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大乗それは偉大な乗り物、万人を乗せる救済の船
2020/02«│ 2020/03| 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 »2020/04
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09:41:08
これは掲示板のコメントの転記です。


ここのお集まりのみなさん、良くお聞きください。
これを忘れると何処にもいけません。
さいさん、メモメモです。絶対に忘れないことです。
手にでも書いていてください。

悟りに向かっていると言うキーワードが示す答えは、
悟りに向かえば如何しても超えられない条件付けが残るということです。
わたしは今悟っていないと言う条件付けが残ります。

悟りに向かったり条件付けを無くそうと思ったりしている間は
今は悟っていないと言う条件付けが永遠に残り続けます。

これが悟りを求めれば獲られない
求めなければこれまた獲られない
この無限ループを生み出すのです。

では何が必要なのですょう。
みなさんに必要なのは仏に成ることでも無く。
神になることでも無く。
悟ることでも無い。

今すでに仏であり、
今すでに神であり、
今すでに悟りだと知ることなのです。

わたしが一体何を言っているかみなさんが知ったら笑わないか?
わたしは、飛んでいる鳥に飛び方を教え
泳いでいる魚に泳ぎ方を教えているようなものなのです。

みなさんは、始めから鳥であり今から鳥にもう一度成る必要も無く
羽を何処からか持ってくることも必要ではないのです。

みなさんは、始めから魚であり今さらもう一度魚に成る必要は無いのです。

みなさんは、始めから神仏であり如何してもう一度神仏に成らねばならないのですか?

みなさんに必要なのは、わたしは始めから神仏だと知るだけでよいのです。
みなさんが神仏だと知れば自然に神仏の動きを行い始めるのです。
ですから神仏らしく生きれば良いのだとわたしは言うのです。

神仏らしくいきることが出来てくれば自然に自信が出てくるのです。

わたしはこの世に神仏しか居ないとどの位言っております。
神仏しか居ないなら貴方も神仏でしょう。

身体と心を神仏に明け渡せば、自然に見るものと成るのです。

開けた所になど行く必要がなくなったとき開けが現れるのです。

悟りなど必要で無くなった時、悟りなのです。

ここにお集まりのみなさん、忘れないでください。
みなさんが自分と思っているのが実は神仏です。
それを知れば良いだけです。
みなさんが心と身体を明け渡せば自然に神仏として動き始めます。

わたしは本当に馬鹿みたいなことを行っているのです。

鳥に貴方は鳥だと言い続けているのです。
想像してごらん、馬鹿みたいでしょう。

わたしは、飛んでいる鳥に貴方は鳥だ飛んでいるでしょと言い続け。

飛んでいる鳥はわたしは鳥では無い、これから羽を何処からか
持って来て鳥になり、飛ぶ練習をするのですと言う。

今飛んでいる鳥が如何して鳥になる必要がある。

みなさんこれは一体如何したら良いと思う。

わたしは知恵の限りを尽くしてみなさんは始めから
それだと教えているのです。

お釈迦様の原始仏教の教えはね、
わたしは今鳥では無いと言う思いを認めて、
そこから鳥だと気づく道を説いたのです。

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21:27:19
この記事は交流掲示板からの転記です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

みなさん今日は。


>テレビで震災関係の番組を見ています。
>学校で生徒と先生が大勢亡くなって、その遺族のことでした。
>悲しさが伝わってきて、遺族の苦しさも想像しました。


世界は変化するから苦しみがありえます。
出来たもの、作ったものは如何なるものであっても壊れ去る。


時代の変化も人々を苦しめてきました。
震災で命を失った人の命は返りませんが残っている者の苦しみの多くは
個人の成果と責任によりもたらされる。


また出来るだけ危険を避ける事が必要ですが、
個人の責任と言うものが有る限り危険を避ける事すら難しいのです。


いまだに、十万人以上の方が仮説住宅で暮らします。
この内どのくらいの方が住宅を再建できるのでしょう。


再建できない人も問題だし、
出来る人も多くの問題を抱えることとなります。


この世はあらゆる物が壊れて行くのです。
その責任を個人が負担する限り我々は安らぐことが出来ないでしょう。


如何なる問題も心の問題です。
ですが心の問題を解決できず、苦しみの中でもだえている
多くの人が居るのです。
わたしは自分の心の問題を解決すればそれで良いと言うなら
その人は今だ心の問題を解決できていない事を表します。


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2013/03/14
07:33:28
掲示板の記事の転機です。


・問い
>今回の場合、妻も同じ存在。鏡に映る自分。
>鏡に映る自分に向かって怒っているのと同じという事でしょうか?



・回答
人はみな異なるように見えるでしょう。
同じ人はどんなに人を集めてもいないから当然です。


例えば、金から金の加工品を作る。
指輪やネックレス、ブレス、その他金の加工品は沢山あるね。
指輪とブレスは同じでしょうか?


指輪とネックレスは異なるね。
これは当たり前ですね。


では金の様々な加工品は様々に異なります。
どれも同じとは呼べない。


では金の様々な加工品を溶かしてみよう。
金の加工品を溶かしたら、一つの金になりますね。


指輪とブレスは形も名前も用途も異なり、
同じとは言えなかったが、溶かすと同じ金になる。


では指輪とネックレス、溶かす前は異なる物であったのだろうか?
金が様々に加工されると異なる形態と名前になり、用途も異なるが
金は同じ金だったのですね。


これが分かると、凡はそのまま聖が了解されます。


人の異なるのは、遺伝子と体験により、加工された加工品だからです。
人の遺伝子と体験で加工された加工を溶かすと何も無くなり、
継続する存在意識だけが残る。


これが真実の人です。
この真実の人はあらゆる特徴を持ちません。
この世であらゆる特徴を持たないものを言葉で表せば、何かでない者
何でもない者となります。これをある人たちはアートマンと呼びます。


本来は何かでない者を直接呼ぶことができません。
何かでないからです。
正しく呼べば、それ、あれ、これと呼ぶしかない。


人の加工部分を溶かすとすべての特徴が消え人は一人と言えます。
また、わたしと言う特徴も持たないから、わたしとすら呼べないのです。


きょうは、本質とい面から見ました。
加工品としての人も全体としてつながって動いているから個々は全体の部分です。
本来は加工品は人とも呼べないのですが。
動く人は行為と呼んだほうが良いね。



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07:41:16
掲示板の記事の転機です。


問い。


よく因果応報とか原因と結果の法則とか、
カルマとかありますが、これって、真我以外のものは、
心であれ、身体であれ、行為であれ、
すべてに適応されるものなんでしょうか?
真我のみがはずれてしまうんでしょうか?




回答。


真我とはね、何も無いことを表すのですよ。
何も無い物に因果が適応されるでしょうか?


因果とはね、依存を表すのです。
過去に依存して今があり、今に依存して未来がある。


原因に依存して結果がある。
この依存関係が因果と言われます。


真我とは何かでない物であり、依存しょうが無いのです。
何かがあって、始めて依存が成立するのです。


縦軸を説明する為に因果応報が説かれますが、
カルマにも因果にも個人的物はありません。
個々の因と果が複雑に絡みあい、宇宙の因果を形成しております。
これは精神作用であれ何であれ因果を逃れられません。
心の動きも行為と考えてください。


個人的因果が無いことの証明を致します。
水に石をほんと落とすと波紋が広がりますね、
水がつながって影響を与えてる証拠です。


我々に何かが起きるとその影響は家族へ親類へ友人へと広がって
何かしらの影響を与えます。
家族の苦しみは一人の苦しみではありませんね。


人に起きた大きな問題ほど、
つながりの濃い人から薄い人へつながりの深さに応じて
反響してゆくのです。これはね
、因果とはつながっている証なのです。


もし因果が個人の物であるなら、
一人に起きたことが誰かに影響を与えたら可笑しなことになるのです。


ですから仏教ではこれを縁起と呼びます。
縁起の中に因果応報も入っているのですが、
縦軸だけを表したら可笑しなことと成るのです。



個々の原因と結果が、複雑に絡み合って、
この原因は何かと探っても絡み合っているため
一つに特定できない状態なのです。
カルマも全体で一つになっているのです。
これを仏教では法界縁起と呼びます。


ここまでお話したらもう一つ。


因果の法則とは、
原因と結果が実は時系列に起きている訳ではないのです。



今の結果の原因があり、その原因にはまた原因がある、
その原因にはまた原因がある。
原因の原因といくら探っても、何処まで行っても、
原因があり、初めが無いのです。
原因と結果の法則とは、主たる初めの原因が無いことを表すのです。


これは可笑しな事でしょう。
全ての物には原因がある、と言うのが原因と結果の法則ですが、
その法則とは初めの原因が無いこいとを表すのです。


だからこの世は初めが無く、終わりが無いと言われうのです。
この現象世界とは、始めが無いのです。
これはね我々が現実と呼ぶ世界とは、
夢のようなものだと言うことなのです。
始めの原因が無い現実とはおかしいでしょう。


科学的に探求しても、科学とは原因と結果の法則だから、
同じ矛盾に突き当たるのです。


その矛盾を解決する為に科学は、
宇宙は無からビックバーンという出来事で始まったとしこの矛盾を
解決しょうとしているのです。
原因が無いところから、始めとしなければ、
原因と結果の法則は矛盾になるのです。


さて今日はこのくらいに致します。

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08:10:06
掲示板の記事の転機です。




悟りには苦しみが必要では?



回答

苦しみは必要だについて。
現在までの世は苦しみで悟りを求め始めるから、
体験を考えたり、体験談を聞けば必要だとなる。


ですが体験的に考えるのではなく、智慧を使ってごらん。


苦しみが必要なのは、覚醒に向かう縁となるからだけです。
苦しみ自体が悟りの条件ではありません。


悟りの条件とは、この世界に真我を神仏を完全を見ることが
条件です。それのより心が静かになり、
意識が内側中心に定まります。表現は沢山ありますが、
それが悟りですね。


この世に問題が無いと知ることが直接の条件です。


なら問題が見当たらない世界を生み出せば誰でも問題が無いと見える。


今の世は人から見れば問題だらけだから、
問題が無いと見るのがむずかしいのです。
この世が神の国と成れば誰でも問題が無いと
見ることが可能になるのです。


この世の問題を解決するほど人は悟りやすくなるのです。


何が必要で何が必要でないのか、何が悟りの条件で
どうすれば宵のか智慧を使い考えること自体が既に救済です。


本来は人殺しでも救済です。
苦しみが必要な世界ならそうなります。


それではあまりにもひどいから、
我々は無理だでは無く無理でも考えることが必要です。
仏教では弥勒菩薩が、弥勒浄土を生み出すと言われております。


キリスト教でも似たようなことが伝えられております。
悟りにとって、苦しみは条件ではない、ただの縁です。
条件を知れば方法が見えてくるのです。


今回この位にしますが、まだまだ救済の方法の理論をお話できます。


みなさんには、今まで色んな言葉でお話しましたね。
でも今回のお話は初めてです。
おぼえておいてください。


この世の問題が無くなればわたしは凡だという思いも無くなるのです。
悟りは求めて得る物ではなくなるのです。


苦しみとは悟りを求めるために必要なのだから、
必要では無くなるのです。


今の世界は苦しみを縁として悟りの道に入るだけであり、
苦しめば誰でも悟るという条件ではないのです。


条件はただ一つ、世界に神仏を見て満足し意識を内側に
留めることそれだけです。


世界の問題が消えるほどに意識は内側に止まり始めるのです。
意識をその側に向ける気になることが減るからです。
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2013/03/26
08:40:19
みなさん今日は。

エルさん。

>生きがいがあれば、人は苦しみにも耐えられるとされています。


わたしには、生きがいを持たないと言う生きがいがあります。
わたしには、希望を持たないと言う希望があります。


人の生きがいとは、生きがいで無い物に何時でも変化しえます。
人の希望とは、何時でも絶望に変化しえます。


ですがね、わたしの生きがいとは、
希望とは持たないことで生まれております、
ですから、希望が絶望に変化しようが無いのです。


これをわたしは、絶対の生きがい、絶対の希望と呼びます。
人の生きがいや、希望とは、相対的で何時かは失います。


わたしの生きがいや、希望とは死んでも失われないのです。


>生きがいがあれば、人は苦しみにも耐えられるとされています。
もう一つ、わたしに耐えなくては成らない苦しみは無いのです。


耐える苦しみなら、何時かは耐えられなくなる。
生きがいを持たないと言う生きがいは、
希望を持たないという希望は決して苦しみを生み出さないのです。


人は生きがいを持つ、
希望を持つそれが裏切られるから苦しみが有りえるのです。


ですがわたしにはそれが無い、だから裏切られる事も無く、
自分の思うように行かないとな悩む事も無いのです。


自分の思うように行かないから苦しみが成立する。
思うようにが無くなれば、思うように行かない事も無くなるのです。


このように理解が進むと、自在に生きがいを見つけ、
自在に希望を持っても、思うように行かない事が無くなります。


ですからわたしは、生きがいを持っても、希望を持っても
思うように行か無いことがなく、
生きがいが生きがいで無い物に変化する事が無く。
希望が絶望に変化する事もない。


わたしの希望とは変化しない絶対的希望なのです。


わたしは自在に生きがいを見つけ、
わたしは自在に希望を持つがそれが自由自在なのです。
わたしには求めて得られなくても苦しみが現れない、
得たものを失っても苦しみが現れないのです。
ですから自在に求めを表し決して苦しまないのです。


苦しみを耐える必要も無いのです。


自由自在の秘密がここにあります。


人は不自由です。
求めたら、得られなかったら苦しむ
得たら、失ったら苦しむ。


求めたら得られなかったら苦しむから求めない。
得たら全ては無常だから得ない


この二つのタイプに分かれます。
このどちらのタイプも不自由です。


わたしは、自由に求め得ても得なくても失っても苦しまない。
これが自由なのです。


求めて得られないから苦しむのではありません。
得たものを失うから苦しむのではありません。
無常が苦しみの原因ではない。


心に苦しむ原因があるから苦しむのです。


心の苦しみが現れる原因を解決すれば苦しみは無くなるのですから
苦しみに耐ええる方法など必要ではないのです。


みなさんもよくこれを読んで理解して下さいね。
エルさん一人にお話しているのではございません。


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2013/04/09
09:57:46
みなさん今日は。


今日は方便について少し語ってみます。
言葉は全て方便であり、教えも方便であり、この宇宙も全て方便です。


このように見るとこの世には何の問題も無いと成ります。
この世の一切は神仏の説教ですと成るのです。
何でも良いと成るわけです。
宇宙の一切は神仏の説法であり、何も問題はないの理解が大円鏡智です。
その本質は全ては平等であるとの理解は平等性智です。


では、宇宙の一切が神仏の教えであり、方便なら何でも良いのかです。
そもそも何でも良いなら宇宙の一切が教えである必要も無いわけです。


では宇宙の一切の教えである、方便を分けてみましょう。
直接説かれた教えと、
その他の宇宙の一切の教えは何処が異なるのでしょう。
直接的と間接的です。


この世で教えとして説かれた方便とは、
直接的に悟りえ導くものです。
その他の宇宙の一切は間接的教えであり、
直接には悟りえ導くものではありません。
一切の体験の全ては間接的にこの世で
説かれた教えに導き何かしらの教えにより
悟りえと導くものです。


教え以外の、言葉の一切は体験の一切は間接的方便です。
宇宙の一切が教えであるから何でも良しは間違いなのです。
求道者である前は、何でも良しです。
その行為の一切は間接的教えだからです。


求道者とは、間接的教えと、
直接的教えを理解し直接的教えの行為に移行し
求道者と呼ばれるわけです。
宇宙の一切は神仏の教えであるから何でも
良しではないことを理解する事を、
妙観察智と呼びます。


行為で言えば悪は間接的教え、
善は直接的教えとなります。
宇宙の一切が神仏であり、神仏の教えであるが、
教えである以上何かを伝えるもので
あらねば、教えとは呼べません、
それを詳細に理解する事が妙観察智です。


それを詳細に見極めたら、それに基づく行為が生まれます。
それを成所作智と呼びます。


ここでわたしが一体何を言いたいのでしょう。
大円鏡智と平等性智で事物を裁くのを止め。


大円鏡智と平等性智で何でも良しに成った上で
妙観察智で何でも良しを超え、
成所作智で道理にそって生きる事が必要なのです。
仏教ではそう考えます。
ですから仏教とは布施、慈悲を大事にするのです。
布施、慈悲は直接的教えであり直接的方便だからです。


何でも良しで在って何でも良しではない生き方です。
間接的教えを認めたうえで直接的教えに導き、
自らは直接的教えに生きるこれが、求道者の行為なのです。
これを間違えると、自らも何でも良しとなります。


この宇宙に何も問題は無いが、
問題を解決しなくては成らない理由がここに在るのです。


今日は直接的方便と間接的方便を分けて、
大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の説明をして見ましたが。
大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智が完成すると
法界体性智が現れます、これで五智の完成であり、
大日如来の全智の完成です。



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11:14:10
皆さん今日は。


やはり予定は予定道理には行かないものです。
2日前に浮かんで来ていたものが昨日と今日は全然です。


浮かんで来たものはその時にまとめて記憶にしまわないと、
後からは思い出せません。


と言うことで、次に浮かんだときに書くことにします。


今日はmkさんの以下のコメントから浮かんだことです。


>この本の前半を読んでいっているところで、エゴ、
自我の動きについて様々な説明がされていました。


エゴと自我を分けてお話してきましたが、
エゴとは何かについてまだでしたね。
内と外が在ると、
内側に愛が働き外側にエゴと言う働きが生まれます。


最も内側の愛とは真っ直ぐで、
外側にそれが向かうとエゴと成りえる。
世界には人が沢山いて全ての人が個人と
思い込んで内と外を生み出している。


これがわたしと、その他で内と外です。
内側どうしの真っ直ぐな愛は外側では互いに対立する、
これがエゴです。


内側の真っ直ぐな愛は愛を実現する為に、
その真っ直ぐさを曲げます。
それが協調性で社会性です。


この協調性、社会性とは偽り、偽善、見せ掛け、
悪と言う言葉で表現できます。
人の中の協調性や社会性がそのまま社会を生み出しますので、


この社会の在りかたを見てください。
憎む、偽り、悪、醜さが見えませんか?
一見紳士的社会がその真相を見ると、
自分勝手が、仮面をかぶったものですね。
ただの見せ掛けです。


憎む、偽り、悪、醜が愛、真、善、美と成らねばなりません。
これが神示の表現ですね。


集まりの中でも、一見内側で愛が働き、
外側でエゴと成ります。
家庭も企業も宗教も国家も同じですが、
その愛は最も内側での愛の働きが
協調性を生み出したものだから、
団体の中の愛も見せかけです。


だから、憎む、偽り、悪、醜が現れている。
だから、人の生み出している社会は醜くい。


でもねこの醜さを生み出しているのは、
愛であり愛から表れる良心なのです。
この良心とは神の心であり、仏の心なのです。


だから人はこの社会の問題を知ると良心が痛むのです。
内側と外側が分けられている事が問題なのです。


神の仏の良心が内側で働くと外側にエゴを生み出すのです。
人が個人と自分を見なすことで、内と外が生まれれ、
神の愛がそこから表れる良心が個に向かって働き、
憎む、偽り、悪、醜を生み出すのです。


人の中の愛が内側に働くのが、悪心と現れ、愛その物が持つ
心は善心であり、善心と悪心は愛から現れる。


この働きが世界の中でも働きハルマゲドンを生み出します。
ハルマゲドンとは愛と愛の戦いです。
 

我を無くすことで、愛は対象を定めず外側に向かって流れ出し、
その動きが宇宙に働く良心となるのです。
我々がわたしと個人と想っていることで内側が生まれ、
愛が内側に働き外側にエゴが生まれ出るのです。


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13:32:23
皆さんこんにちは。

今日の一言です。

知識とは、心の食料です。


自意識に食料を与えることは、自我を強固に致します。
だから、わたしは、みなさんの自意識に餌を与えません。


みなさん自身も自意識に餌を与えないでください。
餌を与えなければ、自我はそんなに長くは生きられません。
そのうちに飢え死にする事でしょう。


先ず、何が自我の餌になるのかを見極めなければなりません。
慢心が現れることが餌です。
慢心が現れるような、知識を食べないことです。


ブログの更新は怠っておりますが、掲示板で活発にみなさんと
語り合ってます。掲示板にもおこしください。


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18:00:28
皆さん今日は。


今日の一言。


喜びから、愛、真、善、美と現れ。


そこにわたしが入ると、
個の成果を求めるから、喜、愛、真、善、美が曲げられ。


○、憎、偽、悪、醜と変化します。


成果を求める行為には、偽善が入ってしまうのです。


何かの個人的目的を持つ行為と成るからです。


人の大きな勘違いによりこれが生まれます。


宇宙の一切は互いに影響を与えあいながら変化、
生滅する全体として一つのものです。


宇宙を知るためには、身体を知ればよい。
身体は無数の細胞が集まり、器官を構成し、
その器官は独自に器官として働き
その個々の独自な器官の働きが合わさって、
身体を構成し、


独自な器官の働きも実は全て身体を維持すると言う働きと成っています。


宇宙もこれと同じで、
それぞれの個々の働きが宇宙を構成し、
維持しているのです。


成果も大きな勘違いです。
変化するものを表してみましょう。


例えば、砂糖が在ったとします。


この砂糖が、塩になり、みかんになり、石になり、魚になり、
木になり、ほこりになり、水になり、終いには消え去りました。


この変化する、一時を捉え、みかんとか、
石とか言えますか?これを空と呼びます。
人はこの一時的状態を停止的に考え喜んだり、
絶望したりしているのです。


変化する世界の成果とはこの様なものです。
一時も止まらず変化して行くのです。


例えば、飼っていた馬が逃げた、数日したら、
飼っていた馬が野生の馬を連れて戻ってきました。
その馬を調教していたら落馬し怪我をしました。
ですがその馬がよい馬で後には高く売れました。
でも多くのお金が突然得られたので、
博打で全財産を失いましたがその絶望から悟りを求め
終には永遠のわたしに気づく事が出来ました。


人はね常に過程である一場面を停止的に考え右往左往し心を乱し
永遠のわたしに気づく事が出来ないのです。


この右往左往が無くなり、
概況に振り回される心が静まるまで
永遠のわたしを決して知ることはありません。


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2013/07/02
01:24:59

皆さんこんにちは。


今日は如来について語ります。


一如とは、一でありつつそれは異なるが、
異なりつつもそれはそれは一であるという意味です。


万物は差別相を表しているが、
その実相は異なりつつも差別無く一であると言うことです。


又はこれを富士、ふじ、フニ、不二とも言います。


わたしは全体しかないと良く言いますが、真実は、
個でもなく全体でもなく一でもなく二でもない


一なるもののことを語っています。


一々こんなことを説明していたら限りが無いから
普段ははぶいています。


たまにこうして説明をいたします。


皆さん個はその実個ではないが、万物は差別相を表しており、


個ではないと言う立場を決して離れることなく、
差別相を仮のわたしとして生きなければ成りません。


それが上手く出来た時人は根源に入り、根源に入るとは、
根源であった自覚を得ることであり、
そして根源に居ながら差別相の中で生きる姿を如来を呼びます。


如来とは、真如、一如から来た者と言い意味で、
一如の立場を決して離れず差別相の中で上手く生きられたら、


差別相の中で一如として生きるものであり、
それが一如から来た者であり、如来です。


実際は心は一如にあり、差別相の中で生きることが如来です。


昨日お話した真我を仏教の言葉で今日は表しました。
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01:30:48
今日は永遠のわたしとは?誰かを仏教の言葉で語ります。


変化せず、永遠に在るがままに、あり続けるもの、
それが永遠のわたしです。


これを仏教では、涅槃、ニルヴァーナと呼びます。


涅槃は生死を越えているこれこそが唯一の実体と呼べます。


涅槃とは、常楽我浄のことです。


涅槃になると常楽我浄になるのです。


憶えていてください、常楽我浄これがとても大事です。


仏教では。


お釈迦さまはこの世を、無常・苦・無我(非我)・不浄と
お説きになり、そこを抜け出したところに永遠に変る事が無い
安楽の境地があるそれが涅槃寂静だと説いたわけですね。


これを大乗では、三法印(四法印)とか
上座部では確か、三相とかと呼ばれるわけです。


この涅槃とは何かと言うことなのです。


涅槃とは常楽我浄の状態でしたね。では常楽我浄とは何でしょう。


・常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
・楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
・我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
・浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である


上記が常楽我浄の意味です。


常楽我浄とは無常・苦・無我・不浄とは逆なのです。


常楽我浄の我とは如来我のことで、
常楽我浄の常とは常住で永遠に不滅不変と言うことです。


涅槃は常楽我浄を表し、これが永遠なるわたしです。
永遠のわたしとは、如来なのです。仏陀なのです。


悟りそのものなのです。


この常楽我浄を大乗仏教では阿耨多羅三藐三菩提とも呼びます。


又密教の経典の大毘盧遮那成仏神変加持経ではこの菩提を
菩提とは実の如く自心を知ること説きます。


ほら実の如く自心を知ることですからわたしを知ることでしょう。


だから永遠なるわたしを知ることが悟りであり涅槃であり、
それは常楽我浄であり、菩提であり、わたしなのです。


今日は永遠のわたしを仏教の教えで表して見ました。

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07:53:18
さんこんにちは。今日は掲示板からの転記です。


こうぺさん、これが無限ループです。


>維摩経の方ですが、これも、問題意識が問題をつくりだしている、
という話に関係があるように思います。
>ただ、問題意識(思慮や分別)を消すためには、
智慧の道を通しての学び・修行が必要で・・・
>でも、学び・修行と言って力むと、既にそれ自体が問題意識であって・・・
>何とも力の入れ具合が難しいですねぇ。。。


だから修行と呼んでではなりません。
修行と呼ぶと、ここからどこかえ行く又は変化させることを表しますね。


問題意識を消すとはね、どこかえへ行くのではなく、今に留まる事です。
変化させるのではなく、変化をさせる事を辞めることです。


行かない変えないが問題意識を無くすと言うことです。


こう言うとでは何もしなければよいのか?と成りますね。


これを説明するために問題意識と言う言葉を緊張と言う
言葉に置き換えて見ます。


人は生まれながら、無意識の中に何かしらの変化を求める
性質を持っているのです。


この求めが人の心に常に緊張を生み出し続けます。


悟りとは完全なリラックスであり。


心から完全に緊張が取れた状態が悟りです。


悟りへ向かう道が修行と呼ばれると、
どこかへ行く、変化させるになり。


どこかへ行く変化させると成ると心に緊張を生み出すのです。


緊張を心に生み出せば悟りから遠くなります。


無意識のうちにどこかへ向かおうとする心を今に
留めることが必要なのであり、


心の緊張をほぐすことが必要なのです。


心の緊張が完全に取れ完全にリラックスした状態が悟りであり、
だから本来の在りのままが悟りなのです。


こうぺ さん、悟りとは貴方方の名前なのです。


皆さんは元々悟りそのものであり、
これから悟る必要などないのです。


ただ無明により、無意識のうちに何処かえ向かう心が緊張を生み出し
完全にリラックスした悟りの状態が緊張に成っているだけなのです。


だから緊張が取れればそのまま悟りであり、
この世に悟っていない人などいないのです。


だから修行ではなくわたしには修行が必要うだと言う思いを
理解により消し去るのです。


進みのではなく、進むのを辞めるのです、
変えるのではなく変えるのはやめるのです。


ただただ、心をリラックスさせるのです。


完全なリラックスが悟りであり、楽です。
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2013/07/29
07:53:06
みなさん今日は。


今日の一言は、観照と観察の異なりです。


観察とは、観察者と観察されるものと言う二元性で


行われる知ると言う働きを言います。


観照とは、観察者と観察される対象が溶け合って、


一つとなり、知ると言う働きを言います。


観察と観照何が異なるのでしよう。


観察は二元性で。


観照は一元性です。


科学者は観察し。


宗教者は観照するのです。


花を見るとき、花とわたしが在れば、観察です。


見られる花と見るわたしを忘れてしまうと観照となるのです。


花とわたしこの両者を見ている者が観照者です。


花は観照者の一部であり、わたしも観照者の一部です。


花とわたしが溶け合ったものが鑑賞者です。


だから観照とは一元性なのです。


花を見てごらん、花と花を見ているわたしの他に


この両者を見ているものがいませんか?


いるに決まっているでしょう。


だからわたしが花を見ていると皆さんは知っているのです。


この第三者が本来のわたしなのです。根源成るものの目なのです。


常にわたしと共に在り、名前も無く何かと呼ぶこともできなく、


ただ在るがままにあり続ける者、


このものが常に皆さんと共に在るのです。


これが第三者で観照者なのです。


見るものに成るとはこの観照者になると言うことなのです。


だから、見ていなさいとは観察ではなく観照することなのです。

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06:18:09
みなさん今日は今日は交流掲示板からの転機です。


>「執着」とは、「自我」や「欲望」と表裏一体のものだと思いました。

執着と欲望は表裏一体と理解いたとのことですが。

では、愛と欲望の異なりは、慈悲と欲望の異なりは何でしよう。

これが理解されないと、欲望が理解できません。

ただ欲望と言うと愛も慈悲も欲望と人は見なしてしまいます。

愛や慈悲とは根源から表れる純粋な働きで全くそこに執着がありません。

欲望とは、根源から表れる、愛や慈悲が個人意識の中で

曲げられると欲望と呼ばれるものとなります。

では根源から表れる愛や慈悲とは何でしよう。

人の欲望を、大欲にすると、個人の欲は小欲と成ります。

この大欲の中の小欲が個人を生かして行くもので、

この小欲を越える欲が、愛や慈悲と呼ばれるものです。

小欲で身体が生かされないと、愛や慈悲が実行されないからね。

だから個の小欲さえ愛や慈悲なのです。

その上、本当の大欲になると、

欲の中の要求が消えてしまうと言う特徴があるのです。

要求の無い欲が愛や慈悲なのです。

欲から要求を取り去ると、欲は優しさと成るのです。

だから、欲望とは、個人意識で曲げられた愛や慈悲であり、

欲望から個人性を排除し要求が消え去ると愛や慈悲に戻るのです。

この欲望に含まれる要求が執着なのです。

理趣経で語られているように人が人を愛することに何の問題もありません。

愛する人と離れたくないと思う事になんの問題もありません。

そこに要求が入ると問題と成るのです。

この前にこの異なりをお話しましたね。

こうぺさん、欲と一言で言ってしまうと、

人は何が欲で何が愛で何が慈悲で何が良くて何が悪いのか

混乱して分からなくなってしまうのです。

食べる事すら、悪と成ってしまいかねません。

欲が悪いのではないのです。

個人意識に曲げられた欲の質が悪いのです。

だから欲を細かく分別し欲の何が駄目なのかを語らねば

わたしの話のまとめには成らないのです。

ですから先ず、大きくまとめ、その後に、

単語の意味を語らねば成りません。

わたしの話をまとめるには、単語もまとめなくては成りません。

欲とは愛とは慈悲とはが説明されないと何も理解されないのです。

だから無明とはも必要になるのです。

がんばって、こうぺさん。

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2013/08/26
17:40:54
みなさん今日は。


今日の一言は、大乗と小乗です。

新しいひとのこが産まれているのでこの辺で

一度大乗と小乗を定義します。



この定義でひとのこの生き方が分かります。

ここで大乗と呼ぶのは仏教の大乗だけではありません。

ここで大乗と呼ぶのは、世界の為にと言う生き方であり、

世界の幸せの中にこそ個の喜びが花開くとの

理解から生まれる生き方全般を指し示します。

小乗とは、ここでは原始仏教を呼ぶのではありません。

小乗とは、先ず自分が先と言う生き方全般を指し示します。



ここいで誤解しないでください、

わたしは小乗を否定しているのではありません。

求道に置いても、わたしが先と言う悟り方もあるのです。

では何故わたしが大乗を支持するのでしようね。



現在の世界はわたしが先の生き方が、生み出す世界です。

そう言う意味で小乗の生き方が生み出している世界です。

先ず、自分が幸せになり、

先ず自分が悟りを得てそれから出なければ人の為に出来ない。

そう言う小乗の生き方が、

この苦しみ多き世界を気づきあげているのです。

先ず、自分の幸せと考え人々が自分の為に動くことで対立し

誰も幸せに成れないと言う世界を維持しているのです。



悟りを求め方もその通りで、先ず、自分の悟り、

それから人の為なら何時までも世界はこのままです。

それは如何してでしよう。



先ず、自分が悟りを得る、は貴方がたがもし悟りを得て、

人の為に生きるに成ったとして、

人の為に何かを成そうと思って人を集めても小乗の、

先ず、自分の悟りと言う生き方は、

集めた人をも先ず、自分の悟りが先の人を生み出すことでしよう。

先ず、自分が悟らねば、

何も出来ないと言う人がいくら集まっても世界は何も変わりません。

みんな自分のことで精一杯だからです。



その弟子も例え上手く悟りを得たとしても、

又集まった人は先ず、自分の為と成るでしよう。

もしこの方法で、世界が変わるなら、

世界が変わるほど沢山の悟りを得る人を

一時代に生み出さねば無利でしよう。

小乗の人はこれを聞くとこう言うかもしれません。

人が変わって行けば何時かは世界は変わると。

多くの人は一生グルに合えないかもしれません。

それと同じで、グルは一生弟子に会えないかもしれないのです。



例え悟っても、誰一人悟りを得るものを生み出すことすら

出来ないことも多くあるのです。

一人のグルが一人以上に必ず伝えられるなら、

既にこの世は悟りを得た人で満ち溢れているはずです。

それを言うと役に立たないことなど無いのだから必ず役に立てるはずだと、

馬鹿げたことを語るかも知れません。

それは無知だ、間違いでも何でも役にはたつが、

それが生かされて始めて役にたつたと言えるのです。

だから役に立つようにすべきであり、役に立つ努力もせず、

役に立つから大丈夫だは無知だ。



自分の悟りが先の行き方は自分の幸せが先との生き方と同じであり、

その生き方をわたしは小乗と呼びます。

この小乗の生き方が世界に苦しみを生み出しそれを維持しているのです。



それでは、小乗の意味を語りましよう。

世界において小乗の生き方とは、

早く世界を人纏まりにし世界を熟成させる為の神業です。

では自己の悟りが先はどうでしよう。

先に悟りを知るものが現れねば、大乗もありません。

だから先に小乗があらねば、大乗もないのです。

先ず小乗で、悟りを得るものがあり、大乗に気づくのです。

個人的悟りを優先することは世界の多くの人の

悟りにはつながらない事を気づくから大乗が現れるのです。

だから小乗が先大乗が後となります。



世界においてこの幸せの追求が先で世界の幸せが後と同じです。

この幸せの追求は個の幸せにはつながらないと

個の幸せの追求が教えてくれるからです。

だから個の幸せの追求と、

自分の悟りが先の生き方は同じ次元のものなのです。



だからこれをまとめて小乗とわたしは呼ぶのです。



個の幸せの追求は個を世界を幸せにはせず。

わたしの悟りが先の生き方は、多くの人に悟りをもたらさないのです。

個の幸せの追求も良いが、

それでは個は幸せになれないと気づいてその意味を持つのです。

個の悟りの追求も良いが、

それでは多くの人の悟りにつながらないと気づいてその意味を持つのです。

世界は個を育て、個は世界に影響を与え互いに変化して行くます。

世界が変われば、個も変わるのです。

それを邪魔するのが、わたしが先です。



ここで宣言するよ、インドの聖者の誰が、

個人の悟りを先にしなさいと言ったとしても、

それは方便で、もしそれが本気なら、それは無知だ。
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20:12:25
みなさん今日は。

必要なものを必要なくらい作り出し、分け隔てなく分配できる
能力を世界は既に備えている。
それをお金と言うものが、邪魔をしているのです。
お金が無ければ、リサイクル問題も燃料問題も
食料問題も環境も解決できることでしよう。
もう奪い合う必要はは無いのです。


人は自分たちが生み出している、経済に翻弄されている。
人は自分たちが生み出し維持している景気に振り回され、
コントロールも出来ない始末です。
コントロールも出来ない景気の建て直しに追われているよりも、
景気など無くしてしまえば良いのです。


それを誰も考えず、
経済が無ければ世界は維持できないと信じ込んでいる。
馬鹿げたことだ。


誰もが幸せになれるように考えれば自分も幸せに成れると言うのに。
例え今景気が良くなっても、誰も幸せにならず、
その内にまた景気が悪くなることでしよう。
本当に馬鹿げているね。

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2013/10/16
06:04:41
みなさん今日は。これ掲示板からの転機です。


今日は良い題材をゆまさんから頂きました。

>私が精神世界の本を読み出した時、全てに感謝しましょう、
>ありがとうを唱えよう、
>等々に出会いました。
>しかし、感謝しようとすると、目的のある感謝のふりにしかならず
>それは本当の感謝にはならず、悩んだ時期がありました。


ゆまさん、ような質問は良く、Tさんから頂きました。


ですが、わたしは以前よりもっと明確な回答ができます。
先ず、「しかし、感謝しようとすると、
目的のある感謝のふりにしかならず」は何故成らないのかの理論です。


>「目的のある感謝のふりにしかならない」


この言葉には秘密が隠れています。
この言葉は、目的のある感謝では駄目だだね。

目的のある感謝では駄目だは、目的のある感謝ではなく、
目的のない感謝に成らねば駄目だと言うことですね。
目的のある感謝から目的のない感謝に成らねば成らないは目的だね。


何故、感謝に目的が入るのか、
この目的により感謝が行われているからです。
目的のある感謝では駄目だが消え去ると、
目的のある感謝の目的は消え去るのです。


目的のある感謝では駄目だが、既に目的であり、これが、
感謝にも目的を与えているのです。


ちょっと難しいから良く考えて。


人は人である限り、目的がある、世界を見てごらん、
どんなに善人ぶった人であろうと、目的がある。


だがね、自分が良く思われたい、等の様々な目的のために、
感謝や愛や優しさであったとしても、
そのおかげで世界はいくぶん住みやすく成っていて、
救われている人も多く居るのです。


もし、目的のある感謝や愛や優しさは駄目だと世界中の人が
思ったら世界はどうなります。
ゆまさんに嫌がらせしているような人が、普通の人と成りますよ。


もしゆまさんに嫌がらせした人が、目的のある感謝でも出来たら、
嫌がらせは出来ないのです。


目的とは、人の悪の働きも抑えているのです。


もし、人から攻撃を受けるのは嫌いで、
自分は目的のある感謝は出来ないと言ったら都合が良すぎませんか?


ゆまさんは、如何して、目的のある感謝だから嫌なのです。
それで少しでも人のお役に立つなら良いではありませんか?


それでは、嫌だとは、それが目的であり、
自分のこと優先で考えるから嫌だになるのです。
その思いが、感謝に目的を持たせているのです。


目的を無くすには二つの方法がある。
一つは、捨てる道で、一つは広げる道です。
広げる道を歩くものが多いほど、この世はより良くなるのです。
広げる道においては、正見が必要です。
人が感謝出来ないのは、無知だからです。
だから感謝できるはそのまま悟りです。


我々は過去の一切、現在の一切、未来の一切と依存して成立しています。
これを知ったら、感謝せずには居られないのです。
あなた方の悟りさえ依存して成立するのです。
悟り自体は在るがままのもので、一切に依存していません。


ですが、そこに行くまでは初めからそれだと知るには依存して行くのです。
みなさんの感受性が極限に達したとき、何を見ても涙がこぼれてきます。
全てが愛おしくて愛おしくて、涙が流れ落ちる。


わたしは、一滴のみぞれが肌に触れたときそれが来ました。
その一滴に、永遠と無常を見たのです。
そこまで行くまでは、愛にしても感謝にしても努力が必要なのです。
この努力を放棄するものが、世界の多数に成ったら、
人は苦しくてこの世界では生きることが困難に成ります。


目的のある愛や感謝が少しは生きやすい世界にしているのです。
これは神からの贈り物なのです。
目的のある愛は慈悲は感謝は何時かは目的を無くさねばなりません。
だがどうせ無くすなら人々のお役に立つように、広げて無くすべきです。


・世界の人々よ平和に幸福に豊かにそして苦しみなく長寿であれ。
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2013/10/29
03:36:01
これは全部中道を語ったお釈迦さまの言葉です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
両極端を知り尽くして、良く考えて両極端にも中間にも汚されない、
彼をわたしは偉大な人と呼ぶ。
彼はこの世で逢う 女(煩悩)を超えている。
スッパニパータ、1042


カッチーヤナよ、「あらゆるものが」有るというならば、
これは一つの極端説である。「あらゆるものが無い」というならば、
これも第二の極端説である。
人格を完成した人はこの両極端に近づかないで、中道によって法を説く。
サンユッタ・二カーヤ


ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、
想い無きものでもなく、想いを消滅したものでもない。
このように行じたものの形態は消滅する。
けだし広がりの意識は想いを縁として起こるからである。
スッパニパータ、874


マガンディヤよ、「わたしはこのことを説く」と言うものがわたしには無い、
諸々の事物に対する執着を執着であると
確かに知って、諸々の見解における過誤を見て、固守することなく、
省察しつつ内心の安らぎをわたしはみた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここで注目したいのは、「「わたしはこのことを説く」
と言うものがわたしには無い、」これです。
これが如何して中道なのでしよう。


もう一つ。「人格を完成した人はこの両極端に近づかないで、
中道によって法を説く。」これ。


これが表す意味とは、何だろうね。


人格の完成とは、両極端から離れることなのです。
だから人格の完成者は中道により法を説くわけです。


では中道により、法を説くとは一体なんだろう。


これが
「「わたしはこのことを説く」と言うものがわたしには無い、」これなのです。
ではわたしはこのことを説くというものが無いとはなんでしよう。


明らかにお釈迦様は何かを説いているように見えますね、だが、
お釈迦様はわたしはこのことを説くと言うものが無いと言っている。


面白いね。


この意味とは、この様なことです。
これは白である、これは黒であるがこのことを説くと言うことなのです。
ですが、お釈迦様の説かれる教えとはこれは白でもなく黒でもなく、
また白であり、黒である。これが中道によって法を説くと言うことで、


また何かを説くと言うものが無いと言うことなのです。


スッパニパータ、874を見てごらん、これを説くと言うことが無いね。
これは般若心経も同じになってます。
だが何かを説いている様にも見えます。さて何を説いているのでしようか?
このことを説くと言うことが無いを説いているのです。これが超越なのです。


わたしは、以前、法とは内容ではありません。
こだわりからの超越それが法ですと教えです、と言いましたね。


教えとは内容が大事でなく、
こだわりからの超越が大事でだから内容が大事なのです。


わたしも同じでこれを説くと言うものはないのです。

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2014/01/07
12:14:12
皆さんこんにちは。


今年のお正月はテレビが壊れてね、
二日からテレビを買いにある大手電気店に行ったのです。


嘘だらけのトークは苦手てだから、
出来るだけ自分で決めたら店員さんを普段は呼ぶのですが、
今回はしつこい店員さんに付きまとわれて相変わらずの嘘だらけに困りました。
あおられても、あおられないからこう言うのは非常に苦手です。


そこで今日の一言です。


民主主義と主本主義は人々に多くのものを与えてくれました。
民主主義はある一定の自由を与えてくれて、
その結果エゴまみれの世界を与えてくれました。


主本主義は物を売るために次々と新しいものを生み出し
欲しいものを作り続けなくては成らず
便利な世界になったが、
分配が上手くいかず必要なものが必要な人に行き渡らない。


また今の税制は物が売れ続けなくては成立せず、
税制自体がその足を引っ張る。実に面白いね。


ですが良く考えてみて、力で支配されており全く
自由が無く物も無い世界から見たら素晴らしかった。


だがその素晴らしさが熟成してくると問題だらけになってきて、
まるで悪の世界のように見えてくる。
こうして、何時の世界も変わるのです。


だから変わる兆しは人が世界を問題だらけと見えてきたときです。
だから、だから夜明けの前は闇と決まっているのです。

世界一家以外のどんな世界も長所と短所を持っており、
初めは長所が働き、熟成すると短所が働き出すのです。
そうやって世界は世界一家に向かって進むのです。


過去や今の世界がどんなに悪に見えても必要だったのです。
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13:27:02
本日は、日月神示で語られる、和合と悪和合を掲示板から転記です。

兄弟の皆さん今日は。


>神示には、差を含めて全体として弥栄(進化)していくとあったと思います。
>性別や立場の違い、また能力差などがあって、それらを認めてそれぞれの役を請
>け負って栄えるのだと。


それはね、mkさんmkさんはまだ和すを体験していないから
和すと言うことの理解に混乱が在ります。
体験の前は頭で理解するしかないから。
和すをが理解出来るまで和すのお話をしましようね。


神示には悪とも和せと書かれていますね。
これがもしmkさんが言う和すなら悪人は悪人のままで良いとなります。
でも神示では悪の世は終わったとも書かれていますね。


神示には和合と悪和合の二つの和合が書かれていて悪和合はダメで
和合せよと書かれていますね。


この違い良く理解して和合とは神を中心とした和合で。
悪和合とは神の無い和合です。


私の言う和合は神を中心とした和合で。
mkさんが言う和合は神の無い和合なのです。


これはね、違いを認めると言うことが体験されておらず、又理解も
足りないから悪和合になってしまうのです。


違いを認めるとは分別を超えて分別の中に生きると言うことです。
違いを認めるとは無差別を自覚し差別の中に生きると言うことです。


mkさんが言う違いを認めるとは分別を越えずに分別を認めること。
無差別を知らずに差別を和そうとすることで神がいないのです。


悪と和合するとは善悪は神働きであると知ることで悪は消え去ります。
如何なる宗教も一つから流れ出たものだと知ることで宗教の異なりを
超えて異なりの中で生きることが出来るので、そうなったらもう既存の
宗教とは言えず新しい宗教と言えます。


異なりを前提にした和合に神はいないのです。
神とは異なりを超えたものですから異なりを超えて異なりに生きるのが
神を中心とした和合なのです。


人は分別を超えても分別の中で生きなければなりません。
その時、始めて分別は和合するのです。


そに時始めて異っていてもことなってはいないと言う境地に達するんのです。
mkさんの言う和合は悟りの無い和合で本当の和合では無いのです。


皆さん考えてごらん、今でも日本では異なりを認めて世界は作られています。
ただ異なりを認めて和す世界は今の日本では無いですか。
異なっているとの前提でどんなに表面的に和しても戦いは消えません。


少しはましな世界になるだけなのです。
何処まで行っても根本的には何も変わりません。
分別を超えて分別が和合されて始めて愛は本来に帰ることができるのです。


神の無い和合は悪和合なのです。


統一が無い神の無い和合は形だけの表面だけの和合でその和合には我慢が
必要で神和合には愛が全てであり我慢は無いのです。


ようはね悪和合は悟りの無い和合で和合は悟りのある和合です。
私にはね統一無い和合はね幸せの無い幸せ偽りの幸せと見えるのです。
悟りの無い幸せは有り得ないからね。
これを悪和合と神示では言われます。


そもそも誰もが悟る世界に人が考える和す、
違いはそのままで和すが必要だろうか?
神示は異なるの超え方を教えているのでは無いだろうか。


異なりを超えて始めて和が生まれます。
それは表面的に宗教を一つにすることではありません。
枝にすることなのです。


mkさんこれでどうだろう、和合と悪和合がわかりますか?
分かららなかったら聞いてね。
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2014/06/10
03:25:31
兄弟の皆さん今日は。
本日は掲示板から転記です。


目覚めの時が一番心が落ち込み安く出来ております。
何時でも変わらず、勇んでいることを不退転と言います。


不退転とは仏教の言葉で仏に成ることが約束された
状態の心を言います。


誰でも何時かは約束されているのですが
それは無限の輪廻の先かも知れず。
不退転とは確定した人のことを言います。


>死の宣告をされたひとは意識状態がガラリと
>変わると聞いたことが有ります。
>今に生きる人は常にその状態で生きているのでしょうか?


死に近づくとチャンスなのです。
何故、死の宣告を受けると生き方が変わるかと言うと
今まで大事にして来たものが死に際しては
意味を失うからです。
永遠に生きることで死を意識する前の人生は
意味を持っていたのです。
ところが死が近づいて来たことを知り、


その生き方は意味を失い始め生き方が
変わって行くのです。
死に面と向かって立ち向かう前は死なないと言うことで
成立する誤った行き方をしているのです。


常に永遠なる私を自覚したまま生きていると言う
感覚も無く生きております。
この様な人はもう二度と死ぬことはありません。


ジュンさん、二度と死ぬことは無いを永遠の生を
体験して見たくはありませんか?


フェイスブックでも活動しております。
是非お友達になって下さい。
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2017/03/11
06:25:26
事物には裏と表ありまして裏表で事物は
出来ているんでございます。

裏表は裏表であるなすから一見矛盾して見えて
違うものに見えるのでございますが裏表は裏表ですから
ひとつのものに決まっております。

教えと言うものは矛盾が無いように側面から説かれまして
側面から説かれた教えを方便と申します。

極と極は裏表でありますからひとつの物なのでご御座いまして
この中心、真ん中が中道で御座して極と極を繋ぎ中心に
あることが大和のひとつなので御座います。

例を申しますと
無我と一切は私はひとつの状態の二つの側面でありまして
故に裏と表なのです。
一切が私なら無我でありまして無我なら一切が私なので
ありますがこれが中々理解されず対立にもなるので御座います。

明け渡しの裏は成るで御座いまして
貴方が瞑想になりましたら瞑想で無いものは無いので御座いまして
これが私がお勧めしている二十四時間瞑想です。
貴方が仕事に成れば貴方が仕事ですからもう失業は
無いので御座います。
明け渡しせば何かに成るので御座います。

神と仏も本体は同じでありましてその働きが
異なるので御座いまして

無と有も裏表で御座いまして
有の本体は無で御座いまして
無の姿は有なので御座います。

どちらが真実か?と言うんはこの疑問じたいが
そもそも間違っているので御座います。
裏表は二に
二二不二で御座います。

対極は裏表で一体だとご理解いただきまして
有るからはなれて無いからはなれて有る無いからも離れまして

宇宙の一本の木と見ていただけましたら幸いで御座います。

フェイスブックでも活動してます。
明日の日本を考えるグループです。
絶対なる存在を信じているか信じたい人で
より良い明日の日本を一緒に考たい人是非ご参加ください。
https://www.facebook.com/groups/1862871873998788/

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