受けるわたしが無いからです。
このようにわたしが語る本当の意味はとてもシンプルですが、
シンプルであるものほど深い意味を持っているのです。
最もシンプルな無ほど深い意味を持つものはありません。
自我とは常に難しいものを求めます、
難しいものほど価値を感じるからです。
ですが真実はとてもシンプルなものなのです。
わたしが語ることは全く釈迦の説いたことと同じで
ありわたしが新しく考えたことではありません。
縁起の中にわたしは存在せず、
わたしが滅すると因を作るものも果を受けるものもいなくなるのです。
わたしは現代風にわたしはいないと言うことを言葉を変えて
語っているにすぎないのです
これは簡単なようで非常に難しいのです。
はわたしと言う想いのもとに考え行為することが、
我々の最も古い癖だからです。
わたしが滅すると言うと怖がる人がいるから言っておきます。
わたしが滅してもわたしが残りますこれはパラドックスですが
わたしが行為していると言う想いが消えるだけです。
わたしが行為していると言う想いがある限り行為の中から
わたしが消えないのです。行為にエゴが入るのです。
行為にエゴが入ればわたしが消えておらず因を生み続けるのです。
縁起互いに影響を与え合いつながって動く又は流れる。
この動く又は流れると言うものは動きである限り
流れである限り動く方向または流れる方向があるのです。
向きがあるのです。この方向が神か仏の意思なき意思です。
全体がつながって神又は仏の意思に従い動いているのです。
この世には神又は仏しかいないのです。
我々の動きと勘違いしてはなりません。
我々が善と呼ぶものも悪と呼ぶものも神又は仏の動きなのだから
正しいのです。
この理解から善悪を洞察したものがわたしが語る善悪の捉え方ですが
真実は全ては神又は仏の動きだから正しいというのが本心です。
わたしの語ることは本当はとてもシンプルなのです。
宇宙の一切は近くのものから遠くのものへ直接的に間接的に
互いに影響を与え合いつながって生滅変化しており我は存在していません。
宇宙の中に個人は存在せずわたしは存在していない。
わたしは無いと知ることが悟り光明です。
わたしは存在していないという理解を深め全ての行為の中に
わたしが含まれて無くなれば解脱です。
わたしが無いと知ることが悟りであり
わたしが滅することが解脱です。
わたしはブログの中で細々色々なことを語っています。
その全てはわたしは無いのだと言う理解を深めるためのものです。
この理解を深めるほど行為の中からわたしが消えていきます。
わたしが滅したとき解脱なのです。
因果を受けるわたしが無いからです。
このようにわたしが語る本当の意味はとてもシンプルですが、
シンプルであるものほど深い意味を持っているのです。
最もシンプルな無ほど深い意味を持つものはありません。
自我とは常に難しいものを求めます、
難しいものほど価値を感じるからです。
ですが真実はとてもシンプルなものなのです。
わたしが語ることは全く釈迦の説いたことと同じで
ありわたしが新しく考えたことではありません。
縁起の中にわたしは存在せず、
わたしが滅すると因を作るものも果を受けるものもいなくなるのです。
わたしは現代風にわたしはいないと言うことを言葉を変えて
語っているにすぎないのです
これは簡単なようで非常に難しいのです。
はわたしと言う想いのもとに考え行為することが、
我々の最も古い癖だからです。
わたしが滅すると言うと怖がる人がいるから言っておきます。
わたしが滅してもわたしが残りますこれはパラドックスですが
わたしが行為していると言う想いが消えるだけです。
わたしが行為していると言う想いがある限り行為の中から
わたしが消えないのです。行為にエゴが入るのです。
行為にエゴが入ればわたしが消えておらず因を生み続けるのです。
縁起互いに影響を与え合いつながって動く又は流れる。
この動く又は流れると言うものは動きである限り
流れである限り動く方向または流れる方向があるのです。
向きがあるのです。この方向が神か仏の意思なき意思です。
全体がつながって神又は仏の意思に従い動いているのです。
この世には神又は仏しかいないのです。
我々の動きと勘違いしてはなりません。
我々が善と呼ぶものも悪と呼ぶものも神又は仏の動きなのだから
正しいのです。
この理解から善悪を洞察したものがわたしが語る善悪の捉え方ですが
真実は全ては神又は仏の動きだから正しいというのが本心です。
2012/04/02
07:59:00
分別と矛盾・真ん中の道
知るという悟りの一連の流れは
物事を正しく分別しそのつながりを、全体像を見いだし
分別が消えてしまうと言うものです。
神だの仏だの何々宗だの大乗仏教だの上座仏教だの
何々教だのと言っている内は今だ分別の中に、
迷いの中にいると言うことです。
これだけが正しいと言える教えは無いのです。
全ては同じところに行く複数の道です。
世界は立体だから全く異なるように見える教えが生まれるのです。
あなたにとっての上は世界の全ての人にとっての上とは限らないように。
仏道を歩むものは仏道にこだわらず仏道を歩む必要があります。
仏道にこだわっている間は仏道にはなっていないのです。
仏道以外の何かなのです。
こだわりを捨て両極端に近寄らない真ん中の道が仏道だからです。
仏道は全てを含むものでなくてはなりません
仏道をまたは仏道と何かを分別した時それは極論であり
真ん中の道ではなくなるからです。
だから仏道が正しく伝わっている時、全てを吸収して広がったのです。
此れと此れは異なるものと言う分別と認識の足りなさが矛盾を
生み出します。
わたしは何もするなといい。
また何かをしなさいと言います。
これも大変な矛盾です。
このような矛盾はわたしの語ることのいたるところに
含まれております。
このような一見、矛盾に見えることが矛盾でなくなったとき
知るという悟りです。
知るという悟りは分別を超えます。
分別しながら無分別になるのです。
無分別でありながら分別するのです。
これも矛盾ですね。
あると言うことと無いということは同じものをあらわします。
悟りはこの世界はあるとも無いとも言えないことを知らしめるのです。
この世界はあるとも言え、無いとも言えるもので
だからあるとも無いとも言えないものなのです。
無と有が別なものと思っている内はまだ分別の中にいるのです。
無の姿が有であり、有の本質が無であるのです。
分別をせず、分別を越えるという方法もあります。
ですがこれは非常に難しいものであり
特定の条件が備わった人にしかおこることはありません。
大抵の人は知るという悟りを必要とするのです。
分別をせず、分別を超えることは超越的方法であることを
あらわします。
知るという悟りは、今いる地点から進むことをあらわし
無理が無いのです。
さてここでわたしは何を言いたいのでしょう。
一切のこだわりを捨て極論から離れることです。
宇宙が在ると言うならそれはこだわりであり、極論です。
宇宙が無いと言うならそれもこだわりであり、極論です。
宇宙は神が創ったと言ならこだわりであり、極論です。
宇宙は神が創ったものではないというならこだわりであり、極論です。
何々宗だけが正しく他はつまらないものだと言うならこだわりであり極論です。
何々教だけが正しく他はつまらないものだというならこだわり極論です。
宇宙は多がつながって一つとして変化生滅してい実態があるとも言えず
無いとも言えないものです。
宇宙はあるとも無いとも言えずバラバラとも全体とも言えない
多であり一つのものであり、実体が無い全ては空だとは言う教えは
実体が無いと言う立場で説かれた教えです。
あるのか無いのかどちらかをを前提にしなくては、説き様が無いからです。
あるのか無いのかを前提にした教えは全て方便なのです。
もっと言えば言葉は全てて方便だともいえるのです。
宇宙は一であり一でないものであり、二であり二でないものです。
こだわりを捨て極論から離れることが
分別の無分別であり無分別の分別です。
あれと此れは異なると言う思いを捨て
全体の中に流れる統一性を見いだすことです。
宇宙の全体がつながって見えたとき神仏を見ることになります。
宇宙の一切が異なる物でなくなった時、
分別が無くなり内側が全一となるのです。
宇宙があるのか無いのかを超えたとき彼岸なのです。
わたしはあるときは、有るという立場でで物事を語り
またあるときは、無いと言う立場でで物事を語ります。
決まりは無いのです。
だから矛盾に感じることもあることでしょう。
この矛盾が消えたとき知るという悟りなのです。
あなた様が分別を超え分別の無分別に達することをお祈り申し上げます。
それでは。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
無であるわたしを捕らえようとする時
あなたが静であるときわたしは動に逃げます
あなたが動であるときわたしは静に逃げます。
決して無であるわたしは捕まえようとすればするほど捕まりません。
努力では捕まえることは決して出来ないのです。
無であるわたしは努力を超えた彼岸にあるからです。
努力とは個人性の領域にのみ存在するものです。
個人性を越えた彼岸には努力は無いのです。
ですから努力と言う動力では彼岸には渡れないのです。
努力があるから彼岸に渡れていないとも言います。
努力を超えた彼岸に努力と言う動力で渡ろうとするのは
空気の無い宇宙を空気抵抗で飛ぼうとするのと似ています。
空気抵抗を動力とするプロペラ機が空気の無い宇宙を飛べる
わけが無いのです。
無であるわたしを捕まえるためには、何かの方法で
捕まえるその努力を落とすことです。
全身空っぽの風鈴は何の努力もせず音を鳴らします。
人も何の努力もせず、しかも動くことが可能なのです。
それが解脱であり心身脱落です。
人は何かの方法によらなければ常に何かの努力を行ってしまうのです。
だから無であるわたしを捉えられないのです。
ここで語るわたしとは、
有るとか無いとか、わたしとかあなたと言う分別を超えたわたしです。
もう一度それでは。
知るという悟りの一連の流れは
物事を正しく分別しそのつながりを、全体像を見いだし
分別が消えてしまうと言うものです。
神だの仏だの何々宗だの大乗仏教だの上座仏教だの
何々教だのと言っている内は今だ分別の中に、
迷いの中にいると言うことです。
これだけが正しいと言える教えは無いのです。
全ては同じところに行く複数の道です。
世界は立体だから全く異なるように見える教えが生まれるのです。
あなたにとっての上は世界の全ての人にとっての上とは限らないように。
仏道を歩むものは仏道にこだわらず仏道を歩む必要があります。
仏道にこだわっている間は仏道にはなっていないのです。
仏道以外の何かなのです。
こだわりを捨て両極端に近寄らない真ん中の道が仏道だからです。
仏道は全てを含むものでなくてはなりません
仏道をまたは仏道と何かを分別した時それは極論であり
真ん中の道ではなくなるからです。
だから仏道が正しく伝わっている時、全てを吸収して広がったのです。
此れと此れは異なるものと言う分別と認識の足りなさが矛盾を
生み出します。
わたしは何もするなといい。
また何かをしなさいと言います。
これも大変な矛盾です。
このような矛盾はわたしの語ることのいたるところに
含まれております。
このような一見、矛盾に見えることが矛盾でなくなったとき
知るという悟りです。
知るという悟りは分別を超えます。
分別しながら無分別になるのです。
無分別でありながら分別するのです。
これも矛盾ですね。
あると言うことと無いということは同じものをあらわします。
悟りはこの世界はあるとも無いとも言えないことを知らしめるのです。
この世界はあるとも言え、無いとも言えるもので
だからあるとも無いとも言えないものなのです。
無と有が別なものと思っている内はまだ分別の中にいるのです。
無の姿が有であり、有の本質が無であるのです。
分別をせず、分別を越えるという方法もあります。
ですがこれは非常に難しいものであり
特定の条件が備わった人にしかおこることはありません。
大抵の人は知るという悟りを必要とするのです。
分別をせず、分別を超えることは超越的方法であることを
あらわします。
知るという悟りは、今いる地点から進むことをあらわし
無理が無いのです。
さてここでわたしは何を言いたいのでしょう。
一切のこだわりを捨て極論から離れることです。
宇宙が在ると言うならそれはこだわりであり、極論です。
宇宙が無いと言うならそれもこだわりであり、極論です。
宇宙は神が創ったと言ならこだわりであり、極論です。
宇宙は神が創ったものではないというならこだわりであり、極論です。
何々宗だけが正しく他はつまらないものだと言うならこだわりであり極論です。
何々教だけが正しく他はつまらないものだというならこだわり極論です。
宇宙は多がつながって一つとして変化生滅してい実態があるとも言えず
無いとも言えないものです。
宇宙はあるとも無いとも言えずバラバラとも全体とも言えない
多であり一つのものであり、実体が無い全ては空だとは言う教えは
実体が無いと言う立場で説かれた教えです。
あるのか無いのかどちらかをを前提にしなくては、説き様が無いからです。
あるのか無いのかを前提にした教えは全て方便なのです。
もっと言えば言葉は全てて方便だともいえるのです。
宇宙は一であり一でないものであり、二であり二でないものです。
こだわりを捨て極論から離れることが
分別の無分別であり無分別の分別です。
あれと此れは異なると言う思いを捨て
全体の中に流れる統一性を見いだすことです。
宇宙の全体がつながって見えたとき神仏を見ることになります。
宇宙の一切が異なる物でなくなった時、
分別が無くなり内側が全一となるのです。
宇宙があるのか無いのかを超えたとき彼岸なのです。
わたしはあるときは、有るという立場でで物事を語り
またあるときは、無いと言う立場でで物事を語ります。
決まりは無いのです。
だから矛盾に感じることもあることでしょう。
この矛盾が消えたとき知るという悟りなのです。
あなた様が分別を超え分別の無分別に達することをお祈り申し上げます。
それでは。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
無であるわたしを捕らえようとする時
あなたが静であるときわたしは動に逃げます
あなたが動であるときわたしは静に逃げます。
決して無であるわたしは捕まえようとすればするほど捕まりません。
努力では捕まえることは決して出来ないのです。
無であるわたしは努力を超えた彼岸にあるからです。
努力とは個人性の領域にのみ存在するものです。
個人性を越えた彼岸には努力は無いのです。
ですから努力と言う動力では彼岸には渡れないのです。
努力があるから彼岸に渡れていないとも言います。
努力を超えた彼岸に努力と言う動力で渡ろうとするのは
空気の無い宇宙を空気抵抗で飛ぼうとするのと似ています。
空気抵抗を動力とするプロペラ機が空気の無い宇宙を飛べる
わけが無いのです。
無であるわたしを捕まえるためには、何かの方法で
捕まえるその努力を落とすことです。
全身空っぽの風鈴は何の努力もせず音を鳴らします。
人も何の努力もせず、しかも動くことが可能なのです。
それが解脱であり心身脱落です。
人は何かの方法によらなければ常に何かの努力を行ってしまうのです。
だから無であるわたしを捉えられないのです。
ここで語るわたしとは、
有るとか無いとか、わたしとかあなたと言う分別を超えたわたしです。
もう一度それでは。
2012/04/04
14:21:15
こだわりが無いことが中道
ここまで何回かにわたりこだわりなさるな
と語ってきました。
今日はお釈迦様の最古の教えに近いと言われる
スッタニパータよりお釈迦様の言葉をご紹介いたします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
人が何かに依拠してその他のものはつまらぬものであると
見なすならば、それは実にこだわりである、と
真理に達した人々は語る。
それ故に修行者は、見たこと、学んだこと、思索したこと、
または戒律や道徳にこだわってはならない。
スッタニパータ798
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
思いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。
智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。
思いと見解に固執した人々は他人と激突しながら、
世の中をうろつく。
スッタニパータ847
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
マーガンディヤよ。
わたしはこのことを説くと言うことがわたしにはない。
諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、
諸々の見解における過誤をみて、
固守することなく、省察しつつ内心の安らぎを見た。
スッタニパータ837
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
たとえばはすの葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の
水が汚されないように、それと同じく聖者は、
見たり学んだり思索したどんなことについても、
汚されることがない。
スッタニパータ874
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
カッチャーヤナよ、
あらゆるものが有ると言うなば、これは一つの極端説である。
あらゆるものが無いと言うならばこれも第二の極端説である。
人格を完成した人は、この両極端に近づかないで、
中道によって法を説く。
サンユッタ・二カーヤ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ありのままに思う者でもなく、
誤って思う者でもなく、
思い無き者でもなく
思いを消滅した者でもない。ーーーー
このように行じた者の形態は消滅する。
けだし広がりの意識は思いを縁として起こるからである。
スッタニパータ874
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
両極端を知りつくして、よく考えて、両極端にも中間にも
汚されない。
彼を、わたしは、偉大な人と呼ぶ、彼はこの世で遭う女(煩悩)を
超えている。
スッタニパータ1042
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
お釈迦様の言葉には全て中道が見て取れ、紹介すれば
きりが無いので本日は何点かにかにいたしました。
お釈迦様の言葉はこだわりを捨てることが両極端に
近づかないと言うことであり、これが中道だと言うことです。
何かだけが真実であり、ほかはつまらないと言うなら
実にこだわりであり極論なのです。
何々宗だの何教だのとこだわっている内はまだまだなのです。
こだわるっている人にはそれがこだわりだとすら分かっていないのです。
こだわりについてのわたしのお話は、分別と矛盾・真ん中の道に書いて
おりますので、読んでください。
無分別の分別が中道です。
中道とは何を行うのか、行わないのかとは関係ありません。
心のあり方なのです。
何お行っていてもこだわりが無いのなら中道であります。
こだわらずそれを行うことが中道なのです。
有ると言う立場の者へは有ると言う立場で語り
無いと言う立場の者とは無いと言う立場で語る。
有る無いにこだわらない柔らかな心が中道なのです。
また何のこだわりも無い中道の心は空心とか無心とも呼ぶのです。
ここまで何回かにわたりこだわりなさるな
と語ってきました。
今日はお釈迦様の最古の教えに近いと言われる
スッタニパータよりお釈迦様の言葉をご紹介いたします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
人が何かに依拠してその他のものはつまらぬものであると
見なすならば、それは実にこだわりである、と
真理に達した人々は語る。
それ故に修行者は、見たこと、学んだこと、思索したこと、
または戒律や道徳にこだわってはならない。
スッタニパータ798
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
思いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。
智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。
思いと見解に固執した人々は他人と激突しながら、
世の中をうろつく。
スッタニパータ847
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
マーガンディヤよ。
わたしはこのことを説くと言うことがわたしにはない。
諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、
諸々の見解における過誤をみて、
固守することなく、省察しつつ内心の安らぎを見た。
スッタニパータ837
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
たとえばはすの葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の
水が汚されないように、それと同じく聖者は、
見たり学んだり思索したどんなことについても、
汚されることがない。
スッタニパータ874
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
カッチャーヤナよ、
あらゆるものが有ると言うなば、これは一つの極端説である。
あらゆるものが無いと言うならばこれも第二の極端説である。
人格を完成した人は、この両極端に近づかないで、
中道によって法を説く。
サンユッタ・二カーヤ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ありのままに思う者でもなく、
誤って思う者でもなく、
思い無き者でもなく
思いを消滅した者でもない。ーーーー
このように行じた者の形態は消滅する。
けだし広がりの意識は思いを縁として起こるからである。
スッタニパータ874
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
両極端を知りつくして、よく考えて、両極端にも中間にも
汚されない。
彼を、わたしは、偉大な人と呼ぶ、彼はこの世で遭う女(煩悩)を
超えている。
スッタニパータ1042
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
お釈迦様の言葉には全て中道が見て取れ、紹介すれば
きりが無いので本日は何点かにかにいたしました。
お釈迦様の言葉はこだわりを捨てることが両極端に
近づかないと言うことであり、これが中道だと言うことです。
何かだけが真実であり、ほかはつまらないと言うなら
実にこだわりであり極論なのです。
何々宗だの何教だのとこだわっている内はまだまだなのです。
こだわるっている人にはそれがこだわりだとすら分かっていないのです。
こだわりについてのわたしのお話は、分別と矛盾・真ん中の道に書いて
おりますので、読んでください。
無分別の分別が中道です。
中道とは何を行うのか、行わないのかとは関係ありません。
心のあり方なのです。
何お行っていてもこだわりが無いのなら中道であります。
こだわらずそれを行うことが中道なのです。
有ると言う立場の者へは有ると言う立場で語り
無いと言う立場の者とは無いと言う立場で語る。
有る無いにこだわらない柔らかな心が中道なのです。
また何のこだわりも無い中道の心は空心とか無心とも呼ぶのです。
2012/04/09
10:42:33
涅槃
何回かにわたり、
こだわりをなくすことについてお話をしてまいりました
色々なことを書くとその本質が見えなくなるので
今日はまとめの意味を兼ねて本質についてのお話を致します。
簡単に言えば。
涅槃とは一切の心の動揺が治まった安らぎです。
全く波の無い湖面のような心が涅槃です。
一切の対立の無い円のような心です。
難しく言えば。
一切の名前と形態と言う個人性を超越し
しかも有るのか無いのかを超えているが故に
無とも呼ばれながら、
みずからその存在を意識している者
みずからは世界以前の一なる者であり続けながら
世界を現しそして維持している者
この一なる者になることが涅槃です。
簡単に言えばは、心の状態をあらわしており
難しく言えばはその本質をあらわしております。
仏教ではその心の状態を目指し
真我探求では本質を目指すわけですが
そのため手法が異なるのです。
仏教では智慧により今の心を自然にそのまま涅槃の状態に
導くものであり、
真我探求は超越的に直接捉えようと言うものです。
ラマナの真我探求などがこれにあたります。
言い方を変えれば超越的方法は
風により湖面が波立っていてもその奥深くでは決して
風に影響を受けることが無く静かなところがある
その静かなところを直接捉えようというものです。
より直接的ではあります。
仏教の智慧による方法はどんなに風が吹いても
決して波立たない心を生み出そうと言うものです。
このでは仏教と名指ししましたが智慧による解脱は全て
仏教と同じです。
仏教と言わず智慧による解脱と書いたほうが良かったかも知れません。
わたしがこうやって色々な言い方で語る理由は仏教と同じく
どんな事があってもどんなに風が強く吹いても
決して波立たない動揺しない心を生み出すためのものです。
外に何かを求める心が治まったとき静かな心となるのです。
わたしが如何なることをお話していてもその理由は全て
一つのためです。風で波立たない心を生み出す為なのです。
実際はわたしは今そうではない、わたしには何かが必要だと
言う思いだけが邪魔なのです。この思いがあるために
外に何かを求めてしまうのです。
求めるから得られないのです。
求めるから束縛が生まれているだけなのです。
求めるから悟りが必要になるのです。
束縛など初めから無いのです。
初めからわたしたちは悟りであり解脱なのです。
解脱とはこの思いをどうやって無くすかそれだけなのです。
ラマナの言うようにこの思いをただ捨てることが出来るなら
簡単なのですが、この思いを捨てれないから
智慧により捨てることが必要となるのです。
智慧はわたしは今何かが必要だと言う思いを捨てさせてくれるのです。
わたしには何かが必要だと言う思いを捨てればよいなら
簡単だと言うかもしれません。
それは違うのです。生きると言うこと自体が何かを求めることだから
もしその思いを捨てることが本当に出来たなら
生死を超えるということであり輪廻からの解脱を意味するのです。
求めることが駄目なのだと何も行わなければ決して得られません
生きること自体が求める行為だからです。
このことは大事なので詳しく別途お話いたします。
こだわりや、不満をあらわす心が、心の波を生み出します。
こだわりがあれば、あいつは何を言っているんだ
馬鹿げた事お言うという思いが現われそれが不満であり
心が静まることは無いでしょう。
比べると言う心があれば如何してあいつだけ得をするのだ
わたしは如何してこうなのだと、また心が静まることは無いでしょう。
また悪事を行なっても心が静まることは無いでしょう。
このような問題の全ては個人が有り個人は自由意志に基づき行為している
と言う思いからあらわれるエゴ的行為が原因です。
世界は個人が自由の元に行為していると思っていることが因となり
縁に出会いあらわれるのです。
わたしは何故それお行い何の意味があるのか動機を知ることが
エゴ的行為を落とす道です。
エゴは常に善や正義のお面をかぶってあらわれるから
それを智慧により見抜くことが落とす道なのです。
日常の行為の全てからエゴ的行為が落ちたとき心は静まります。
エゴ的行為についてはあらためてお話しすることに致します。
個人が自由の元に行為していると言う思いは錯覚です。
全体のつながりの中で個々に現れる思いにしたがって人間は
行為いたします。自身にあらわれる思いの通りに行っているから
わたしは自由に行為していると言う錯覚が生み出されるのです。
真実は自然にあらわれる自身の思いではないものに束縛されて
いるだけなのです。思いからの解脱が解脱なのです。
この錯覚を確かに錯覚だと知ることが出来ないのは智慧が足りない
だけなのです。
ここでお釈迦様の言葉から
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
思いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。
智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。
思いと見解に固守した人々は、他人と衝突しながら、
世界の中をうろつく。スッタニパータ847
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめたもうて、
みずから安立し、
輪廻を超えて完全な者となり、こだわることの無い人、--
このような人はバラモンと呼ばれる。
スッタニパータ519
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この錯覚を智慧により打ち破ることが智慧による解脱です。
どのような視点から深く探っていっても個人は見つかりません
個人は無いのだと言う結論に達し心が静まるまで智慧を使い
探ることです。これが智慧による解脱なのです。
どんな角度からどんな視点からどんな境地から探っても
個人は見つかることが無いのです。
その結論に達するまで探り続けることです。
全体しか存在しておりません。
神仏しか存在しておりません。
この一つしか存在しない者は一で在るが故に有るのか無いのかを
超えているから有るとも言えず無いとも言えない者なのですが
有るのか無いのかを超えていながら自らその存在を意識しているのです。
何回かにわたり、
こだわりをなくすことについてお話をしてまいりました
色々なことを書くとその本質が見えなくなるので
今日はまとめの意味を兼ねて本質についてのお話を致します。
簡単に言えば。
涅槃とは一切の心の動揺が治まった安らぎです。
全く波の無い湖面のような心が涅槃です。
一切の対立の無い円のような心です。
難しく言えば。
一切の名前と形態と言う個人性を超越し
しかも有るのか無いのかを超えているが故に
無とも呼ばれながら、
みずからその存在を意識している者
みずからは世界以前の一なる者であり続けながら
世界を現しそして維持している者
この一なる者になることが涅槃です。
簡単に言えばは、心の状態をあらわしており
難しく言えばはその本質をあらわしております。
仏教ではその心の状態を目指し
真我探求では本質を目指すわけですが
そのため手法が異なるのです。
仏教では智慧により今の心を自然にそのまま涅槃の状態に
導くものであり、
真我探求は超越的に直接捉えようと言うものです。
ラマナの真我探求などがこれにあたります。
言い方を変えれば超越的方法は
風により湖面が波立っていてもその奥深くでは決して
風に影響を受けることが無く静かなところがある
その静かなところを直接捉えようというものです。
より直接的ではあります。
仏教の智慧による方法はどんなに風が吹いても
決して波立たない心を生み出そうと言うものです。
このでは仏教と名指ししましたが智慧による解脱は全て
仏教と同じです。
仏教と言わず智慧による解脱と書いたほうが良かったかも知れません。
わたしがこうやって色々な言い方で語る理由は仏教と同じく
どんな事があってもどんなに風が強く吹いても
決して波立たない動揺しない心を生み出すためのものです。
外に何かを求める心が治まったとき静かな心となるのです。
わたしが如何なることをお話していてもその理由は全て
一つのためです。風で波立たない心を生み出す為なのです。
実際はわたしは今そうではない、わたしには何かが必要だと
言う思いだけが邪魔なのです。この思いがあるために
外に何かを求めてしまうのです。
求めるから得られないのです。
求めるから束縛が生まれているだけなのです。
求めるから悟りが必要になるのです。
束縛など初めから無いのです。
初めからわたしたちは悟りであり解脱なのです。
解脱とはこの思いをどうやって無くすかそれだけなのです。
ラマナの言うようにこの思いをただ捨てることが出来るなら
簡単なのですが、この思いを捨てれないから
智慧により捨てることが必要となるのです。
智慧はわたしは今何かが必要だと言う思いを捨てさせてくれるのです。
わたしには何かが必要だと言う思いを捨てればよいなら
簡単だと言うかもしれません。
それは違うのです。生きると言うこと自体が何かを求めることだから
もしその思いを捨てることが本当に出来たなら
生死を超えるということであり輪廻からの解脱を意味するのです。
求めることが駄目なのだと何も行わなければ決して得られません
生きること自体が求める行為だからです。
このことは大事なので詳しく別途お話いたします。
こだわりや、不満をあらわす心が、心の波を生み出します。
こだわりがあれば、あいつは何を言っているんだ
馬鹿げた事お言うという思いが現われそれが不満であり
心が静まることは無いでしょう。
比べると言う心があれば如何してあいつだけ得をするのだ
わたしは如何してこうなのだと、また心が静まることは無いでしょう。
また悪事を行なっても心が静まることは無いでしょう。
このような問題の全ては個人が有り個人は自由意志に基づき行為している
と言う思いからあらわれるエゴ的行為が原因です。
世界は個人が自由の元に行為していると思っていることが因となり
縁に出会いあらわれるのです。
わたしは何故それお行い何の意味があるのか動機を知ることが
エゴ的行為を落とす道です。
エゴは常に善や正義のお面をかぶってあらわれるから
それを智慧により見抜くことが落とす道なのです。
日常の行為の全てからエゴ的行為が落ちたとき心は静まります。
エゴ的行為についてはあらためてお話しすることに致します。
個人が自由の元に行為していると言う思いは錯覚です。
全体のつながりの中で個々に現れる思いにしたがって人間は
行為いたします。自身にあらわれる思いの通りに行っているから
わたしは自由に行為していると言う錯覚が生み出されるのです。
真実は自然にあらわれる自身の思いではないものに束縛されて
いるだけなのです。思いからの解脱が解脱なのです。
この錯覚を確かに錯覚だと知ることが出来ないのは智慧が足りない
だけなのです。
ここでお釈迦様の言葉から
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
思いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。
智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。
思いと見解に固守した人々は、他人と衝突しながら、
世界の中をうろつく。スッタニパータ847
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめたもうて、
みずから安立し、
輪廻を超えて完全な者となり、こだわることの無い人、--
このような人はバラモンと呼ばれる。
スッタニパータ519
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この錯覚を智慧により打ち破ることが智慧による解脱です。
どのような視点から深く探っていっても個人は見つかりません
個人は無いのだと言う結論に達し心が静まるまで智慧を使い
探ることです。これが智慧による解脱なのです。
どんな角度からどんな視点からどんな境地から探っても
個人は見つかることが無いのです。
その結論に達するまで探り続けることです。
全体しか存在しておりません。
神仏しか存在しておりません。
この一つしか存在しない者は一で在るが故に有るのか無いのかを
超えているから有るとも言えず無いとも言えない者なのですが
有るのか無いのかを超えていながら自らその存在を意識しているのです。
2012/04/18
11:32:34
十二因縁
これを読んでいる方が十二因縁をどのように理解しているかは
分かりませんので。
フリー辞書のウィキペディアで十二因縁を調べてみました。
わたしも普通はこのような見解ではないかなと思います。
無明は過去生の煩悩、煩悩の根本だから
途中ははぶいておりますがようするに、
過去生の煩悩、無明により生があり老死があると言うことです。
この考え方は輪廻と呼ばれるものです。
この輪廻思想は仏教以前からあるものだと言われております。
過去生があり過去生の煩悩または無明により次の生があらわれると
言うものです。この考え方だとその過去生
の原因はそのまた過去生
そのまたか過去生の原因はと言うとそのまた過去生であり、
何処まで言っても主たる原因にたどり着きません。
無限の輪廻と言いますが、例え無限であっても初めが無くては
この考えで行くと無限も何も初めが無いのです。
初めもなく終わりも無い無限のループなのです。
過去生の煩悩又は無明であって初めがあるとすれば
原因の無い生が必要なのです。
過去生の煩悩又は無明であらわれた生でない生がないと
初めが無いのです。
でもこのように考えると無明が先ではなく生が先となり
お釈迦様が説いた十二因縁は嘘だと言うことになってしまうのです。
初めが絶対にありえないのもおかしく
初めが無いと言うことは原因が無いことをあらわすのです。
無明が生の原因であるというお釈迦様の教えは嘘になってしまいます。
それではお釈迦様の説かれた無明が先ということが
如何したら成り立つのか考えて見ましょう。
はじめに生のない無明があるのです。
無明が過去生の煩悩でそれが始まりと考えるからおかしくなるのです。
無明から生があらわれ、その生の煩悩又は無明により次の生が生まれる。
これだったら初めがあり、また無明が先となります。
実はこれが真実なのですが正しくは有りません。
正しくは十二因縁の1の無明から10の段階を経て生命は生まれます。
生まれ時に無限の過去生があらわれるのです。
生命は無限に生まれます。
根源が有るのか無いのかを超えた無限だからです。
この世に過去生をもっていない新しい人はいません。
全ての人が過去生を持っているのです。
これが生命がどんなに増えたとしても新しい人がいない理由です。
この世界は有るのか無いのかを超えたもののあらわれです。
有るのか無いのかを超えたものは時間と空間にも縛られてはいないのです。
時間と空間に縛られていないもののあらわれである、
世界も時間に縛られているはずは無いのです。
つながって広がる意識のあらわれだから過去現在未来があるわけでもないのに
過去現在未来と言う世界をあらわすのです。
だから生においては結果を原因が追いかけると言うことがおきえるのです。
もし新しい生が誕生しないなら解脱によって生命は何時か
絶滅する事になってしまうのです。
さて無明が初めだとしたらこの無明とは一体何なのでしょうか?
古今東西でこの根源の無明を色々な言葉で表してきました。
先ずわたしのあらわし方でお話しします。
この根源の無明は全てが含まれている一なる有るとも無いとも言えないもの
一なるものであるが故に有るのか無いのかを超えています。
相対の世界のものでは無いと言うことです。
全てを含む完全なものあり全ては無分別の状態、溶け合った状態にあるので、
無明なのです。全てを含む完全な知識であるのに一であり
無分別が故に無知、無明なのです。
これが無明の正体なのです。
はじめの一なるものであるが故に一なる神とも呼ばれます。
有るのか無いのかを超えているが故に無とも呼ばれます。
名前と形態を超えているが故に点であらわされることもあります。
二元性を超え不変なものであるが故にブラフマンとも呼ばれます。
対立が無くあまりにも静かな故に沈黙とか安らぎとか涅槃とも呼ばれます。
これが我々の故郷です。
この無明である有るのか無いのかを超えたものは心の静まった状態のものである
意識だと言われています。
如何してかと言うと、二元性を超えた一なるものでありながら、
みずからの存在を意識しており、
それが継続的に続くから意識だと言われるのです。
この意識が完全なものでありながら、
完全であるが故に無知、無明なのです。
無明なる意識は狭い所から広いところへ広いところから
より広く広がっていくのです。
広がる意識は10過程を踏んで生になり
11の過程で老死し次の生を生み続けるのです。
即ち。以下のような過程を繰り返すのです。
繰り返すと言っても繰り返してもいないのですが。
1.無明(むみょう、巴: avijj?, 梵: avidy?) -
2.行(ぎょう、巴:sa?kh?ra, 梵: sa?sk?ra) - 志向作用。
3.識(しき、巴: vinn?na, 梵: vijn?na) - 識別作用
4.名色(みょうしき、n?ma-r?pa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。
5.六処(ろくしょ、巴: sa??yatana, 梵: ?a??yatana) - 六つの感覚器官。
6.触(そく、巴: phassa, 梵: spar?a) - 六つの感覚器官に、
それぞれの感受対象が触れること。
7.受(じゅ、vedan?) - 感受作用。
8.愛(あい、巴: ta?h?, 梵: t????) - 渇愛。
9.取(しゅ、up?d?na) - 執着。
10.有(う、bhava) - 存在。
11.生(しょう、j?ti) - 生まれること。
12.老死(ろうし、jar?-mara?a) - 老いと死。
意識が動くと心となります。心とは思いであり、思いとは求めなのです。
生も宇宙もこの無明により広がる意識によりあらわれる求める心が生み出し
維持しているのです。この意識が動いてあらわれた心が根本の煩悩です。
無明なる意識は広がり続けるから宇宙は広がり続けているのです。
全ては心の現われと見る唯識は異なったあらわし方でこの事を
説明したものでありますが、
真言宗の第十識が有るのか無いのかを超えた根源のものです。
唯識ではこの識を智慧に転換することが悟りと言われております。
智慧に返還する必要があるということはこの識が無知である
ことをあらわしております。
わたしが言っている一切智でありながら無分別の状態に識はあるのです。
無明により広がり続ける意識を止めることが解脱です。
この広がる意識は求めると言う心をあらわします。
これが根本の求めであり生きていること自体が求めると言う
動きなのです。
我々は全てを含むが無分別であるが故に無明なるものから生まれ
生において分別し悟りにおいて分別を超え分別の無分別となり
無明の無い無分別である彼岸に帰るのです。
無明であるが故に意識は広がるのですから
智慧により広がりを求めを止めることが出来るのです。
意識がくつろぎ内側にとどまり続けることが解脱の姿です。
ここで神と仏の働きを分別して見ましょう。
・神の働き
意識が広がって広いがって無限の世界を生み出し
無限の生を生み出して行き無限の輪廻を生み出す動きが神の働きです。
十二因縁の過程を経て世界を作り生を作る働きです。
・仏の働き
個に見えるものは神から分離せず分離した者である故に
意識は外に向かいます。
その広がる意識を内側にとどめる働きが仏の働きです。
意識が広がるとき煩悩が表れ意識が内側でくつろぐ時
煩悩が消え輪廻を超えるのです。
意識が広がると言う動きが神の働きで意識の広がりを
とどめる動きが仏の働きです。
ここでは仏と言いましたが、教えと言い換えることが出来ます。
または技法でもよいです。
・まとめ
長いことお話しましたが、また他の表し方もあるでしょう。
唯識などがよい例です。
何故何のために長々お話をしたのでしょう。
わたしが言いたいことは、以下の通りです。
全ては全体の流れである。
何かを個人が行っているのではありません。
責められるべき者も裁かれるべき者もいないのです。
欲望からあやまちはかさねられます。
この欲望は我々が生み出したものではありません。
根源的ものなのです、
煩悩と言うものは根源的ものなのです。
対象に外に広がる意識が求めであり
無明なる意識の潜在的指向なのです。
我々は初めからそれです。
この潜在的指向と言う広がる意識が
世界を生み出し我々を生み出します。
十二因縁でその過程がのべられております。
潜在的指向である広がる意識、煩悩が静まったとき我々は
初めからそれであり、今もそれであることに気がつくのです。
生と言う大冒険を行ったように見えたが一歩も動いていなかったことに
そのとき気づくのです。
我々は初めからそれであり今もそれです、なのに教えに方法に
頼らなければ決してそれに気づく事はありません。
それはその本性自体の潜在的指向だからです。
求めることは道に背きます。
ですが求めなければ何かを行わなければ、
この潜在的指向はおさまらないのです。
悟りを求めるのも求めだから何も行わないと言うのでは駄目なのです。
生きていること自体が求めだからです。
それ自体が煩悩だからです。
我々はこの潜在的指向である煩悩がおさまるまで、
何かを行う必要があるのです
形態の消滅と広がる意識について釈迦様の言葉から
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ありのままに思う者でもなく、
誤って思う者でもなく、
思い無き者でもなく
思いを消滅した者でもない。ーーーー
このように行じた者の形態は消滅する。
けだし広がりの意識は思いを縁として起こるからである。
スッタニパータ874
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここでお釈迦様は思いを縁として意識は広がり
形態はあらわれると言っていなさる。
だから、
ありのままに思う者でもなく、
誤って思う者でもなく、
思い無き者でもなく
思いを消滅した者でもない。
このように行じたら、
けだし広がりの意識は止み形態は消滅すると言われていなさる。
ここでは思いを縁としてといっていますが同じことなのです。
わたしは意識が動くと思があらわれると言いましたが、、
実は意識が動く自体が既に思いによるものなのです。
思いがあらわれて意識が広がると言ったほうが正しいのです。
思いが原因で意識は広がると言うことです。
わたしのあらわし方はラマナなどと同じですが、
お釈迦様のあらわし方のほうが的確ですね。
では。以下ははどの様な意味でしょうか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ありのままに思う者でもなく、
誤って思う者でもなく、
思い無き者でもなく
思いを消滅した者でもない。
このように行じた者の形態は消滅する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これは見つつ見ずと言われております。
ここはわたしが語ることも無いでしょう。
中道があらわされておりますね。
わたしの語りと異なりこんなに短い言葉で
的確にあらわされています。
素晴らしい。
ですがこのお釈迦様の回答は相当に修行が進んだ方に
行われた物でしょう。だからわたしが代わりに
長々とお話さていただいたのです。
原始経典に見られるお釈迦様の言葉は常に悟らせると言う
言葉であり悟らなければその意味さえ理解できないものです。
同じことを複数の角度から複数の言葉を使い意味を語らず
語られているからです。
色んなことをお話いたしましたが
結局のところ思いを縁として意識は広がり形態はあらわれるから
意識の広がりを止めることが必要だと言うことをお話したのです。
それ以外のことはこのことを説明するために
お話したと言うことです。
意識は広がり外へ対象へ向かいます。
識が広がる原因は無明からあらわれる煩悩だと言うことであり、
真我探求が語る意識を中心に定めると仏教は
実は同じことを言っているのです。
その方法が異なるだけなのです。
仏教は今いる地点から自然にその地点に向かうように
作られているのです。
超越的に捉えるか、
自然に向かうかです。
これを読んでいる方が十二因縁をどのように理解しているかは
分かりませんので。
フリー辞書のウィキペディアで十二因縁を調べてみました。
わたしも普通はこのような見解ではないかなと思います。
無明は過去生の煩悩、煩悩の根本だから
途中ははぶいておりますがようするに、
過去生の煩悩、無明により生があり老死があると言うことです。
この考え方は輪廻と呼ばれるものです。
この輪廻思想は仏教以前からあるものだと言われております。
過去生があり過去生の煩悩または無明により次の生があらわれると
言うものです。この考え方だとその過去生
の原因はそのまた過去生
そのまたか過去生の原因はと言うとそのまた過去生であり、
何処まで言っても主たる原因にたどり着きません。
無限の輪廻と言いますが、例え無限であっても初めが無くては
この考えで行くと無限も何も初めが無いのです。
初めもなく終わりも無い無限のループなのです。
過去生の煩悩又は無明であって初めがあるとすれば
原因の無い生が必要なのです。
過去生の煩悩又は無明であらわれた生でない生がないと
初めが無いのです。
でもこのように考えると無明が先ではなく生が先となり
お釈迦様が説いた十二因縁は嘘だと言うことになってしまうのです。
初めが絶対にありえないのもおかしく
初めが無いと言うことは原因が無いことをあらわすのです。
無明が生の原因であるというお釈迦様の教えは嘘になってしまいます。
それではお釈迦様の説かれた無明が先ということが
如何したら成り立つのか考えて見ましょう。
はじめに生のない無明があるのです。
無明が過去生の煩悩でそれが始まりと考えるからおかしくなるのです。
無明から生があらわれ、その生の煩悩又は無明により次の生が生まれる。
これだったら初めがあり、また無明が先となります。
実はこれが真実なのですが正しくは有りません。
正しくは十二因縁の1の無明から10の段階を経て生命は生まれます。
生まれ時に無限の過去生があらわれるのです。
生命は無限に生まれます。
根源が有るのか無いのかを超えた無限だからです。
この世に過去生をもっていない新しい人はいません。
全ての人が過去生を持っているのです。
これが生命がどんなに増えたとしても新しい人がいない理由です。
この世界は有るのか無いのかを超えたもののあらわれです。
有るのか無いのかを超えたものは時間と空間にも縛られてはいないのです。
時間と空間に縛られていないもののあらわれである、
世界も時間に縛られているはずは無いのです。
つながって広がる意識のあらわれだから過去現在未来があるわけでもないのに
過去現在未来と言う世界をあらわすのです。
だから生においては結果を原因が追いかけると言うことがおきえるのです。
もし新しい生が誕生しないなら解脱によって生命は何時か
絶滅する事になってしまうのです。
さて無明が初めだとしたらこの無明とは一体何なのでしょうか?
古今東西でこの根源の無明を色々な言葉で表してきました。
先ずわたしのあらわし方でお話しします。
この根源の無明は全てが含まれている一なる有るとも無いとも言えないもの
一なるものであるが故に有るのか無いのかを超えています。
相対の世界のものでは無いと言うことです。
全てを含む完全なものあり全ては無分別の状態、溶け合った状態にあるので、
無明なのです。全てを含む完全な知識であるのに一であり
無分別が故に無知、無明なのです。
これが無明の正体なのです。
はじめの一なるものであるが故に一なる神とも呼ばれます。
有るのか無いのかを超えているが故に無とも呼ばれます。
名前と形態を超えているが故に点であらわされることもあります。
二元性を超え不変なものであるが故にブラフマンとも呼ばれます。
対立が無くあまりにも静かな故に沈黙とか安らぎとか涅槃とも呼ばれます。
これが我々の故郷です。
この無明である有るのか無いのかを超えたものは心の静まった状態のものである
意識だと言われています。
如何してかと言うと、二元性を超えた一なるものでありながら、
みずからの存在を意識しており、
それが継続的に続くから意識だと言われるのです。
この意識が完全なものでありながら、
完全であるが故に無知、無明なのです。
無明なる意識は狭い所から広いところへ広いところから
より広く広がっていくのです。
広がる意識は10過程を踏んで生になり
11の過程で老死し次の生を生み続けるのです。
即ち。以下のような過程を繰り返すのです。
繰り返すと言っても繰り返してもいないのですが。
1.無明(むみょう、巴: avijj?, 梵: avidy?) -
2.行(ぎょう、巴:sa?kh?ra, 梵: sa?sk?ra) - 志向作用。
3.識(しき、巴: vinn?na, 梵: vijn?na) - 識別作用
4.名色(みょうしき、n?ma-r?pa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。
5.六処(ろくしょ、巴: sa??yatana, 梵: ?a??yatana) - 六つの感覚器官。
6.触(そく、巴: phassa, 梵: spar?a) - 六つの感覚器官に、
それぞれの感受対象が触れること。
7.受(じゅ、vedan?) - 感受作用。
8.愛(あい、巴: ta?h?, 梵: t????) - 渇愛。
9.取(しゅ、up?d?na) - 執着。
10.有(う、bhava) - 存在。
11.生(しょう、j?ti) - 生まれること。
12.老死(ろうし、jar?-mara?a) - 老いと死。
意識が動くと心となります。心とは思いであり、思いとは求めなのです。
生も宇宙もこの無明により広がる意識によりあらわれる求める心が生み出し
維持しているのです。この意識が動いてあらわれた心が根本の煩悩です。
無明なる意識は広がり続けるから宇宙は広がり続けているのです。
全ては心の現われと見る唯識は異なったあらわし方でこの事を
説明したものでありますが、
真言宗の第十識が有るのか無いのかを超えた根源のものです。
唯識ではこの識を智慧に転換することが悟りと言われております。
智慧に返還する必要があるということはこの識が無知である
ことをあらわしております。
わたしが言っている一切智でありながら無分別の状態に識はあるのです。
無明により広がり続ける意識を止めることが解脱です。
この広がる意識は求めると言う心をあらわします。
これが根本の求めであり生きていること自体が求めると言う
動きなのです。
我々は全てを含むが無分別であるが故に無明なるものから生まれ
生において分別し悟りにおいて分別を超え分別の無分別となり
無明の無い無分別である彼岸に帰るのです。
無明であるが故に意識は広がるのですから
智慧により広がりを求めを止めることが出来るのです。
意識がくつろぎ内側にとどまり続けることが解脱の姿です。
ここで神と仏の働きを分別して見ましょう。
・神の働き
意識が広がって広いがって無限の世界を生み出し
無限の生を生み出して行き無限の輪廻を生み出す動きが神の働きです。
十二因縁の過程を経て世界を作り生を作る働きです。
・仏の働き
個に見えるものは神から分離せず分離した者である故に
意識は外に向かいます。
その広がる意識を内側にとどめる働きが仏の働きです。
意識が広がるとき煩悩が表れ意識が内側でくつろぐ時
煩悩が消え輪廻を超えるのです。
意識が広がると言う動きが神の働きで意識の広がりを
とどめる動きが仏の働きです。
ここでは仏と言いましたが、教えと言い換えることが出来ます。
または技法でもよいです。
・まとめ
長いことお話しましたが、また他の表し方もあるでしょう。
唯識などがよい例です。
何故何のために長々お話をしたのでしょう。
わたしが言いたいことは、以下の通りです。
全ては全体の流れである。
何かを個人が行っているのではありません。
責められるべき者も裁かれるべき者もいないのです。
欲望からあやまちはかさねられます。
この欲望は我々が生み出したものではありません。
根源的ものなのです、
煩悩と言うものは根源的ものなのです。
対象に外に広がる意識が求めであり
無明なる意識の潜在的指向なのです。
我々は初めからそれです。
この潜在的指向と言う広がる意識が
世界を生み出し我々を生み出します。
十二因縁でその過程がのべられております。
潜在的指向である広がる意識、煩悩が静まったとき我々は
初めからそれであり、今もそれであることに気がつくのです。
生と言う大冒険を行ったように見えたが一歩も動いていなかったことに
そのとき気づくのです。
我々は初めからそれであり今もそれです、なのに教えに方法に
頼らなければ決してそれに気づく事はありません。
それはその本性自体の潜在的指向だからです。
求めることは道に背きます。
ですが求めなければ何かを行わなければ、
この潜在的指向はおさまらないのです。
悟りを求めるのも求めだから何も行わないと言うのでは駄目なのです。
生きていること自体が求めだからです。
それ自体が煩悩だからです。
我々はこの潜在的指向である煩悩がおさまるまで、
何かを行う必要があるのです
形態の消滅と広がる意識について釈迦様の言葉から
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ありのままに思う者でもなく、
誤って思う者でもなく、
思い無き者でもなく
思いを消滅した者でもない。ーーーー
このように行じた者の形態は消滅する。
けだし広がりの意識は思いを縁として起こるからである。
スッタニパータ874
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ここでお釈迦様は思いを縁として意識は広がり
形態はあらわれると言っていなさる。
だから、
ありのままに思う者でもなく、
誤って思う者でもなく、
思い無き者でもなく
思いを消滅した者でもない。
このように行じたら、
けだし広がりの意識は止み形態は消滅すると言われていなさる。
ここでは思いを縁としてといっていますが同じことなのです。
わたしは意識が動くと思があらわれると言いましたが、、
実は意識が動く自体が既に思いによるものなのです。
思いがあらわれて意識が広がると言ったほうが正しいのです。
思いが原因で意識は広がると言うことです。
わたしのあらわし方はラマナなどと同じですが、
お釈迦様のあらわし方のほうが的確ですね。
では。以下ははどの様な意味でしょうか?
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ありのままに思う者でもなく、
誤って思う者でもなく、
思い無き者でもなく
思いを消滅した者でもない。
このように行じた者の形態は消滅する。
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これは見つつ見ずと言われております。
ここはわたしが語ることも無いでしょう。
中道があらわされておりますね。
わたしの語りと異なりこんなに短い言葉で
的確にあらわされています。
素晴らしい。
ですがこのお釈迦様の回答は相当に修行が進んだ方に
行われた物でしょう。だからわたしが代わりに
長々とお話さていただいたのです。
原始経典に見られるお釈迦様の言葉は常に悟らせると言う
言葉であり悟らなければその意味さえ理解できないものです。
同じことを複数の角度から複数の言葉を使い意味を語らず
語られているからです。
色んなことをお話いたしましたが
結局のところ思いを縁として意識は広がり形態はあらわれるから
意識の広がりを止めることが必要だと言うことをお話したのです。
それ以外のことはこのことを説明するために
お話したと言うことです。
意識は広がり外へ対象へ向かいます。
識が広がる原因は無明からあらわれる煩悩だと言うことであり、
真我探求が語る意識を中心に定めると仏教は
実は同じことを言っているのです。
その方法が異なるだけなのです。
仏教は今いる地点から自然にその地点に向かうように
作られているのです。
超越的に捉えるか、
自然に向かうかです。
2013/01/05
23:54:10
今日は、掲示板ではほとんど毎日誰かとお話をしておりますが
ブログはしばらく更新になりました。
本日はわたしの尊敬する鈴木大拙さんの言葉をご紹介いたします。
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禅とは何かより。
我々人間は社会的にもまた個人的にも自由を求める。
しかるに外界には我々の自由を邪魔するものが無数にある。
それ故に我々は不安を感じるのである。
そしてこの不安があるが故に、人間には、
天界にあっても動物界にあっても得られぬ不可説の妙境があるのである。
自分の心に帰って静かにその囁きをきくと、
事実と希求とのあいだに
隔たりがあるのを感ずる。
そうしたばいを経験するごとに、
我々は不安を感じてくるのである。
心理学者の説によると男は平均十五歳位、
女は平均十三才位でこの心の動揺を
感じ始めるとしている。
そしてこの頃から子供の心が内面的に分裂を始めてくる。
そこに初めて自己を観照する時代がやってくるのである。
またこの頃にこのような経験を持たなかった人も、
後になり病気に成るとか、
事業に失敗するとかして精神的動揺を経験する物である。
この様に何らかの条件による心の激変は
即ち宗教的意識の発芽を意味している。
全ての人間は自己の分裂を感じ始めた頃に
朱宗教心の芽生えがあるのである。
そんな風に宗教は病気になったり、
事業に失敗したり、そのほか何らかの故障に
あって発芽すると考えるのである。
自己の分裂する時代、一つは事実の我であり、
一つは自己の中において価値を求める価値の我である。
現代の科学は価値の世界にたいして更に更に深い
根本的研究をなすことをわすれて、
この生物我ないしは個我の研究その出発点としているために、
今日の科学の進歩は単なる事実の世界に対してのみ成功している。
我々の内面的な欲求の世界に対してはなんらの糧をも
提供してはいないのである。
我々の真の我でないところの、生物我を殺さない以上、
又は科学の最も根本的その立脚点改善せぬ限り、
人間はやがて全部滅亡する物だと自分は考えている。
人間は誰の場合においても、
事実の世界を超越した所に価値の世界を
建立すべき熾烈な欲求がある。
彼の浄土と言う物は決しておとぎ話ではない。
浄土くらいはあらねばならぬ、
と言う欲求ーーーこれは迷いではないのである。
以上述べてきたように人間には内面的分裂がある。
この分裂を救うべき方法ありあいなや、
曰く二つの方法があると答える。
その二つの方法をあげてみれば、
すなわち、一つは知的宗教によるものであり、
一つは情的宗教によるものである。
大体から見れば仏教は知的であり、
キリスト教は情的であると見られもするが、
知的の中に情的があり、
情的の中に知的な分子があるのである。
さてそれならこの解決策が如何なる具合で
進んで行くかということになる。
仏教ではこれを回心という。
知、情、そのいずれからはいるとしても、
我々はニッチのサッチも行かぬ
ところに迷い込むことがある。
また宗教そのものの段取りが多くそのように
出来上がっているのである。
すなわち大いに窮して窮地から忽然と脱する、
これが回心である。
ところがこの回心というものは、
自己の内心からへいしゅつするもので
ある物でなくては駄目である。
しかしこれは何が何でも自分でやらなければ役に立つ物ではない。
外部の人たちは、これを見かねて、なんとか救ってやりたいと
方便を論じても結局は自分自身で大死一番やった上で、
そしてひっくり返って来ない以上駄目なのである。
けれども駄目だと言って駄目だと
言って捨てておく訳にも行かないので、
ここに人間の社会性が美しく活動し始めるという
事実が現れて来るのである。しかしながら又、
他から施された方便や手段は何時までたっても
方便であり、手段なのである。
自分で本心一変せぬ以上は回心とは言いえないのである。
知的である禅宗はこれを悟道といい
他力本位の宗では安心を得たと言うのである。
禅宗は何処までも知的な宗教であるからして、
これに入るにはいくばくかの
知識が必要である。
他力本位の宗門ではこの知識を全然排斥するが、
しかしその知識を排斥するところまで入って行くには
かえって無非常な知識と非常は努力とを必要とする。
知識の無用が考えられるのはただ出来上がった人、
回心の人々から見ての話なのである。
ここにおいて、我々が悟道ないし安心を得る上に知識は必然の前提と
見ることが出来えるのである。
自己の内面の分裂を救い、
または、この事実の世界から脱して完全なる
価値の世界を建設しようという願望が生まれてくるまでには、
そこに全体を達観するに必須なる理知が必要である。
自分が関係のどの位置にいるのか、そういうものを自知するには、
当然反省するということが必要である。
宗教そのものに知識は不用であるが、そこまで入って行く前提として、
または宗教そのものの真の活動を始めるまでには、
どうしても知識の必要な事が認められるのである。
ここが大事な所である。
仏が菩提樹の下で三菩提を証せられ、ついには悟道された、
この境地に至るまでは、仏も四諦十二因縁というような
苦しい道を通ってこなければならなかったのである。
知識の厳しい手練と言う物が無くては回心と
悟道もできないことが証明されるのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて長くなりましたね、
これより短くする事ができませんでした。
大まかではありますがここに全てが語られております。
完全にわたしの語ることと一致しています。
注目するところは沢山ありますが、
少しだけご説明します。
生物我と本来の我その生物我があり、
この生物我を壊すか
科学が根源を解き明かさなければ人間はやがて滅びる
わたしは世界がこの究極の根源を解き明かす事が必要であり、
その為には世界が変わる必要があると考えます。
科学は世界意識に従い進化します。
世界の意識の変革が科学を進化させるのです。
ですから世界が変わる必要があると考えます。
人間とは本来捨てておくと滅びる性質を持っています。
これを回避する為に必要なときに必ず間に合って目覚めた存在が
現れこの世界を少し救って行くから今繁栄出来ているのです。
もう一つ
天界にあっても動物界にあっても得られぬ不可説の妙境があるのである。
これは事実の世界を超えたところに価値の世界があり
この価値の世界の無のキャンパスに
無限と永遠の素材で思うような世界を建設できるのです。
これが天国であり極楽浄土であり心の喜びがわきでずるところの
無限の宝です。
この世界そのものが、誰かの価値の世界であり、
価値の世界の中に我々はまた価値の世界を築こうとしているのです。
このへんは華厳経に説かれております。
これ以上に小さくできない物の中に世界があると。
そな中のまたそれ以上小さくできない物の中にまた世界があると。
今日のご説明はこの位にしておきますが、
もっと聞きたいと思ったなら是非掲示板にお越し下さい。
掲示板では毎日何かお話をしております。
是非どうぞ。






