2012/03/27
08:04:16
瞑想次第
瞑想には沢山の種類がありますが本日は禅のようにただ座ると言う
瞑想の方法をお話したします。
・服装
ゆったりしていて、着ていることをあまり意識させないものが最適です。
・座り方
楽であり身体を忘れるような姿勢が最適です。
足の組み方は半跡朕座でも結跡朕座でも構いません
座禅の座蒲に座ると安定させやすいですが無ければ固めの
座布団を二つ折りにして使うと良いでしょう。
どう座るかより楽であり安定していることが大事です。
瞑想を続けていれば次第に安定した姿勢がつかめてきます。
・姿勢
姿勢で大事な事も楽であり身体を忘れてしまうような姿勢が理想です。
背筋をまっすぐ伸ばすことが楽な姿勢です。
・目
目はつぶろうが、半眼だろうが好きにすると良いです。
半眼の時の注意点はことさら何かを見ないことです。
何かを意識してしまわないように壁に向かうのも良いとおもいます。
・手の組み方
手どのように組んでも又膝の上においても構いません。
ネットで検索してみて自分の好む組み方をすればよいです。
・時間
朝晩40分~一時間くらい
ここで大事なことはそろそろ止めようかと思い止めないことです。
あらわれる思いをあらわれるにまかせることこそが瞑想だから
止めようと言う思いにとらわれ突き動かされたら
瞑想ではないと言うことなのです。
ですから目覚まし時計か何かで終了を告げ数分瞑想をやめても
座ったままでいてゆっくり立ち上がるのが良いでしょう。
さあこれで瞑想でしょうか?
これでは瞑想と言いません。
どう座るのか、どう姿勢をとるのか、
目を閉じるべきか半眼であるべきか
手をどのように組むべきかは大したことではないのです。
大事なことは楽であり体を忘れてしまうような状態であり、
しかも目覚めていれることです。
ここまで言えば分かると思いますがお腹がいっぱいでも
又その逆でも体が気になるなら邪魔だと言うことです。
ここまでは準備であり瞑想ではありません。
座り姿勢を整え心にあらわれものはあらわれるにまかせ
去るものは去るにまかせる意識的に何もしないことが
瞑想です。ただ座って心にあらわれるものを見ている
良いだの悪いだのと考えずに見ているのです。
無心に至ることが瞑想だと思っていると無意識に
あらわれるものを操作してしまいます。
一切の操作を放棄することが瞑想です。
操作しないことを習うためにはじめは呼吸を見つめることも
役に立ちます。呼吸も長く深いほうが良いのだろうと思っていると
知らず知らずに呼吸を操作してしまうのです。
自然な呼吸にまかせただ見つめることが大事なのです。
また眠気を抑えるためにも呼吸を見つめることは役に立でしょう。
何が心にあらわれようとも一切の操作をしないこと、あるがままに
まかせることが瞑想です。
ほおっておくこと
操作しないこと
いじらないことが瞑想の真髄です。
無選択です。これが無執着の状態なのです。
はじめはこれが難しいのですが
これはコツだから慣れてくれば楽に出来るようになるのです。
操作しないことと格闘してもいけません。
ひたすらリラックスするいことが大事なのです。
体も心も楽にさせておくのです。
・注意点
瞑想の間自我はあらゆる抵抗を見せるでしょう。
こんなに真剣に何ヶ月も瞑想を行っているのに
何も変化が無いではないか?
瞑想をすると体のどこかに異変をきたす。
もっと良い方法があるのではないか?
そもそも悟りなどあるのか?
あのひとの言っていることは嘘なのではないか?
このようなあらゆる疑問を自我はあらわすことでしょう。
このような思いは神仏を疑うまで進む場合もあるのです。
そのような思いもほおっておくことです。
自我からあらわれる思いを自己の思いであり
わたしの考えだと思ってしまうことが負ける理由です。
わたしはこう思ったこう考えたとわたしの思いであり
考えだと思うことがしたがってしまう理由なのです。
思いや思考はあなたの思いや思考ではありません。
条件によりただあらわれてくる物なのです。
わたしの思いや考えなどないのです。
我々はこのようなものを所有してはいないのです。
わたしはこう思うわたしはこう考えると便利上使う事は
何も問題はありません。わたしの思いでも考えでもない事を
知っていることが必要なのです。
また瞑想では色々なものが心にあらわれ、また去っていくことでしょう。
ですが自己を学ぶことが悟りであり
どのように晴らしいものが見えてもそれは悟りではありません。
見られるものがどんなに素晴らしく見えてもそれを見るものが
我々であり決して我々は見られるものではありません。
常に我々は主体であり見られるものである客体ではないのです。
至福が訪れたり。
怖いほどの静けさが訪れたり。
透明な知覚が特徴と言う状態が訪れたり
神に出会ったりもするかもしれません。
だが出会うことの全ては悟りではありません。
決して勘違いをしてはいけません。
何が訪れても来るにまかせ、また去るにまかせるのです。
そのようにしていれば何時かは、
見るものが何もないという所に行き着きます。
そうです。あなたは決して見られるものではないのです。
見るものが何もなくなったとき主体だけになったときはじめて
自己を知るのです。
おおよそ瞑想とはこのようなものですが、本来瞑想とは何かを得るための
技法ではないのです。本来の我々は今でも瞑想の状態にあるのです。
技法としての瞑想は意識的にそれを確認するためのものなのです。
また瞑想とは座って行って完了するものではありません。
日常の中で来るものは来るにまかせ、去るものは去るにまかせる
あるがままの生き方が出来た時完了といえるのです。
また必要な事を思い出したら追記していきます。
今日はここまでです。それでは。
瞑想には沢山の種類がありますが本日は禅のようにただ座ると言う
瞑想の方法をお話したします。
・服装
ゆったりしていて、着ていることをあまり意識させないものが最適です。
・座り方
楽であり身体を忘れるような姿勢が最適です。
足の組み方は半跡朕座でも結跡朕座でも構いません
座禅の座蒲に座ると安定させやすいですが無ければ固めの
座布団を二つ折りにして使うと良いでしょう。
どう座るかより楽であり安定していることが大事です。
瞑想を続けていれば次第に安定した姿勢がつかめてきます。
・姿勢
姿勢で大事な事も楽であり身体を忘れてしまうような姿勢が理想です。
背筋をまっすぐ伸ばすことが楽な姿勢です。
・目
目はつぶろうが、半眼だろうが好きにすると良いです。
半眼の時の注意点はことさら何かを見ないことです。
何かを意識してしまわないように壁に向かうのも良いとおもいます。
・手の組み方
手どのように組んでも又膝の上においても構いません。
ネットで検索してみて自分の好む組み方をすればよいです。
・時間
朝晩40分~一時間くらい
ここで大事なことはそろそろ止めようかと思い止めないことです。
あらわれる思いをあらわれるにまかせることこそが瞑想だから
止めようと言う思いにとらわれ突き動かされたら
瞑想ではないと言うことなのです。
ですから目覚まし時計か何かで終了を告げ数分瞑想をやめても
座ったままでいてゆっくり立ち上がるのが良いでしょう。
さあこれで瞑想でしょうか?
これでは瞑想と言いません。
どう座るのか、どう姿勢をとるのか、
目を閉じるべきか半眼であるべきか
手をどのように組むべきかは大したことではないのです。
大事なことは楽であり体を忘れてしまうような状態であり、
しかも目覚めていれることです。
ここまで言えば分かると思いますがお腹がいっぱいでも
又その逆でも体が気になるなら邪魔だと言うことです。
ここまでは準備であり瞑想ではありません。
座り姿勢を整え心にあらわれものはあらわれるにまかせ
去るものは去るにまかせる意識的に何もしないことが
瞑想です。ただ座って心にあらわれるものを見ている
良いだの悪いだのと考えずに見ているのです。
無心に至ることが瞑想だと思っていると無意識に
あらわれるものを操作してしまいます。
一切の操作を放棄することが瞑想です。
操作しないことを習うためにはじめは呼吸を見つめることも
役に立ちます。呼吸も長く深いほうが良いのだろうと思っていると
知らず知らずに呼吸を操作してしまうのです。
自然な呼吸にまかせただ見つめることが大事なのです。
また眠気を抑えるためにも呼吸を見つめることは役に立でしょう。
何が心にあらわれようとも一切の操作をしないこと、あるがままに
まかせることが瞑想です。
ほおっておくこと
操作しないこと
いじらないことが瞑想の真髄です。
無選択です。これが無執着の状態なのです。
はじめはこれが難しいのですが
これはコツだから慣れてくれば楽に出来るようになるのです。
操作しないことと格闘してもいけません。
ひたすらリラックスするいことが大事なのです。
体も心も楽にさせておくのです。
・注意点
瞑想の間自我はあらゆる抵抗を見せるでしょう。
こんなに真剣に何ヶ月も瞑想を行っているのに
何も変化が無いではないか?
瞑想をすると体のどこかに異変をきたす。
もっと良い方法があるのではないか?
そもそも悟りなどあるのか?
あのひとの言っていることは嘘なのではないか?
このようなあらゆる疑問を自我はあらわすことでしょう。
このような思いは神仏を疑うまで進む場合もあるのです。
そのような思いもほおっておくことです。
自我からあらわれる思いを自己の思いであり
わたしの考えだと思ってしまうことが負ける理由です。
わたしはこう思ったこう考えたとわたしの思いであり
考えだと思うことがしたがってしまう理由なのです。
思いや思考はあなたの思いや思考ではありません。
条件によりただあらわれてくる物なのです。
わたしの思いや考えなどないのです。
我々はこのようなものを所有してはいないのです。
わたしはこう思うわたしはこう考えると便利上使う事は
何も問題はありません。わたしの思いでも考えでもない事を
知っていることが必要なのです。
また瞑想では色々なものが心にあらわれ、また去っていくことでしょう。
ですが自己を学ぶことが悟りであり
どのように晴らしいものが見えてもそれは悟りではありません。
見られるものがどんなに素晴らしく見えてもそれを見るものが
我々であり決して我々は見られるものではありません。
常に我々は主体であり見られるものである客体ではないのです。
至福が訪れたり。
怖いほどの静けさが訪れたり。
透明な知覚が特徴と言う状態が訪れたり
神に出会ったりもするかもしれません。
だが出会うことの全ては悟りではありません。
決して勘違いをしてはいけません。
何が訪れても来るにまかせ、また去るにまかせるのです。
そのようにしていれば何時かは、
見るものが何もないという所に行き着きます。
そうです。あなたは決して見られるものではないのです。
見るものが何もなくなったとき主体だけになったときはじめて
自己を知るのです。
おおよそ瞑想とはこのようなものですが、本来瞑想とは何かを得るための
技法ではないのです。本来の我々は今でも瞑想の状態にあるのです。
技法としての瞑想は意識的にそれを確認するためのものなのです。
また瞑想とは座って行って完了するものではありません。
日常の中で来るものは来るにまかせ、去るものは去るにまかせる
あるがままの生き方が出来た時完了といえるのです。
また必要な事を思い出したら追記していきます。
今日はここまでです。それでは。
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2012/03/29
06:09:49
瞑想次第・心得
瞑想とはあるがままに何もせずくつろいでいることです。
ただ何もせずくつろいでいることが如何して難しいのだろう。
何かを得る為の手段として瞑想を行っているからです。
上手くすれば悟りを得られるかもしれない。
上手くすれば至福を感じれるかもしれない。
上手くすれば解脱できるかもしれない。
上手くすれば涅槃にいけるかもしれない。
上手くすればブッタになれるかもしれない。
このような様々な目的があるから瞑想が手段になるのです。
ただ座りリラックスしてくつろいでいなさいと言っても。
得たいものがあるからあなたは無意識に何かを行ってしまうのです。
瞑想以外の何かを行い続けるのです。
だから瞑想が難しいのです。
何もしないことが難しいのです。
あるがままでいることが出来ないのです。
悟りを得たいと言う思い
解脱したいと言う思い
智慧を得たいと言う思いも
執着であり心に波を生み出す原因になるのです。
瞑想とは手段でない時、瞑想なのです。
何かを得る目的の為に座れば必ず何かを行うのです。
悟りも無く
悟りに行く道も無い
解脱も無く
解脱する道も無い
法も無ければ
世界も無い
一切は無であると思うことです。
煩悩の川は何もないと思うことで渡ることができます。
何かがあると思うから心が乱れるのです。
もし何も無いと思えないなら理解を深めることです。
この世は何の実態もありません。
夢のようなものなのです。
実体の無いもの、夢をあると言えますか?
そうです。
ダルマの実践につとめるものは解脱も悟りも得られないのです。
例えなんであってもそれが解脱や悟りであっても
得ようとしている限り決して心は静まらないのです。
得ようとしていることことが、心に波をおこすのです。
実は悟りとは何処から得るようなものではありません。
初めからわたしたちは悟りであるのです。
何かを求め続けるからただ失い続けているだけなのです。
解脱もわたしたちは初めから解脱しているのです。
何かを求め続けるから束縛が生まれているのです。
何が必要なのかは簡単なのです。
何も無い何も得られるようなものは無いのだと知り
得ようとすることをやめることなのです。
何も無いと知れば意識は内側にとどまり
こころは静まります。ある人たちが真我の実現と呼ぶ
状態に成るのです。
またあるひとたちはこの状態を涅槃と呼びます。
我々は初めから神仏です。
如何して、もう一度神仏になる必要があるのでしょう。
仏が仏になって如何するのでしょう。
仏になろうとするからはじめから仏だと言う自覚を
失い続けるのです。
何もいらないのです。
何かを得ようとする企てをただ捨てればよいのです。
何も無いと思って煩悩の川を渡り、
彼岸に行くのです。
何も求めるなと言っても無意識に求めてしまうでしょう
この世には何も無い何かを得ようとしても意味が無いことを
心が静まるまで知ることが求めをやめさせてくれます。
何も無いと思ってただ座ることです。
心にあらわれるものは、あらわれるにまかせ
去るものは、去るにまかせ一切の動きを放棄するのです。
もしこれが出来たら意識は内側にとどまり
心は静まることでしょう。
瞑想の成功をお祈り申し上げます。
瞑想とはあるがままに何もせずくつろいでいることです。
ただ何もせずくつろいでいることが如何して難しいのだろう。
何かを得る為の手段として瞑想を行っているからです。
上手くすれば悟りを得られるかもしれない。
上手くすれば至福を感じれるかもしれない。
上手くすれば解脱できるかもしれない。
上手くすれば涅槃にいけるかもしれない。
上手くすればブッタになれるかもしれない。
このような様々な目的があるから瞑想が手段になるのです。
ただ座りリラックスしてくつろいでいなさいと言っても。
得たいものがあるからあなたは無意識に何かを行ってしまうのです。
瞑想以外の何かを行い続けるのです。
だから瞑想が難しいのです。
何もしないことが難しいのです。
あるがままでいることが出来ないのです。
悟りを得たいと言う思い
解脱したいと言う思い
智慧を得たいと言う思いも
執着であり心に波を生み出す原因になるのです。
瞑想とは手段でない時、瞑想なのです。
何かを得る目的の為に座れば必ず何かを行うのです。
悟りも無く
悟りに行く道も無い
解脱も無く
解脱する道も無い
法も無ければ
世界も無い
一切は無であると思うことです。
煩悩の川は何もないと思うことで渡ることができます。
何かがあると思うから心が乱れるのです。
もし何も無いと思えないなら理解を深めることです。
この世は何の実態もありません。
夢のようなものなのです。
実体の無いもの、夢をあると言えますか?
そうです。
ダルマの実践につとめるものは解脱も悟りも得られないのです。
例えなんであってもそれが解脱や悟りであっても
得ようとしている限り決して心は静まらないのです。
得ようとしていることことが、心に波をおこすのです。
実は悟りとは何処から得るようなものではありません。
初めからわたしたちは悟りであるのです。
何かを求め続けるからただ失い続けているだけなのです。
解脱もわたしたちは初めから解脱しているのです。
何かを求め続けるから束縛が生まれているのです。
何が必要なのかは簡単なのです。
何も無い何も得られるようなものは無いのだと知り
得ようとすることをやめることなのです。
何も無いと知れば意識は内側にとどまり
こころは静まります。ある人たちが真我の実現と呼ぶ
状態に成るのです。
またあるひとたちはこの状態を涅槃と呼びます。
我々は初めから神仏です。
如何して、もう一度神仏になる必要があるのでしょう。
仏が仏になって如何するのでしょう。
仏になろうとするからはじめから仏だと言う自覚を
失い続けるのです。
何もいらないのです。
何かを得ようとする企てをただ捨てればよいのです。
何も無いと思って煩悩の川を渡り、
彼岸に行くのです。
何も求めるなと言っても無意識に求めてしまうでしょう
この世には何も無い何かを得ようとしても意味が無いことを
心が静まるまで知ることが求めをやめさせてくれます。
何も無いと思ってただ座ることです。
心にあらわれるものは、あらわれるにまかせ
去るものは、去るにまかせ一切の動きを放棄するのです。
もしこれが出来たら意識は内側にとどまり
心は静まることでしょう。
瞑想の成功をお祈り申し上げます。
2012/10/18
18:33:39
・自己探求という観法
今回は行為を落とす、自己探求という観法の方法と
行為を落とす(身心脱落)とは何かについて、語ります。
禅、何もしない事、全ての行為を落とすことですが、
何もしないことぐらいむずかしいことはありません。
何もするなと言うと何もしない事をしてしまいます。
一体何もしないとはどんな事でしょうか?
我々は常に何かに向かっております。
今の状態より、よい状態にと感じる方へ無意識のうちに向かっているのです。
禅が無心だと思っていると、無心を追い求めます。
行為を落とすことが禅だと知ると無意識のうちに行為を落とそうとします。
それが行為なのです。
呼吸は深く有るべきだと思っていると無意識のうちに呼吸をいじります。
雑念は駄目だと思っていると、何とか雑念を無くそうとする。
生の如何なる瞬間も何かの為に何かを行っているのです。
ですから我々の瞬間は、今は、常に何かの為の過程なのです。
貴方は今不幸だと感じていたら、
貴方は今苦しんでいたら、
貴方は今幸せでないなら
貴方は今満足していないなら、
今の瞬間から次の瞬間へ向かわずにいることが出来ないでしょう。
今の瞬間は不完全でありもっとよい状態を無意識に探すからです。
貴方は今不幸だと感じていたら、
貴方は今苦しんでいたら、
貴方は今幸せでないなら
貴方は今満足していないなら、
永遠に幸せは満足は得る事が出来ないでしょう。
常に今の瞬間は過程になるからです。
この瞬間の中に完全があり絶頂があるのです。
今が過程でない時、今は絶頂になるのです。
苦しみは嫌だ、
不満足は嫌だ、
悪は嫌いだ、
求めること、避けることをやめようとしてもそれは無理だ
貴方がたはわたしを所有するから、
貴方がたには嫌いなものがあり、好む物がある。
だから無意識のうちに今の瞬間を嫌ったり好んだりし、
今を避けたりつかんだりし続ける。
今を避けたりつかんだりが無常だから出来ないから苦しむのではないですか。
この動きは満足したいという思いの表れでだり。
満足を求めて社会では何かを貪り続け、
また満足を求め覚醒の道をうろつくのです。
社会で欲望を貪っているのと、
覚醒の道で満足を貪る何も変わりはない。
進む方向が向きが変わっただけだ。
では何が必要であるのか。
今を避けたり次の今を求めたりするのをやめる事だ。
今がどんなに苦しみに満ち溢れていようとそれに満足しなさい。
今が静けさにおおわれていなくてもそれに満足しなさい。
涅槃は今ここに在る。
探し回るな。
次の瞬間を求めなければ今この瞬間に涅槃はある。
今は明らかに涅槃とは異なると感じる今に満足できた時、
今がそのまま涅槃になる。
今は明らかに静かでは無いと感じる今に満足できた時、
今がそのまま静けさにおおわれる。
我々は今の瞬間が過程であるから、
この瞬間から次の瞬間に向かって何かを行っている。
続く。
今回は行為を落とす、自己探求という観法の方法と
行為を落とす(身心脱落)とは何かについて、語ります。
禅、何もしない事、全ての行為を落とすことですが、
何もしないことぐらいむずかしいことはありません。
何もするなと言うと何もしない事をしてしまいます。
一体何もしないとはどんな事でしょうか?
我々は常に何かに向かっております。
今の状態より、よい状態にと感じる方へ無意識のうちに向かっているのです。
禅が無心だと思っていると、無心を追い求めます。
行為を落とすことが禅だと知ると無意識のうちに行為を落とそうとします。
それが行為なのです。
呼吸は深く有るべきだと思っていると無意識のうちに呼吸をいじります。
雑念は駄目だと思っていると、何とか雑念を無くそうとする。
生の如何なる瞬間も何かの為に何かを行っているのです。
ですから我々の瞬間は、今は、常に何かの為の過程なのです。
貴方は今不幸だと感じていたら、
貴方は今苦しんでいたら、
貴方は今幸せでないなら
貴方は今満足していないなら、
今の瞬間から次の瞬間へ向かわずにいることが出来ないでしょう。
今の瞬間は不完全でありもっとよい状態を無意識に探すからです。
貴方は今不幸だと感じていたら、
貴方は今苦しんでいたら、
貴方は今幸せでないなら
貴方は今満足していないなら、
永遠に幸せは満足は得る事が出来ないでしょう。
常に今の瞬間は過程になるからです。
この瞬間の中に完全があり絶頂があるのです。
今が過程でない時、今は絶頂になるのです。
苦しみは嫌だ、
不満足は嫌だ、
悪は嫌いだ、
求めること、避けることをやめようとしてもそれは無理だ
貴方がたはわたしを所有するから、
貴方がたには嫌いなものがあり、好む物がある。
だから無意識のうちに今の瞬間を嫌ったり好んだりし、
今を避けたりつかんだりし続ける。
今を避けたりつかんだりが無常だから出来ないから苦しむのではないですか。
この動きは満足したいという思いの表れでだり。
満足を求めて社会では何かを貪り続け、
また満足を求め覚醒の道をうろつくのです。
社会で欲望を貪っているのと、
覚醒の道で満足を貪る何も変わりはない。
進む方向が向きが変わっただけだ。
では何が必要であるのか。
今を避けたり次の今を求めたりするのをやめる事だ。
今がどんなに苦しみに満ち溢れていようとそれに満足しなさい。
今が静けさにおおわれていなくてもそれに満足しなさい。
涅槃は今ここに在る。
探し回るな。
次の瞬間を求めなければ今この瞬間に涅槃はある。
今は明らかに涅槃とは異なると感じる今に満足できた時、
今がそのまま涅槃になる。
今は明らかに静かでは無いと感じる今に満足できた時、
今がそのまま静けさにおおわれる。
我々は今の瞬間が過程であるから、
この瞬間から次の瞬間に向かって何かを行っている。
続く。






